17.彼女の決別
「片付けてしまわないといけないことができましたので」
そう帰省の延期を申し出てから、早くも五日が経過した。
リアム様からは「遠慮せずにゆっくりしてくるといい」と言われているけれど、さすがにそろそろ戻らねばなるまい。
なかなか帰らない私のことを、彼もきっと待っているだろうと思うのは、自惚れではないはずだ。
あの手紙を見つけてから今日まで、我が家に姉からの手紙が届いていることついて、リアム様に伝えるべきか悩みに悩んだ。
普通に考えれば、黙っておくのが最善なのだろう。
姉に関しては〝駆け落ちしてしまってもはや消息不明〟である状態で、物事が上手く回り始めているのだから、ここで余計な混乱を生じさせる必要はない。
けれどもやはり、私はどうしても「リアム様に対してできる限り誠実でありたい」と思ってしまう。
だってリアム様が、私に対してずっとそうしてきてくださったから。
数々の功績を残して「グレイスを妻に」と願われたリアム様は、きっと姉の駆け落ちを知って心底がっかりしただろう。
しかしこれだけ共に過ごしても、彼の態度からはそんな気持ちを微塵も感じたこともなければ、姉のように振る舞うよう求められたこともない。
それどころかリアム様は、私に「そのままのクララが好きだ」と言い続けてくださった。私がその言葉を信じられるくらいに、何度も何度も。
そんなリアム様のことを、私はもう兄としては見ていない。
彼を異性として好いているからこそ、「誰よりも私だけを見て、私だけを愛してほしい」なんていう、独占欲のようなものだって有している。
けれどもそれ以上に、リアム様には心の底から幸せだと思えるような人生を送ってほしいとも思っている。
……だから。
「お父様、こちらの手紙はどういうことでしょうか?」
私の「お聞きしたいことがあります」との言葉を聞いて、すぐに時間を割いてくれた父に向かって、私は単刀直入に切り出す。
私が差し出した手紙を見て、父が眉を寄せるのがわかった。
「なぜそれを、クララが持っている?」
「私宛の手紙の中に紛れておりました。勝手に開封したことについては、申し訳ありません。お叱りはきちんと受けるつもりです。……ですが、宛名の文字がどう見てもお姉様のものだったので」
私がそう答えると、父は険しい表情を浮かべて、「今後、このようなことがないように」とだけ言った。
「それで、クララが聞きたいことというのは、その手紙についてだな?」
「はい。この手紙はお姉様からのもので、間違いありませんか?」
「……ああ、そうだ」
「この手紙の存在を、他にはどなたがご存知なのですか?」
そう尋ねてはみたものの、それに対する答えはなく、父は黙って首を横に振った。
父が様々なことを考えて動いているということくらい、わかっている。
侯爵家の当主としての父が、「グレースからの手紙については口外すべきでない」という判断をしたのであれば、それに従うべきであるということも、わかっている。
それがわかっていながらも、私は口を挟まずにはいられない。
もちろんそこには、「リアム様なら我が家に不利がないように動いてくれる」という信頼もある。
しかし何よりも、姉の勝手な行動に振り回されることになった彼にとっては、これが姉に対してどう動くかを決められる最後のチャンスだと思うから。
「……私は、お姉様からこの家に手紙が届いていることを、リアム様にお伝えすべきだと思います」
そのまま「差し出がましいことを言って申し訳ありません」と謝ると、父はなぜだか少し困惑するような素振りを見せた。
「……クララは、グレースの駆け落ちに関して、リアム殿下から何か聞かされてはいないのか?」
慎重に言葉を選びつつ、父はそんなことを聞いてくるけれど、リアム様からは本当に、今まで一度たりとも私達を責めるようなことを言われたことはない。
「リアム様がお姉様や我が家について、私の前で悪く言われたことは一度もありません。公爵邸でも私が居づらくならないよう、気を配ってくださっています」
最初から、そうだった。
公爵邸に移り住んだ初日から、マークは私に優しかったし、使用人の方々も私に対して嫌悪感のようなものを見せることはなかった。
それもこれも全て、リアム様の配慮があったからこそなのだろう。
「だからこそ、私はリアム様を騙すようなことはしたくありません」
自分が感情を優先しすぎた発言をしていることは、わかっている。
侯爵家の娘として、未来の公爵夫人として、正しい行いだとは言えないだろうということも、わかっている。
けれども、「……二人できちんと話し合いなさい」とだけ返した父は、私の考えを否定することはなかった。
◇◇◇
ようやく公爵邸へと帰宅した私を、リアム様は玄関の外で出迎えてくださった。
「帰宅が遅くなり、申し訳ありません。わざわざお出迎えまでしてくださるなんて……」
まさか外でリアム様が待っているとは思わず、私は内心で冷や汗をかく。
けれども彼は「いや」と言った後で、「私が一分一秒でも早くクララに会いたかったのだ」と、大真面目な顔で続けた。
おそらくそれは、リアム様の本音なのだろう。
彼のそんな言葉を聞いて、好きな人が素直に好意をあらわにしてくれる幸せを噛み締める。
そして、それと同時に湧き上がる「こんなことを言ってもらえるのも、これが最後かもしれないな」という切ない気持ちに、私はそっと蓋をする。
「クララが言っていた『片付けてしまわないといけないこと』は、無事に終えられたか?」
「はい。実はこれを作っていたのです」
そう言いながら、私はバラの刺繍が入ったハンカチを取り出す。
「どうしてもこれを、リアム様にお渡ししたくて」
そのままリアム様にハンカチを手渡すと、彼は僅かに目を見開いた後、「ありがとう」と言って口元を緩めた。
「青色のバラとは、珍しいな。何か理由があるのか?」
「リアム様の夢が叶うようにとの願いを込めました」
「……赤色ではないのだな」
ついこの間、私が赤色の刺繍糸を買ったことを知っているリアム様からはそう指摘されたけれど、それに対して返事をすることはできなかった。
その代わりと言うのはなんだけれど、私はリアム様にとある秘密を打ち明ける。
「……実は私、刺繍が大の苦手なのです」
その言葉を聞いて、リアム様は手元のハンカチに視線を落として不思議そうな顔をした。
「そうなのか? だが、よくできているぞ?」
「こちらのお屋敷に来てから、一人でこっそり猛特訓してきましたから。後でお見せしますが、最初の頃の作品は酷いものでしたよ」
そう言いながらも、この屋敷に来てすぐに丸一日を費やして作り上げた謎の物体を思い出し、思わず笑みが漏れてしまった。
「それだけではありません。専門書から新たな知識を得る楽しさだとか、雇い主としての使用人との接し方だとか、そういったことについても、私はこちらのお屋敷に呼んでいただいたからこそ気づくことができました」
「……クララ?」
「姉の代わりにリアム様の婚約者になれたおかげで、私はたくさんのことを学べました。ここで身につけたものは、私の一生の財産になるでしょう。たとえリアム様との結婚が破談になっても、私がここに来た意味は十分にあります」
「ちょっと待て」
私の瞳を覗き込みながら、「たとえ話であっても『破談』なんて言わないでくれ」と言うリアム様は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
まるで迷子の幼子のようなその表情を見て、「すみません、物の例えですよ」という言葉が喉の辺りまで出掛かるけれど、それではいけない。
きっとここでそれをしてしまうと、私はこの先〝リアム様の最後のチャンスをつぶしてしまった罪悪感〟に苛まれ続けることになるだろう。
唇を噛みしめ、黙り込んでしまった私に向かって、リアム様が手を伸ばすのがわかった。おそらく、私のことを抱き締めようとしているのだと思う。
けれども、私は胸の前で両手を伸ばして、それを拒む。
きっと彼を傷つけてしまっただろうなとは思うけれども、今だけはどうか許してほしい。
私はそこで一度大きく息を吸い、胸を張ってリアム様の瞳を覗き込む。
私の不安がリアム様に伝わってしまわないように、姉に教わった通りに堂々と。
「……実家に、姉からの手紙が定期的に届いているそうです」
私がそう言うと、リアム様が息を呑むのがわかった。
「この件についてリアム様にお伝えすることを、父にはすでに報告しております。『二人で話し合うように』とのことでしたので、おそらく父も処罰を受け入れる覚悟はできているかと」
私の言葉を聞いて、リアム様はゆるゆると首を横に振る。
「いや、クロフォード侯爵家を罰するつもりはない」
淡々としたその返事からは、リアム様が何を考えているのかを推し量ることはできない。
「……リアム様は、本当にお優しいですね。あれほどの手柄の褒賞として、姉を妻にと望まれたにもかかわらず、姉の駆け落ちについて責めることもなく、私にも誠実に接してくださって」
私がそう言うと、リアム様が顔を歪めるのがわかった。
姉に繋がる手がかりを見つけたにもかかわらず、ここで嬉しそうな様子を見せないリアム様は、やっぱり優しい。
そんな優しい彼だから、きっと自分からそれを言い出すことはできないだろう。
だから私から、手を放してあげないとけない。私がそれを告げることで、リアム様と決別することになるとしても。
「短い期間ではありましたが、〝リアム様の婚約者〟として過ごせた時間は、私にとって宝物のような時間でした。素敵な思い出をありがとうございました」
私はそう言って、深く頭を下げる。
目の奥がじんわりと熱を持つけれど、あと少し、あともう少しだけ耐えてほしい。
頭上からは、リアム様の声が聞こえてくる。
「違う、待ってくれ」
「本当に申し訳ない。だが、全て誤解なんだ」
「お願いだ、話を聞いてほしい」
必死にそう言い募るリアム様の様子から、私が屋敷に来たばかりの頃の出来事を思い出す。
……あの時の私は、彼の前で思わず涙を流してしまったっけ。
結局、私は最後まで姉のようにはなれなかったし、姉の身代わりとしての役目も果たせなかった。
けれどももう、悲しいとも恥ずかしいとも、そして消えてしまいたいとも思わない。
だってリアム様が、〝そのままの私〟を好きだと言ってくださったから。
そんな思いを胸にゆっくりと顔を上げると、真っ青な顔をしたリアム様と目が合った。
彼からの縋るような視線をはねのけて、私はにっこりと微笑む。これまでで一番、優雅で美しく微笑めたと思う。
「……もしも、リアム様が姉を探したいと思われるのであれば、私のことは心配なさらないでください。私は、全力でリアム様のことを応援いたします」
そんな言葉を告げながら、リアム様にもらった自信を胸に、私は心から彼の幸せを願うのだった。




