155 ドリス
彼女は満たされていた。
大きな家に仲の良い家族、求めれば与えられる環境に他よりも裕福な家庭に生まれたという優越感。
不満らしい不満はなかったが、退屈だと言っては何か面白いことはないかしらと刺激を求めていた。
恐らく、そこにつけこまれたのだろう。
「はぁ」
欲しいと言えば買い与えられる服飾品や流行の香水。食べたいと思えばそれを口にできる贅沢さ。
恵まれているというのは自覚している。だが、それは生まれ持った運というものだから何が悪いと思っているのも事実だ。
できれば貴族である父の実家に産まれたかったと思ったこともあったが、窮屈な毎日に耐えられるかなと言われ諦めた。
勉強、レッスン、勉強、レッスン。
今でさえ逃げ出したくてたまらないというのに、貴族の家に生まれればより面倒なことばかりが増えてしまう。
要領のよい彼女は学業も優秀で、マナーやダンスのレッスンも怒られることは滅多にない。
卒なくこなしてしまえる己の器用さに惚れ惚れするのはいつものことだが、それ故に慢心するなと両親や姉には注意されていた。
そんなもの、自分の才能を羨んでいるからだと適当に聞き流していたがこういうことかと実感する日が来るとは流石の彼女も予想していなかった。
「もー何なのよ。デニスは話が通じないし、あの女もこっちの話は無視するし。私を誰だと思っているのよ」
せっかく流行の服を着てお洒落にしても、こうも汚れてしまっては意味がない。見るに耐えない姿だが文句も言えずに膝を抱えて息を吐く。
隙を見て逃げ出してきたのだ。ここで捕まるわけにはいかない。
「家に帰る……のはきっと無理よね。あいつの手下が潜り込んでるだろうから危険だし。お父様の実家はよけい無理だわ。恥さらしがとか言って吊るし上げられそう」
他にはどこか良い場所はないだろうかと探すが見当たらない。あまり気はすすまないが協会に保護してもらうしかないかと考え、彼女は頭を左右に振った。
「教会なんてあの女の本拠地みたいなものじゃない。ダメダメ。あー、もうイライラする」
どうして自分がこんな目に遭わなければいけいないのだろう。私は何も悪くないのにと言いかけて、彼女はぐっと唇を噛んだ。
可愛い妹が目の前で結晶化していく姿を思い出し、彼女をあそこまで追い込んだのは自分だと奥歯を噛み締めた。ギリギリ、と歯軋りをさせながら言い訳のように呟く。
「違うもの。ちょっと、驚かせようと思っただけだもの。ほんの少し、意地悪すればそれで良かったのに」
自分は悪くないと言い訳をしながら爪を噛む。
不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、自分は被害者だと思うことで逃げ切ろうとした。
だが、目を閉じて頭に浮かぶのは自分を見ながら結晶化してしまった妹の姿。
「だめだわ。私が追いつめたんだもの」
殺したいほど憎悪していたわけではない。ちょっとした嫉妬心だ。
「本当は殺したいと思っていたのでは? いなくなってしまえばいいのにと思っていたでしょう?」
胸焼けがするほど甘ったるい声がどこからか聞こえて彼女は周囲を注意深く見回した。もう見つかったのかと暫く息を潜めていたが誰かが目の前に現れるということはなかった。
そう長く一緒にいたわけではないのに、あの女の声や姿がこびりついて離れない。
自分が逃げたということに気づいたら血眼になって探し出すかと思えばそうでもなかった。どうでもいいと思っているのか、それとも逃げる先などなく帰ってくると思っているのか。
どちらにせよ、考えれば考えるほど彼女たちに軽んじられている己の身が恥ずかしくてしかたがない。
感情に任せて叫びたくなったが、自分の身を危険に晒すことはしたくなかった。流石にそこまで幼稚ではない、と疲れた体を叱咤し立ち上がった彼女は深呼吸をする。
どうにでもなれ、と腹を括った。
数発ぶたれたらそれでいい、と覚悟していたが何事もなくゆっくり休むように言われ気落ちしてしまった。
泥だらけで見るに耐えない姿を綺麗にしてから、重い体をベッドに横たえる。リーランド家にある自室に比べれば室内は簡素で寝台も寝心地はよくない。
だが、文句を言うこともなく彼女は目を閉じる。一晩中あてもなく彷徨い続け、何とか勘を頼りに自分の管理している鉱山内に隠れていたのだ。
もしかしたら追っ手が来るかもしれないという恐怖に一睡もできず、アラディアの部下が来た際にも酷く怯えていた。
「はいはい、お邪魔しますね」
そんな精霊もどきの声など彼女の耳に聞こえるわけもなく、リーランド家三女ドリスは深い眠りに落ちていた。
「ふむふむ。衰弱している様子だけど、核に傷はないし大丈夫みたいですね」
『前に視た時と比べてどうだ?』
「うーん。まだ黒さはありますけど、あの時よりマシですね」
『そうか』
「マスター、今後それは進行しそうか?」
「どうかしら。本人次第としか言いようがないけど、進行するものなの?」
「恐らくは。全てが黒くなってしまった時はどうなるか分からん。朽ちて死ぬか、それとも……」
「それとも?」
音もなく姿を現したアジュールは眠っているドリスを確認すると、くんくんと鼻を動かして宙に浮かぶコスモスを見上げた。
「レサンタ王のことを覚えているか?」
「……魔物化するかもしれないってこと? 人間が?」
『なくはないな』
「マジですか。負の感情が溜まると人外になっちゃうこともあるなんて」
「マスターが読んだ本にそういう記述のあるものはなかったのか」
「うーん。物語のお話としてはいくつかあるわね。あとは……」
適当に読んでいた本の中にそんなものがあっただろうかと探す。もっと真剣に読み込んでおくべきだったかと思ったが、それでは日が暮れる。だからパラパラと流し読みしていたことを思い出した。
マザーもそれで良いと言っていたのでいいんだろう。
「ん?」
「どうした」
「いや、読んでた中にあったみたい。人が魔物化する事例は過去にも何件かあったようだけど、そのどれも魔術や呪術が関係しているわ」
「……その通りだな。動物だけでは飽き足らず人体実験を始めた頭のおかしい魔術師や、怪しげな組織が良くやることだ」
溜息をついて吐き捨てるように告げたアジュールが気になったが、触れないでおく。時代は変わろうと人が変わるわけではないと静かに告げるエステルにも何も言えなかった。
「どこの世界、どこの時代でもそういう人はいるのね」
「いるな」
「いっそ世界なんて滅べばいいのでは? って思っちゃうわよね」
「……マスター、口が過ぎるぞ」
何の気なしにサラリと口にした言葉をギョッとした様子でアジュールが咎める。他人事だからそう言えるのだろうと自覚しているコスモスは小さく笑い、溜息をつくエステルの声を聞いた。
「すみませんでした」
「ふぅ。あの男が聞いていたら笑顔で説教だな」
「告げ口しないでよね」
「そんな面倒なことするわけない」
マザーの娘たるものがそんな発言をするとは、と長時間説教される様子を想像したコスモスは嫌な顔をして溜息をついた。
この国内で自分の姿を見られるものが多いが声は届かないので油断していた。
「マスター、この女に触れてみろ」
「は? 私に寝込みを襲えと?」
そんな真似はできませんと言うコスモスだったが、赤の双眸に見つめられて大きな溜息をついた。反対するかと思ったエステルも何も言わず様子を見ている。
「お休みのところ失礼します」
聞こえていないとは思うが一応そう断りを入れて、コスモスは深い眠りについているドリスの腕に軽く触れた。
しかしドリスの様子は変わらない。
数分待ってみてもそのままだったので、アジュールがもういいと言うのだが彼女は動こうとしなかった。
「マスター?」
「うーん、もうちょっと待って」
触れた箇所から視えるドリスの様子にエステルが興味深そうに何やら呟き始める。何も変化がないので離れようとすれば、そのままでいろと言われた。
『コスモス、視えるか?』
『霊的活力なら見えてますよ』
『黒い影は?』
『見えますけど、エステル様は見えませんか』
『薄っすらだが靄のようなものなら見える。お主ははっきりと見えるか?』
『見えますね。前回見たときよりも小さくなっているので、見えにくいのもしょうがないかと』
『やはり、間借りしている状態で覗き見しているようではうまくつかめぬか』
エステルが言っていることが良く分からないが、見えにくいのなら自分が伝えればいいだけの話だろう。
ドリスの霊的活力の状態と黒くなっている部分を説明すれば、少し悩んだような声を出してエステルは静かになった。
「マスター?」
「エステル様が思案中なの」
「そうか」
理解したアジュールはそのままコスモスを見つめる。少しすると眠っていたドリスが苦しそうに顔を歪めて呻き声を上げた。
悪夢にでも魘されているのだろうと思った彼だが、次の瞬間に目を鋭くさせて主を見る。
先ほどから何も変わっていないコスモスを注意深く見つめていると、パンと乾いた音が響き呻くドリスの体から何かが出てくる。
それは今にも崩れてしまいそうな蝶の姿になり、くるくるとその場を回り始めた。
「アジュール」
「分かっている。コレを追えばいいのだな」
「さすが優秀な従者は違うわね。無理しない程度にお願い」
従属する魔獣に対する言葉とは思えんなと口には出さずに笑ったアジュールは、返事の代わりに軽く尻尾を揺らすと部屋の窓から出て行く蝶を追って姿を消した。
『ふむ。アジュールなら間違いなく突き止めるだろうな』
『でしょうね』
『問題はこれからだ。とりあえず、アラディアの様子を見に行くぞ』
『えっ、また不法侵入ですか?』
『そんなわけなかろう。こちらが挨拶して入ったところで向こうには聞こえていない。あぁ、なんと悲しいことか』
嘘泣きしながらコスモスに同情する言葉を口にするエステルをさらりと無視しながら、失礼しましたと告げてコスモスは部屋から出て行った。
このために上手くアジュールを追い出したんだろうかと思ったコスモスだが、さすがにそれは考えすぎだと笑う。
『声は聞こえないですけど姿は見えるんですから、下手なことはできませんけどね』
『なに、お主が勝手に入ってきても怒らぬだろうよ』
『はいはい。ここでは丁重にもてなしていただいている“精霊様”ですからね』
『それが嫌ならマザーの娘だと名乗ればよかろう』
『……そんな事をしたら余計にややこしくなるの分かってますよね?』
『ハハハハ』
彼女たちが勘違いしているのを利用して正体を明かさないのは卑怯だと分かっている。だがここで自分がマザーの娘だと言ったところで現状が良くなるとは思えなかった。
寧ろ、教会の介入を危惧し遠ざけるだろう。
『ここでの教会の立場ってどうなんですかね』
『ん? 普通ではないか?』
『聖地なのに管理しているのはリーランド家。内輪もめが起こって証を持つ者があんな状態なのを知れば、月石鉱山を取り上げられませんかね』
『ああ、それはもう既にやったから無理だな』
『やった?』
教会がそんなことするわけがないだろうという言葉をどこかで期待していたのかもしれない。あっさりとそう告げたエステルに、コスモスはぽかんとした顔をする。
神とその代弁者とも言われるマザーに忠誠を誓った者でもそうなってしまうのか。それともマザーの命令でそうしたのか。
(マザーの命令とは考えられないんだけど)
教会のために、神のために、マザーのために。
そう思って一部が暴走してしまったのだと教えてくれたエステルにホッとしながら、コスモスは廊下の窓から外を眺めた。
鬱蒼とした森は何かが潜むにちょうどいい。
少し離れるがすぐ戻ってくるから心配しないでくれと告げたアルズは、今一体どこで何をしているのやらと思いながらコスモスはアラディアの部屋へと向かった。




