18.彼の決別
「短い期間ではありましたが、〝リアム様の婚約者〟として過ごせた時間は、私にとって宝物のような時間でした。素敵な思い出をありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げるクララを、私は呆然とした気持ちで眺めることしかできなかった。
私の婚約者として過ごす時間を過去のものとして語る彼女を目にして、背中に嫌な汗が伝うのを感じる。
「違う、待ってくれ」
「本当に申し訳ない。だが、全て誤解なんだ」
「お願いだ、話を聞いてほしい」
必死にそう言い募るが、それらの言葉がクララに届くことはなく、彼女は「もしも、リアム様が姉を探したいと思われるのであれば、私のことは心配なさらないでください。私は、全力でリアム様のことを応援いたします」と言った。
こちらに真っ直ぐ向けられた視線や、ぴんと伸びた背筋から、それが虚勢ではないことは明らかだ。
……ああ、彼女は本当に、私を手放そうとしているんだな。
そう考えると足元が揺れるような心地がしたが、ここで私が倒れ込んで被害者面をするわけにはいかない。
この件に関しては、グレースの代わりだと騙されてこの屋敷に連れてこられたクララこそが被害者なのだから。
それを思うと、先に手を放したのはクララかもしれないが、彼女に〝手を放す〟という決断をさせたのは私だ。
彼女にこんなことを言わせたのは、保身のために嘘をつき続けた私なのだ。
最初から、成就する可能性などないに等しい恋だった。
私が初めてクララへの恋心を自覚した時には既に、兄とグレースの婚約は結ばれていたし、当時のクララが私をそういう目で見ていないことにも気がついていた。
しかしそれでも、クララはここにこうして私の婚約者として立っている。
私自身、「やれることをやり切った結果だ」という自負もあるけれど、もちろんそれだけではない。
この婚約を結ぶために、兄とグレースの未来は大きく変わってしまったし、そのせいで多くの人間に迷惑を掛けたこともわかっている。
さらにグレースに関しては、実家を見捨てて駆け落ちまでさせてしまったのだ。
そう考えると、私がここで簡単に手放されるわけにはいかない。
多くの人間を巻き込んで掴み取ったこの関係を、そう易々と解消してなるものか。
そもそも私は、婚姻の儀までのこの期間を「クララに振り向いてもらうためのチャンス期間だ」と思っていた。
ならばこれは、クララに対する想いを正しく伝える最後のチャンスになるだろう。
……たとえ軽蔑されることになろうとも、最後の最後まで足掻こうじゃないか。
「クララ、すまない。だが、話を聞いてほしいんだ」
そう言いながら跪く私を目にして、クララがぎょっとした表情を浮かべる。
「リアム様!? 何をなさっているのですか!? そんな……やめてください!」
頭上で聞こえるクララの言葉を無視して首を垂れると、クララが静かに息を呑むのがわかった。
「私はすでに、クロフォード家にグレースからの手紙が届いていることを知っている。……というよりも、兄上やグレースとも相談して、最初からそう計画していた」
「え?」
「本当は最初から、私は褒賞として『クララを妻にすること』を望んでいたんだ」
そう言って跪いたままクララを見上げると、こぼれんばかりに目を見開いた彼女と目が合った。
グレースが駆け落ちを決めたあの日。今後のことを計画する中で、一定期間経過後にクロフォード侯爵に事実を伝えるよう強く主張したのは、私と兄だった。
「お二人の立場を考えると、伝えない方が優位に立てるのではありませんか?」
グレースは涼しい顔でそう言ってのけたけれど、クロフォード侯爵の中でのグレースを〝家や領民を見捨てて国を出た自分勝手な娘〟にしたままでいるという選択肢は、私達の中になかった。
当初の予定通り、グレースの駆け落ちからしばらく経った後に事実を知ることになったクロフォード侯爵は、怒りをあらわにすることこそなかったものの、終始険しい表情を浮かべていた。
「クララには、折を見て私から伝えます。ですからそれまでは、黙っておいてもらえないでしょうか?」
そんな侯爵に対して、こちらからそう頼み込んだにも関わらず、しかしそれを今日までクララに伝えられずにいたのは、ただただ私が臆病だったからだ。
「……言えなかった。純粋に私を兄として慕ってくれているクララに、いつからか異性に対する視線を向けていたことを。そして何より、私の詰めの甘さが理由でグレースに駆け落ちと言う選択をさせてしまったことを」
私はクララの目を真っ直ぐに見つめたまま、全てを打ち明ける。
クララへの恋心に気がついた夜会の日のこと、僅かな望みに掛けて私が国を出る決断をしたこと、そしてグレースが駆け落ちするに至った経緯までの、全てを。
「第二王子が褒賞として望まれたんですもの。まさかその相手がお姉様ではなく私だなんて、誰も思いも寄らなかったのでしょうね」
私の確認不足でグレースの名前が記された書面にサインをしてしまったことを告げた際には、クララはそう言って力なく笑った。
「しかし、私は最初からクララのことだけを見ていた。そしてそんな私のせいで、グレースには駆け落ちをさせることになってしまった。……酷い奴だと思われるかもしれないが、クララを妻にするために、私はそれを強くは止めなかったんだ」
黙っておこうかとも思ったが、「そしてその時の決断を、私は後悔していない」とも付け加える。
その言葉を聞いたクララがどんな顔をしているのかは、怖くて直視することができなかった。
私が話を終えた時、クララがどのような判断を下すかはわからない。グレースによく懐いていたクララが、真実を聞いてもなお私のことを好きで居続けていてくれるかどうかは不明だ。
ひょっとするともう二度と、屈託なく笑い掛けてくれることはないかもしれない。「夫婦とは言え書類上だけの関係です」と、突き放されることになるかもしれない。
それだけのことを言われても仕方がないくらいの嘘をつき続けてきた自覚はある。
……だからせめて今は、口を噤み続けてきた臆病な自分とようやく決別した今はせめて、みっともなくとも全てを晒け出そうじゃないか。
「クララがこの屋敷に来てくれたから、私は毎日が楽しくて仕方がない。〝クララの婚約者〟として過ごせた時間は、私にとっても宝物のようなものだ。……だからどうか、これからも私と共に生きてはくれないだろうか? 私と過ごす時間を思い出にしないでもらえないか?」
ぼろぼろと涙を流しながら懇願する私は、酷く見苦しいことだろう。
しかしここで、美しく取り繕いながら彼女の手を放すくらいなら、それでもいい。私が醜態を晒すことでクララが私の元から去る可能性が僅かにでも減るのであれば、それでいい。
しんと静まり返った部屋の中で、私はただただ祈り続けることしかできなかった。
相手が吐く息の音すら聞こえてきそうなくらいに重い沈黙を、先に破ったのはクララだった。
「……リアム様に、触れてもいいですか? 私のこの手で、リアム様の涙を拭ってもいいですか?」
身に覚えのあるその言葉に、私は思わず「もちろんだ」と即答する。無意識ではあったけれど、自分でもわかるくらいにその言葉には期待が滲んでしまっていた。
そんな私の返事を聞いて、クララは目元を和らげて「ふふふ」と笑った。
「本当に、最初から私のことを?」
彼女はそう言いながら、私の頬に手を添える。
涙で濡れて冷えた私の頬が、クララの手の温度によってじんわりと温められるのを感じて、私は胸が詰まるような心地がした。
「ああ、本当だ」
「〝淑女の鏡〟と称されるお姉様ではなくて?」
「……何度も言ってきたはずだ。私は、そのままのクララが好きなのだ」
「…………知っています」
悪戯めいた表情を浮かべてそう答えるクララは、事実を知る前の彼女となんら変わらないように感じられる。
「クララこそ、私でいいのか?」
「……とおっしゃいますと?」
「クララに誤解させていることに気づいていながら、ずっと口を噤み続けてきた私は、クララが言うような誠実な人間ではないだろう。そんな私が相手で、本当に後悔しないか?」
「……私はやっぱり、リアム様は誠実な方だと思いますよ。この件に関しても、正直に話してくださってありがとうございます」
「……こんなにみっともない姿を晒して、幻滅してはいないか?」
「リアム様の新たな一面が知れて、むしろもっと好きになりました」
クララの口から発せられた言葉が、あまりにも私に都合の良いものだったせいで、最初は「私は夢を見ているのだろうか」と思った。
けれども、私の頬に添えられたしっとりと柔らかな彼女の体温が、これが現実であるということを教えてくれている。
「……これからも、私の婚約者でいてくれるということでいいのだろうか?」
そう尋ねる私の声は、緊張のあまり掠れてしまっていた。
しかしクララはそれを笑うこともなく、「もちろんです」と穏やかに、けれどもきっぱりと言い切った。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
そう言いながらクララが私に向ける眼差しは、愛おしいものを見つめるかのような熱を有していて、私はそのまま力一杯クララの身体を抱きしめたのだった。




