131 カニ
コスモスは浮遊しながら目の前の光景をぼんやりと眺め、自分の前に立って様子を窺っているアジュールに声をかけた。
「あれは、カニ?」
「カニだな」
「森なのにカニ? いや、こっちではそれもあるのかもしれないけど」
水辺なら分かるがここは森の中。月石鉱山に張られている結界を背にしながら、コスモスは首を傾げ地面に倒れて泡を噴いている巨大な甲殻類を見つめた。
ユリアとレナードに外で待機していて欲しいとお願いされて待っていると、突然巨大なカニに似た甲殻類が現れ襲ってきたのだ。
いや、正確には襲ってこようとしたのだがアジュールの威嚇に驚き仰向けに倒れたままじたばたとしている。
「森のカニとか不味そう……いやいや、もしかしたら珍味なのかも?」
「食欲旺盛でいいことだ。で、どうする? 解体するか」
「うーん。あれでも一応魔物だから食べたらお腹壊しそうだな」
「はぁ」
主人の食欲に溜息をついたアジュールは脚を動かして引っくり返ったまま動けないカニに近づく。さっさと切り刻んでしまおうと前足でその体を突けば、泡の量が増えた。
頭胸部から生えている歩脚がそれぞれバラバラに動き、前端にある鉗脚がバチンバチンと音を立てている。
立派なハサミは凶悪で周囲のものを容赦なく切り刻めそうなのに、どうしてこうも臆病なのかとコスモスはアジュールの前に出た。
ふわふわ、と浮遊しながらコスモスは仰向けになってもがいているカニを見下ろす。甲羅は青く硬そうだが腹部は乳白色で柔らかそうだ。
甲羅の縁から突き出た目は、想像以上に潤んでいて彼女は眉を寄せる。
「硬い甲羅に大きなハサミで凶悪な見た目なのに、つぶらな目がすごい」
「でかい図体しているわりにはコイツ、臆病だぞ」
「みたいね」
「とりあえず、起こしてやるか」
コスモスに触覚が触れると白目を剥いて体を痙攣させた。その後、ぐったりとして動かなくなったカニをアジュールが引っくり返そうとして動きを止める。
「マスター、水魔法は使えるか?」
「氷系の攻撃防御魔法はマザーとの修行でやったけど、水か。やったことないわ」
「……エステル様から渡されたテキストはここにはないか」
「あ! そう言えばあったわね」
水の精霊を呼んでその力を利用させてもらおうかと思っていたコスモスは、アジュールにそう言われて自分の中をゴソゴソと探る。
書物は一通り読んで記憶されているが、必要な時だけ取り出して使えるようになっているので少々不便だ。一読しただけで内容を理解し使用できる者がいるとしたらバケモノだと笑っていたエステルを思い出しながらコスモスは自分の頭の中に作った引き出しを探る。
(ええと、どこだったかなぁ)
あれでもない、これでもないと探しているとそんな彼女を助けるように幸福の蝶が飛ぶ。蝶が止まった引き出しを開けたコスモスは、それを具現化して小さく声を上げる。
「あ、これだ。『スライムでも分かる魔法書入門編』ん? 入門編……ま、いっか」
「また変な題名だな」
「これが良く分かるだろうって言うから。ええと、そうそう。思い出した」
パラパラと具現化したテキストを読んだコスモスはぐったりとするカニを見てパチンと指を鳴らした。別に指を鳴らす必要はなかったのだが、発動するにはきっかけがあれば尚良しと記載されていたのでなんとなくである。
コスモスが指を鳴らした瞬間、周囲に水の精霊が出現し滝のような水をカニの腹部へと注ぐ。大量の水を勢いよく浴びせられた形になったカニはビクンと大きく揺れて、もがくようにその脚を動かした。
「溺れるカニ……」
「まぁ、平気だろう」
水流の勢いで自力で起き上がれたカニは、大きなハサミを地面に突き立て二人と対峙する。コスモスを自分の背後へ下がらせたアジュールは低く唸りながら様子を窺っていたが、彼を見たカニはまたぶくぶくと泡を噴き始めた。
「何をするか分からんから警戒は怠るなよ、マスター」
「分かってます。って、あれ?」
「なんだ、コイツは」
その大きなハサミでアジュールに一撃与えてくるのかと思えば、カニはつぶらな瞳を潤ませたまま泡を噴くと、口部をだらりと開いて白目を剥いた。
ぐらり、とまた倒れそうだったので近くに漂っていた土の精霊と風の精霊が慌てた様子でカニの背を支える。
最小の水流でチョロチョロとカニの頭部から水をかけていたコスモスは、目を覚ましたカニを見て距離を取った。
「目はウルウルのままだし、小刻みに震えて怯えてるし、この子なに?」
「私が聞きたい。アレは演技か?」
「いや、本当だと思う。見たところ、攻守共に優れてるはずだけどオーラが好戦的じゃない。無理矢理やれって言われて来ましたって感じかなぁ」
コスモスの声が聞こえるのか、カニは潤んだ目を更に潤ませてこちらを見上げる魔獣をじっと見つめた。
嫌な予感がしてアジュールが数歩下がれば、ビターンと大きな音を上げてカニがうつ伏せになる。
「おい、やめろ。それ以上近づくな」
「カニの魔物に懐かれる魔獣。面白いわね」
「面白くない」
ボタボタとその小さくつぶらな瞳から涙を零して、カニは大声で泣きはじめた。泣きながらハサミを振り回すので、周囲の木々や草むらが刈り取られていく。
コスモスが証拠隠滅にと草むらに隠していた男たちも、気絶したまま大きなハサミによって吹っ飛ばされてしまった。
「あー。後で情報収集しようと思ってたのに」
「あの程度の下っ端を吐かせたところで意味はない。それよりマスター、こいつをどうにかしろ」
「私に攻撃無効でも、このまま暴れられると誰か来るといけないし精霊も怯えてるものね」
ユリアとレナードが戻ってくる前に大騒ぎになっては大変だとコスモスがカニへ近づこうとすれば、アジュールに吹っ飛ばされて草むらの中に落ちてしまった。
突然のことに声を荒げるコスモスだが、彼女を前足で抑えたまま伏せるアジュールは何も言わない。
「え? なんなの?」
カニを止めなきゃいけないだろうと彼女がアジュールを見上げれば、彼は頭を動かして泣き喚くカニの方へ視線を向けた。
コスモスもそれにつられるように視線を向ければ、鉱山の出入り口にレナードの姿があった。
近くにユリアの姿は見当たらないので内部なのだろう。
レナードは泣き喚く巨大なカニを呆然とした表情で見ていたが、素早く周囲を見回すとフッとその姿を消した。
「消えた?」
「素早く移動しただけだ。しかし、やはりあの男ただ者ではないな」
「声かけなくて良かったの?」
「周囲を見回したのは恐らく私達の姿を探していたのだろう。無いと分かるやホッとして移動したからな」
そんなところまで見えなかったと呟くコスモスはアジュールの前足から逃れて草むらから顔を出す。
カニの泣き声も収まってきたのでアジュールは素早くカニの前に立つと、迷惑だと言わんばかりに唸った。
「何だ? ああ、そうだったか。だったらそれを先に言え」
「言葉分かるの?」
「私も一応魔獣だからな。それよりも、また厄介なことになってきたぞ」
「えっ」
これ以上厄介なことがあるのか、と身構えるコスモスにアジュールは笑ってカニがどうしてここにいるのかを伝えた。
アジュールから話を聞いたコスモスは顔色を変える。
「妻子人質にとられて私達襲ったけど、元々戦闘向きじゃないからこうなったのね」
「こいつらは大人しい魔物だが、怒ると怖いからな。恐らくそれを利用しようとしたんだろう」
「……私達を悪人に仕立て上げるとかで?」
「いや、今回はシンプルに私達を倒さないと家族がどうなるか分からんと脅されたようだ」
目の前で捕縛される妻子を前に泣く泣くこうするしかなかったのかと思えば、倒さずにすんで良かったとコスモスは胸を撫で下ろす。
食べてみたいと思った自分を恥じる彼女が新たな悩みに唸る前にアジュールが声をかけた。
「マスターが何とかしてくれるから大人しくここで待っておけと伝えたが、どうする?」
「は? どうするって、それもう救出作戦決行じゃない。その前にユリアの様子が気になるんだけど許可なく勝手に入っていいのかな」
レナードもいなくなってしまったので、ユリアが出てくるまで大人しく待っているしかないのだがいつ出てくるのかが分からない。
その間にカニの家族が大変なことになっていたらどうしようかと眉を寄せた。
「カニさんは、私達を倒すように言われてきたの?」
「いや、結界の破壊をするように指示されたらしい。しかし、その前に私達と会ってしまってあの有様だ」
「結界の破壊って、いくらカニさん怒らせると怖いからってそんな簡単にできないでしょ」
「できないだろうな。ということは、相手にはその程度の知識しかないということだ」
結局、鉱山の守りをカニに頼むことにしてコスモスとアジュールはカニの家族を救出することになった。




