16.彼の秘密
「兄上とグレースに、ご相談したいことがあります」
クララの社交界デビューの日から数日後。婚約者同士の交流の場に現れた挙句、突如としてそんなことを言い出した私を前に、二人は酷く困惑したはずだ。
けれども、さすが王太子とその婚約者というべきか、二人はそっと目配せをして頷き合うと、落ち着いた声色で「なんだい?」と先を促した。
「実は、しばらく国を離れようと考えております」
「それは、どうして?」
「私は、クララに恋愛感情を抱いています。今のままでは彼女と結ばれることはできませんが、万が一の可能性に賭けたいと思いまして」
「…………順を追って説明してもらえるかい?」
数日前に開催された夜会の最中、クララへの恋心を自覚した私が最初に考えたのは、「どうすれば彼女への想いを断ち切ることができるか」だった。
兄とグレースの婚約がすでに成立している以上、私の想いが実を結ぶことなどないのだから、当然のことだろう。
けれどもいくら考えても、良い案は浮かばない。
私の隣にクララ以外の女性が並び立つことも、彼女の隣に私以外の男が立つことも、上手く想像ができないのだ。
もちろん、王族である以上、「クララ以外の人間と結婚するつもりはない!」と我儘を言うことはできないし、そうするつもりもない。
しかし、ようやく自覚したこの恋心から、目を逸らすべきではないとも思う。
叶わぬ初恋を引きずることなく、いつか良き思い出に昇華するためにも、私はここできちんとクララへの想いに向き合わねばならない。
そう考えた私は、とにかくこの恋の成就に向けて、全力を尽くしてみようと決意した。
具体的に説明すると、「褒賞としてクララを妻にすることを願い出るために、外交で手柄を立てよう」と考えたのだ。
もちろん、その願いが聞き入れられるだけの手柄となれば、並大抵なものではない。
王太子と第二王子が、同じ家の姉妹を妻にすることが許されるはずはなく、したがって私がクララと結ばれるためには、まずは兄とグレースの婚約を白紙に戻す必要があるのだから。
正直なところ、自分にそこまでの力があるかはわからない。
けれども、ほんの僅かにでもそこに可能性があるのなら、私はそれに賭けてみようと思う。
そして何よりも、自分が持てる力を尽くしてクララへの想いに向き合うことが、今の私にとっては必要なのだ。
それゆえ、おそらく上手くはいかないだろうことや、数年間を棒に振る可能性が高いことも承知の上。
ただ一つ気掛かりなのは、〝もしもこの試みが上手くいった際には兄上とグレースの将来を大きく変えてしまうことになる〟という点だけだ。
「……というわけでして、現在私は国を出るための準備を進めている最中なのです。しかし、お二人のどちらかが少しでも賛成を躊躇われるのであれば、今すぐにでも中止する心づもりもしております。可能性としては限りなく低いですが、お二人の未来を大きく変えてしまう可能性がありますので」
私の考えを聞き終えて、まず口を開いたのは兄上だった。
「私個人としては、リアムを応援してあげたいとは思うよ。けれど、未来の王太子妃として努力するグレースの姿を、私はずっと見てきたんだ。万が一にもそれを無にきす可能性があるものに、賛成するのは……」
兄の言葉に、私も「それはそうだ」と思う。
当事者の一人である兄上が難色を示すのであれば、他の方法を考えるべきだろう。
私がクララへの恋心と決別するためだけに、他者の人生を大きく狂わせる可能性がある手段をとるわけにはいかない。
そう考えた私が「では、先ほどの私の発言は忘れてください」と言い掛けた時だった。
「あら、私は賛成ですわよ?」
思わぬグレースの発言に、私と兄は二人揃って「え?」という声を漏らすけれど、彼女は全く気にしていない様子で言葉を続ける。
「ライアン殿下のお気遣いは嬉しく思います。ですが、結果として王太子妃にはなれなくとも、私の今までの努力が無になることはありませんわ」
グレースはそこで一旦言葉を区切ると、「これまで身につけてきたものは、誰にも奪われることのない私の財産ですから」と言って、美しく微笑んだ。
喋り方も笑い方も、クララのそれとは全く違ってはいたけれど、その時の私はなぜか「やはりグレースとクララは姉妹なのだな」と思わされた。
「私としましては、リアム殿下の納得がいくまでやり切るべきだと思います」
きっぱりと言い切るグレースに、兄は「それは、グレースの本心だと思っていいんだね?」と問い掛ける。
「ええ。リアム殿下の計画が上手く進むことを、心から願っておりますわ」
心配そうな表情を浮かべる兄に対して、そう返事をしたグレースの様子は、どこかわくわくしているように感じられたのだった。
そんな二人からの後押しを得て、その後すぐに国を飛び出したのが三年前。
計画は驚くほどに上手く進み、私はついに褒賞としてクロフォード家の子女を妻にすることを認められた。
しかし、極秘に設けられたこの話し合いの場の空気は、恐ろしいくらいにどんよりとしている。
「馬鹿ですの?」
重々しい空気の発生源である私に対して、グレースから辛辣な言葉が発せられる。
美しく微笑みながらも静かに怒る彼女を前にして、私は「こういうところはクララと似ていないな……」などと考えながら、現実から目を背けることしかできない。
「……まあ、長年の想い人の義兄になれるのだと考えれば」
「私とライアン殿下が結婚しても、クララとリアム殿下は義兄妹になれますが?」
「それでも、〝兄の配偶者の妹〟よりは〝配偶者の妹〟の方がほんの少しだけ距離が近いじゃないか」
「……苦しいフォローであることは、おわかりですよね?」
そんな兄上とグレースのやりとりを聞きながら、私は一人妄想の世界に逃げ込む。
「こうなったらもう、クララと結ばれる道は駆け落ちくらいしか……」
もちろん、本気で実行しようと思っての発言ではなかったものの、私の言葉を聞いた兄はぎょっとした表情で「おい、やめろ」と言った。
「あの国のあの土地なら、あるいは……」
「リアムが言うと冗談に聞こえないんだよ。やめるんだ」
「死亡証明書を偽造してくれる医師にもあてがある」
「だから! やめろ!!」
駆け落ち先に適した土地にも、死亡証明書を偽造してくれる医師にも、本当に心当たりがあったからだろうか、私の言葉には妙な信憑性があった。
だからこそ兄も、本気で私を嗜めてくるわけだけれど、私達のやりとりを黙って聞いていたグレースが、ここにきて「ふう……」とわざとらしく溜息を吐いた。
「私、こう見えて社交界では〝淑女の鏡〟と呼ばれておりますの」
改まった様子で、グレースは誰もが知っている情報を伝えてくるけれども、なんとなく「知っている」と指摘することができる雰囲気ではない。
「ライアン殿下のことは尊敬しておりますし、殿下も私のことを大切にしてきてくださいました。恋愛感情とは少し違うかもしれませんが、ライアン殿下とならこの先もきっと良い関係が築いていけるだろうと、そう思っておりましたわ」
グレースの口から〝兄上との婚約を解消することになった後悔〟とでも言うべき言葉を聞かされて、私はただただソファーの上で身を縮める。
「厳しい王太子妃教育にも耐えてきましたのに、リアム殿下の我儘のせいで、それらも全て無駄になってしまいましたわね」
かつて「身につけたものは自身の財産だ」と言っていた彼女がこんなことを言い出すだなんて、三年の間に一体何があったのだろうかと思わざるを得ないけれど、グレースがそう言いたくなる気持ちも理解できる。
そう考えると、グレースらしからぬ言動ではあるものの、恨み言を吐き出すことで、彼女も気持ちに折り合いをつけているのかもしれない。
ならば彼女の未来を大きく変えてしまった私には、それを聞き届ける責任があるだろう。
そんな思いから、黙って耳を傾けていたわけだけれど、次の言葉に私ははっとさせられた。
「それにもかかわらず、私が配偶者になることを駆け落ちまでして回避したいと思われるだなんて、屈辱ですわ」
「……!? いや、すまなかった! 確かに今のはそう捉えられてもおかしくない。だが……」
失意のあまりグレースに対して失礼なことばかりを述べていたことに気づいた私は、咄嗟に口を開く。
しかし彼女からは「今は私が話しております」と返ってくるものだから、言い訳をすることすらできない。
グレースはそのまま「私自身をその程度だと思っているような方と、支え合って生きていくことができるとは思えませんわ。ですから……」と言い、そして兄と私の顔を順番にじっと見据えた。
その瞳からは、何かを決意したような力強さが見て取れて、私は彼女の口から飛び出すであろう次の言葉に身構える。
「私が駆け落ちしようと思います」
しかしグレースの口から発せられた言葉が、全く予想もしていないものだったので、私の口からは声か息かも判別できないような「は?」という情けない音が漏れた。
「私は、共に手を取り合って生きていきたいと思える男性と、駆け落ちをします」
「……リアムのためだからといって、グレースが犠牲になる必要はないんだぞ?」
「あら、ライアン殿下は私が『二人の幸せのために不幸を背負って身を引く心優しい姉』に見えますの? 強かな人間でないと王太子の婚約者は務まらないことくらい、殿下もご存じでしょうに」
そう言ってくすくすと笑うグレースは、その表情だけだとなんてことのない会話をしているように見える。
誰かが窓から室内を覗いていたとしても、まさかここで駆け落ちの話がなされているとは思わないだろう。
「駆け落ちにぴったりな土地は、リアム殿下がご存じなのでしょう? 死亡証明書を偽造できるということであれば、駆け落ち後にも対外的にはクロフォード家に非がない形で収束させられるという認識で、間違いありませんわよね?」
私が驚きのあまりに絶句している間にも、話はどんどんと進んでいく。
「そもそもの発端は、リアム殿下の詰めの甘さですからね。協力してくださいますわよね?」
そう言うグレースから感じられる圧は、彼女の父であるクロフォード侯爵を彷彿とさせるものだった。
結局、具体的な日時や手筈、そして駆け落ち後にこちら側がどう動くかまで、その日の話し合いは深夜にまで及ぶことになるのだった。
◇◇◇
クララが実家に帰ってから、三日が経った。
元々は二泊で帰って来る予定だった彼女から、「期間を延長したい」との連絡をもらったのは、昨日のこと。
「片付けてしまわないといけないことができましたので」
クララは延泊の理由を、そう説明した。
私自身、やるべきことは山のようにある。
しかし、クララのいない日常はどこか退屈で、屋敷全体もどこかひっそりとしているように感じられる。
「……クララなしの人生など、もう考えられないな」
一人きりの部屋でそう呟く私の心は、クララとの満ち足りた日常生活への感謝の気持ちで満ちている。
けれどもそこにはどうしても、あの日グレースにあのような決断を下させてしまったことへの罪悪感が付きまとう。
私は、クララを愛している。そして最近では、私はクララに愛されていると感じることも増えた。私達はきっと、良き夫婦になれるはず。
けれどもこのまま、グレースが駆け落ちをした本当の理由を隠した状態で、クララと結婚してもいいのだろうか。それは、彼女を騙すことにはならないのだろうか。
……私はどうするべきなのか。
もう長らく抱え込んでいる秘密について、私はもう何度目になるかもわからない自問を繰り返す。
しかし結局、今日もまた答えを出せないままに、途方に暮れることしかできないのだった。




