121 過去の傷
あれからどのくらいの時間が経ったのかは分からない。
相変わらずこの場所は穏やかで、安らげるのでずっとここに居たいという気持ちになりながらコスモスは軽く頭を左右に振った。
全てを放り出してこの場で怠惰に過ごすにはまだ早い。
それにこの場所の主であるサンタが良しとしないだろう。きっと彼は笑顔で帰りなさいと言ってくるはずだ。
(時間については心配しなくてもいいっていうけど、この間はここから帰ったのが一ヵ月後経過してたんだっけ?)
気づいたらマザーに膝枕してもらって寝ていたという状況だった。
マザーの部屋の片隅に自分のベッドまで誂えてもらって、大喜びしたのを昨日のことのように思い出す。
天蓋つきベッドでお姫様みたいだと年甲斐も無くはしゃいだあの時。
(そういえば、あの時は中身だけここにきたとかだったけど今もなのかしら?)
本体は王城の一室で転がったままピクリともしていないのだろう。
アジュールが近くにいるだろうから身の危険はないだろうが、騒ぎになっているかもしれない。
(何がきっかけでここから帰れたのかも分からないからなぁ。サンタさんは大丈夫ってしか言わないし)
自力でどうにもできないなら、彼に言われた通り力の制御練習を繰り返すしかない。
だいぶ慣れてきたと思ったのはコスモスだけで、サンタに言わせるとまだまだ危なっかしいとのことだ。
同じことの繰り返しは飽きるが、この先生きやすくする為ならば文句など言っていられない。最初は覚束なく不安定な力の放出も、今では他の事を考えながら安定した出力を保てるようになっていた。
(頭で覚えるよりも、体で覚えろってやつね。回数こなして経験積めばこの先も慌てなくて済むだろうし。地味だけど)
やっていることはマザーから教わった基本的な力の使い方に似ている。
あの時はケサランとパサランの力を借りて風の精霊魔法を使っていたが、今は自分の中にある精霊石の力を引き出して放出させるというものなので慣れるまでが難しかった。
吸収した精霊石から力を引き出すとはどういうことか、と疑問に思うコスモスにサンタは体内にある精霊石を意識してその力と自分の力を混ぜて外に出すようなイメージをするようにと教えてくれた。
ゆっくりと息を吐きながら狙いを定めて集中すると、燃え盛る火球が出現して的を破壊する。
(あー、火力調節まだ上手くならないわ)
コンロの火を調節するように緩やかにできればいいのだが、それが難しい。数打って慣れるしかないと言っていたサンタは破壊されてもすぐに修復する的をいくつか用意してくれていた。
単発、連射、広範囲でドカンと。
数が多くなり、大きくなるにつれて力の消費は激しいが、体内の精霊石の力は満たされたまま。
先に自分の方が空っぽになりそうだと感じつつ、無駄だと思いながらも体力づくりに筋トレをする。
コスモスがそういった訓練をしている間、サンタは何をしているかといえば普段と何も変わらない。
デッキチェアに横になってラジオを聴きながらうたた寝したり、読書をしたりサーフボードを抱えているなと思えば華麗に波乗りを披露したり。
気ままな釣りは毎日のことで、釣果なしでもいいらしい。設置された釣竿から垂れる糸がゆらりと揺れる様を見ながらぼんやりとするのがコスモスは好きだった。
サンタが振舞ってくれる料理はどれも美味しくて、食べ盛りの子供のように平らげてしまう。
力を使う訓練をしているから消耗が通常より激しいのだろうとサンタは言っていたが、コスモスはあまりピンとこない。
(力を使うとお腹空いたり眠くなったりするのは当然だと思ってたから、慣れちゃったのかな?)
その日の夜、いつものように眠りについたコスモスは見たくも無い姿と聞きたくない声を耳にすることになる。
心の奥底に押し込めた彼女の傷。
もうあれから何年も経つというのに、目を背けて耳を手で覆ってしまうのは未だその傷が癒えていないからだ。
引きずっているなんて思われたくなくて、思いたくなくてもう忘れたなんて嘯いてる傷。
「その姿を燃やしてしまいましょう」
直接脳内に語りかけてくるその声は、誰なのか分からないのに安心ができる不思議な感覚。コスモスが戸惑っていると、彼女に甘い声で語りかけていた目の前の男が発火した。
「その声も溶かしてなくしてしまいましょう」
あっという間に蝋のように姿は溶けて、甘い言葉を囁くその声は小さくなって消えていく。
怖いとは思わないが嬉しいとも思わない。
溶けてなくなってしまったものがあった場所を見つめながら、彼女は心が少し軽くなっていることに気がついた。
(……ありがとう?)
自分の夢の中なのだろうから好き勝手できて当然だが、なんとなく自分が望んでこうなっているようには思えなかった。
そう思っていないだけで、心の奥底ではそれを望んでいるのかもしれないが。
知らないはずなのに安心できる声の優しさに息を吐いて心の中でお礼を呟く。すると、一瞬息を呑む音が聞こえた気がした。
いつも思い出したくない出来事を夢に見るときは目覚めが最悪なのに、今回は違った。
妙にすっきりしているというか、痞えが取れたというか不思議な感覚だ。
未だに思い出したくない嫌なことだが、それでも前よりは楽になっていてコスモスは首を傾げる。
その様子に気づいたサンタが何かあったかと穏やかに尋ねてきた。
「あー、大したことじゃないんですけど聞いてもらえます?」
「ああ、もちろんじゃとも。時間はたっぷりある。話して楽になるなら何でも話すといい」
「この世界に来る一年くらい前に失恋しまして。自分では吹っ切れたつもりなんですけど、つもりだったみたいです」
何を言っているのか意味が分からない。言葉がめちゃくちゃだ。
コスモスは小さく唸りながら眉を寄せて話すのを止めようと思ったが、サンタは「それは辛い思いをしたのぅ」と優しく受け止めてくれる。
「大学で出会って、初めてできた恋人だったんです。お互いに初めて同士で、一緒にいるのが本当に幸せで。就職してからもそれは変わらなかったので、いずれこのまま結婚するんだろうなぁなんて思ってたんです」
優しくてちょっと気が弱い。けれど、私の嫌がることはしなかった優しい恋人。
コスモスは彼の姿を思い出して、ふふふと笑う。
「まぁ、思ってたのは私だけで。彼は会社の可愛い後輩にアタックされて乗り換え、いつの間にか私は恋人からとりあえずのキープ要因になってたんですよね。アハハハ」
「そりゃ、ひどいのぅ」
「よくある話です。気がつけば私が浮気相手になってて、彼の後輩に涙目で別れてくださいなんて言われて終わりですよ。その時まで何も気づかなかった自分にも呆れましたけど、想像以上に傷ついてたみたいで、なかなか忘れられないんですよね」
どうすれば異性を落とせるかを良く知ってそうな可愛らしい子だった。小さくて童顔で上目遣いが得意で、庇護欲をそそられるそんな子だった。
本命の彼女らしい? その子の隣で「そういうわけだから」と視線を合わせずに別れて欲しいと告げた男にその場で泣きそうになった。
きっと一緒についてきてくれた友人がいなかったら、泣いていたことだろう。
「で、別れ話の後で友人と家で暴飲暴食の悪口大会です。私以上に怒って泣いてる彼女見てたら涙も怒りも引っ込んだって思ってましたけど、そういうことにしてただけだったんですよね」
ずっと心の奥で燻っていた。忘れたいと思うのに忘れられなくてみっともなく引きずっていた。
他にもいい男がいると言われて何度も頷いたけど、そう簡単に切り替えはできなかった。
「こっちに来てから思い出す回数が増えて、嫌だなぁと思ってたんですけど。それでも向こうにいたときよりはマシです」
「好きじゃったんじゃな」
「ですね。彼も私のことを好きでいてくれるなんて過信した結果がこのザマですけど」
「これこれ、あまり自分をいじめちゃダメじゃぞ」
恋敗れて半年経った頃に友人に愚痴ったら、まだ引きずっているのかと言われて以来話さないようにしていたこと。
老人相手に自分の失恋話なんて何をしているんだろうと思うもコスモスの口は止まらない。
「私がもっとああしてたら違っていたかななんて思う度に嫌になるんです。最後に会った彼はもう私の好きな彼じゃなかったのに」
「ちょっと区切りはついたかの?」
「そう、なのかもしれません。前ほど苦しくないですし。何であんな男のこと好きだったんだろうって疑問になりますけど」
「ホッホッホ。人は変わるものじゃ。案外、その男も突然のモテ期に舞い上がって選択を間違ったのかもしれんぞ」
突然のモテ期。
それらしい雰囲気はなかったような気がするが、他に女がいることにも気づけなかった自分だから無理だろうなとコスモスは小さく笑った。
恋愛なんてもうこりごりだ。疲れるだけでどうせこうなる。
初々しいソフィーアとアレクシスの姿を思い浮かべ、あの二人の恋路を見守っているだけで今は幸せだとコスモスは嬉しそうに笑った。
「相手の娘も、人のものを奪いたいだけで手に入れば飽きる性なのかもしれん」
「はー。小悪魔ってやつですかね」
「どうでもよさそうじゃの」
「もう、何も関係ない他人ですからね」
「フラれた元彼がよりを戻そうと言ってきたらお前さんはどうすんじゃ?」
「え、無理です」
自分でも驚くくらいの即答にコスモスは思わず笑ってしまった。気持ち悪いと言いかけてそれはあまりにも酷いかと飲み込む。
しかしサンタにはお見通しだったようで、彼は大きく笑った。
「だって、あっちがダメだから戻るとか最悪じゃないですか。好きとかじゃなくて、キープでいっかみたいな」
どれだけベタ惚れされていると思っているのか、と想像してコスモスはぶるりと震えた。確かに彼のことは好きだったが、それは自分を裏切る前の彼だ。
上手いこと騙されたままだったらちょろかったかもしれないが、事実を知ってからは嫌な感情しかない。
(そもそも、お前は本命じゃなくてキープ要因の浮気相手だからとか格下げ? してきた相手を受け入れられるわけがないわ)
復縁をと言われたらドン引きする自信がある。
都合のいい女扱いかよと言える自信もある。
「それは最悪じゃのう」
「最悪です」
「新しい恋も間近かの?」
「え、こっちでですか? ないですよ」
「結構な美形に好かれておるじゃろうに」
この老人は一体どこまで見ているんだろうかと思いながら探るようにコスモスが見つめていると、笑って誤魔化されてしまった。
相変わらず掴みどころのない人物だと彼女は溜息をついて手をパタパタと振る。
「マザーの娘だからですよ」
「もうちっと自惚れても良いと思うんじゃがなぁ」
「無いです。仮にあったとしても親愛でしょう」
「アジュールもあれほど懐いておるのに」
あの獣は美形に入るのかと悩みながらコスモスは唸る。最初は確かに心強い戦力であり裏切らない存在というだけで特別な感じはした。
渋い声と助けてくれる姿にキュンとしたこともあったが、今は違う。
「あー、アジュールですか。あれはちょっと、違うというか」
「違う?」
「正直、最初はキュンとしたりもしましたけど今は相棒というか、駄目な主とできる僕というか、家族みたいな感じというか」
彼には彼の目的があるだろうとコスモスは察しているので、いつまで一緒にいてくれるかは分からない。けれど、主従の関係である以上自分の役目はきちんと果たすと彼は言っていた。
それに嘘はないとコスモスは思う。
「ほほう」
「そんな感じで落ち着いてるので、変な感情はないですね。他の人ともないですよ。残念ながら」
「そりゃ残念じゃな。恋は良いものなんじゃが」
「当分いいです」
次に自分が恋愛をしたいと思うような時はいつなのだろう。
とりあえず無事に元の世界へ帰ってからに違いないと、コスモスは溜息をついた。




