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いえ、私はただの人魂です。  作者: esora
祝福の代償
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159 神官と鏡

「ふむ、少々困りましたね」

「そう? そのわりに全く困っていないように見えるけどぉ」

「おや、そうですか?」

 顎に手を当てて考え込む男はそう言って首を傾げるとにっこりと微笑んだ。彼の周囲を浮遊する小さな鏡には妖艶な美女が映っており、彼女は困ったように笑うと頬杖をつく。

 彼らの目の前には何やら図形と思われるようなものが描かれた壁がある。

 赤い線で描かれているものを眺めながら、男はぶつぶつと呟いた。

「神聖古代文字ね。懐かしいわぁ。この授業面倒で嫌だったのよねぇ」

「性質が反するからですかね」

「貴方は得意そうね」

「そうでもありませんよ。教会の中でもこれを解読できる者は限られるでしょうから」

「そう言いながらスラスラ読んじゃって」

 彼の口から聞こえる言葉を拾いながら鏡の中の女性はわざとらしく肩を竦めて溜息をついた。薄紅梅の緩くうねった髪が大きく開いた胸元にかかる。

 甘い声を紡ぐ唇は新鮮な果実のように瑞々しく魅力的だ。

「なるほどね。これは、厄介だわ」

「ですね。コレはそうでもないのですが、とりあえず……」

 男が壁に手を翳すと、描かれていた文字や図形が変形していく。ぐるぐる、と渦を巻くように壁の中を動いていたそれらは中央の小さな穴に吸い込まれるように消えていき、最後にその穴も消失した。

 少しするとぼたり、ぼたり、と何かが垂れる音が聞こえた。天井から落ちる泥水のような液体が地面に落ち、そこから蝶が生まれる。

 赤、黒、図形のような紋様が描かれた羽を持った蝶はゾゾゾゾと嫌な音を立てながら次から次へと生まれてくる。

「あら歓迎されてるのね。こっちなら私の得意分野だわ」

「ではお願いしますね。私はまだ調べたいことがありますので」

「もぅ。オルちゃんたら冷たいんだから。そんなんだと、娘ちゃんにも嫌われちゃうわよ」

「残念ながら私には娘も妻もおりません。愛人も、おりません」

「えぇ、つまらないじゃない。損してるわよぉ。って、そうじゃなくて、マザーの娘ちゃんのことよ」

 トシュテンは手袋をはめたまま宙に何か文字を書き始める。それを見ることなく鏡は湧くように出てくる蝶を消していた。

 鏡の中の女性は相変わらずゆったりとした椅子に座っており、綺麗に磨かれ装飾がされた爪を見つめている。

 次は蝶柄でもいいわねぇ、なんてのんびりとした口調で呟きながら。

「あぁ、それでしたら御心配なく。私が御息女に嫌われるということは有り得ませんので」

「あらぁ、久々に見たわオルちゃんのその笑顔。そう。お気に入りなのね」

「マザーの大切な御息女ですから」

「うふふ。そうねぇ」

 彼女は彼がどのくらいマザーを敬愛しているかを知っている。揺らぎなく、淀みなく告げられた言葉は真実だ。

 今まで隠されてきた存在が明らかになり、内部では動揺する者も疑う者も多くいるというのに彼は揺らがない。

「でもまさか、貴方が直々にとは思わなかったわぁ」

「他の者では御息女に何があるか分からないでしょう?」

「でもそんな貴方だって、離れちゃってるじゃない」

 長い指がパチンと鳴らせばカラフルな芋虫が現れる。芋虫は湧き出る蝶をのんびりと食べていく。もっとデコったほうが良かったかしらなんて呟いて、女性はくるりと人差し指を動かした。

 二匹、三匹、とカラフルな芋虫が増えていく。ネオンカラーの芋虫は電飾しているかのように体の模様を点滅させながら蝶を食べていた。

 顔にあたる部分にサングラスをつけているのは女性の趣味だろう。

「可愛い可愛い箱入り娘だっていうのに、久しぶりに起きたらこの有様だものね。可哀想に」

「声が楽しそうですが?」

「うふふ。だって、あの子面白いもの。マザーの愛娘だけあって可愛らしいのは当然だけど、反応が楽しくて」

「一国の主たる方が覗き見ですか」

「違うわよぉ、見守っていたの。外界の覗き見が趣味なのはエステル様でしょう?」

「怒られても知りませんよ」

「あらぁ、ご褒美だわ」

 両手を合わせてクネクネと動く女性に合わせ、芋虫たちもクネクネと動く。そうしていると、芋虫たちの体に蝶のような羽が生え始めた。

「ちょっと、オルちゃんそれ……」

「反動来ます。衝撃に備えてください」

「んもう!」

 表情ひとつ変えずにトシュテンはそう告げる。それと同時に防御壁が彼らを囲み、壁から放たれる衝撃を防いだ。

 溜息をついた女性は、頬を膨らませて彼の無謀さを責める。

 トシュテンはパンパンと手袋を嵌めた手を叩いてから服の汚れを払う。服の汚れがないかをチェックすると鏡に向かってにこりと微笑んだ。

「ありがとうございます。さて、そろそろお迎えにいきましょうか」

「あら、いい笑顔。お土産にこの芋虫連れて行ったら娘ちゃん喜ぶかしら?」

「嫌われたくなかったら止めたほうがよろしいかと」

 いつの間にか湧いていた蝶は姿を消し、代わりにまるまると太った芋虫が転がっている。もぞもぞと動くその姿を横目で見た彼は小さく息を吐いて崩壊した壁に背を向けた。

「いい子にしていてくれるといいんですが」




ぶるり、と寒気がしたコスモスは大きなくしゃみをする。心配するエステルに大丈夫だと返して眉を寄せた。

 本を読んでいたアラディアは溜息をついて背もたれに体を預ける。

 疲れたように眉間を指で揉み解すとコスモスに気づいたのか、その瞳を細め優しく微笑んだ。

「ありがとうございます、精霊様。お陰で少し手がかりを得られました」

「手がかり……日記には呪詛みたいなことしか書かれてなかったような気がするけど」

 読んでいるだけで気分が沈み嫌な気持ちになる日記だった。それだけその日記の主が経験したことが悲惨だったということだ。

 善良に思っていたリーランド家でもそういう出来事があったのかと思った程度で、意外とショックを受けていない自分に苦笑しながらコスモスはアラディアを見上げる。

 転がっていたペンを拾って、メモ紙を見つけたコスモスはそこにさらさらと文字を書く。


“何か分かりました?”


 ちらり、とアラディアを窺えば彼女は驚いたように紙に書かれた文字を読む。それから恐る恐るといった様子で口を開いた。

「これは証持ちの日記でした。ええと、内容は……」

“ごめんなさい。先に読んでしまいました”

「いえ、構いません。寧ろ、我が家の恥を晒してしまい申し訳なく思います。では、話が早いですね」

 正直に先に読んで内容を知っていると書けば、アラディアは怒るどころか申し訳なさそうな表情をして眉を寄せた。泣くのを我慢しているような顔にも見えて、コスモスは彼女の言葉を待つ。

「この証持ちは自死した後に結晶化しています。そしてその余波は相当な範囲に及ぶようです。結晶化してしまった証持ちは当然のこと、石化してしまった人々も元には戻りませんでした」

“鉱山内での結晶化とはまた違うパターンですね。しかし、ユリアはそのどちらにも当てはまっていないのでは?”

「ええ、その通りです。どちらかと言えば後者になるかもしれませんね。ユリアは頻繁に鉱山へ出入りしていたようですから。体内の毒が蓄積して限界を超え、結晶化したと考えられます」

“しかし、実際それを目にしていないのでそうとも言い切れないですね。ドリスさんが知っているといいのですが”

「はい。あの子がどうしてこうなったのかは、ドリスが一番よく知っているでしょうから。御心配なく。身内とて、容赦はしません。彼女は我儘が過ぎたようですね」

“ユリアはまだ生きています。完全に消滅はしていないので、もしかしたら助かる方法があるのではと思うのですが”

「本当ですか!?」

 ガタンと立ち上がり大きな声で叫んだアラディアに、コスモスの手からペンが落ちる。慌てて手で口を押さえた彼女は深呼吸をしてから椅子に座りなおすと、コスモスが落としたペンをそっと拾った。

「びっくりした……知ってたと思ったんだけどな」

霊的活力(オーラ)を見るとしても精度に幅があるからな。視る人によって変わる』

「そうなんですか」

『お主は慧眼持ちだから些細な変化も見逃さぬのだろう。その姿だからこその特権かのぅ』

「嬉しくないですね」

 愛しの体がないのならその嬉しさは半減してしまう。元の体があったらあったで、邪魔だなと思うことは多そうだがと思いながらコスモスはじっと自分を見つめるアラディアに気づいてペンを動かした。

“微弱ですが生存反応があります。ひどく衰弱している状態ですが、ユリアの気配は残っています。霊的活力(オーラ)を見るのが得意な者がいれば感知できるかと”

「なるほど。ロシェ、すぐにお母様を呼んでちょうだい」

「はい」

 部屋に控えていた侍女が一礼をして出て行く。はぁ、と溜息をついたアラディアはすっかり冷めてしまったお茶を飲み干してペンを持ったままのコスモスを見る。

「娘が大変な状態だというのにすぐ駆けつけもしない親を薄情だとお思いでしょう?」

“うーん。御家庭のことはよく分かりませんが、お母様? はユリアがまだ生きているのを分かっていたのでは?”

「……お母様が、知っていた?」

 多忙な人物だと聞いていたのでユリアが結晶化という不測の事態になったとしてもすぐに駆けつけられないのかもしれない。

 仕事など放置してすぐに来ればいいものをと思うのだが、彼女が放り投げれば家が傾く可能性もある。

 どういう状況にいるのかは分からないが、霊的活力(オーラ)を見るのが得意な人物として母親をあげるとするなら、感知しているかもしれないとコスモスは思ったのだ。


『ふむ。その可能性は高いかもしれんな。昨夜、微かな揺らぎが邸内にあったが、あの気配がもしかしたら母親かもしれん』

『えっ、知らないんですけど』

『そりゃもう、スヤスヤと寝ておったからなぁ』


 起こしてくれてもいいのだがエステルなりに労ってくれたのだろうかとコスモスは考える。ただ単に危険が無かったからかもしれないが。

 少しでも時間があるなら休息しろとエステルからいつも言われていた。いざ、という時に動けなくなるのを防ぐためだろうと思っていたが、体内にある精霊石をなじませるためでもあるらしい。

 コスモスとしては辛いという感覚はないのだが、エステルの言葉に従っても損はしないので時間があると寝るようにしていた。

(夜中も警戒してくれてるのかしら。だったら、ちょっと申し訳ない気もするわ)

 コスモスはもう少しエステルのことを労ろうと思うのだった。


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