13.彼女の期待
「クララのことを抱きしめても構わないだろうか?」
リアム様からそう声を掛けられたのは、私が手紙を渡しに彼の執務室に訪れた時のことだった。
彼の緊張した面持ちから、それが〝妹への抱擁〟とは意味の異なるものであるということは、恋愛経験のない私にだってわかる。
まさかそんなことを言われるとは考えてもいなかったせいで、思わず小さく息を呑んでしまったし、顔にも熱が集まっている。
それでも、その時の私は意外と冷静だった。
だって、私の目の前に立つリアム様が、あまりに真っ赤な顔をしていたから。
今更ではあるけれど、彼は本当にすごい人なのだ。
ある時いきなり「どうしても叶えたいことがある」と言い残して国を出て行ったかと思うと、たった三年のうちに隣国との関係を改善し、友好国の危機を未然に防ぎ、さらには開発途上国の発展に寄与しと、数多の功績を引き下げて帰国したのだから。
そのため、帰国からある程度の時間が経った今でも、リアム様は王子でありながらも英雄のような扱いを受けている。
城下で売られているという姿絵を、以前マリーからこっそりと見せてもらったことがあるけれど、そこには凛々しいリアム様の姿が描かれていた。
美化して描かれることも多い姿絵だが、国民の前に立つリアム様を、そして兄として私の前に立っていたリアム様を、そのまま描き出したようなその姿絵を見て、「そもそもリアム様に美化を必要とする箇所なんてないものね」と思ったことを覚えている。
けれども今、私の目に映るリアム様は、あの姿絵のようではない。
不安げに瞳を揺らしながら、しかし僅かな期待を込めてこちらを見つめるリアム様は、完璧な英雄なんかじゃなくて、ただの一人の人間だ。
そしてそんなリアム様のことを、私は可愛らしいと思ってしまっている。相手は私よりも年上の男性だというのに。
自分の中に生まれた新たな感情に驚いている間にも、リアム様は祈るような視線をこちらに向けている。
もちろん、「抱きしめていいか」の問いに対する答えは「イエス」なのだけれど、それよりももう少しだけ、こちらもそれを望んでいることを伝えるにはどうすればいいだろうか。
悩みながらはくはくと口を動かしてはみたけれど、言葉だけでは足りない気がする。
そう思った私は、自身の両手を左右に広げる。
緊張のせいで腕は震えてしまっているし、合意を伝えるために発した「どうぞ」という声は掠れてしまった。
それでも、どうやらリアム様にはきちんと伝わったようで、数秒後には温かさと共に彼の香りに包まれる。
〝抱きしめる〟というよりも〝身体に手を添わせる〟と言った方が正しいだろうと思われるくらいの力加減に、先ほどまでの緊張も忘れて、私は思わず笑ってしまった。
「いくらなんでも、これでは『抱きしめる』とは言えないのでは?」
私がそう言うと、リアム様の身体が大きく跳ねる。
「だが、これ以上力を入れると壊れてしまわないか?」
「大丈夫です。そんなに脆くありませんよ」
「……少しでも痛かったら、すぐに言ってくれ」
そんな会話の後で、それでも恐々と両腕に力を込めるリアム様のことを、私は初めて愛おしいと思ったのだった。
◇◇◇
「クララに贈りたい服があるのだが、受け取ってもらえるだろうか?」
思い詰めた様子のリアム様からそんなことを言われたのは、まもなく季節が変わろうという頃。
「そろそろ服を新調なさってはいかがでしょうか?」と、前日にマークから提案された矢先の出来事だった。
リアム様からは今までにもいくつかの贈り物を貰っているけれども、このような空気の中で提案されることは初めてで、自然と背筋が伸びる気がする。
それこそ宝石などという高価なものすら、なんでもないことのように渡してきたリアム様が、こんなに重々しい空気を纏っているのだから、きっとただの服ではないのだろう。
「それは、何か特別な服なのでしょうか? その……どなたかの思い出の品だったり?」
深刻な表情を浮かべるリアム様を目にして、私は緊張しながらそう尋ねてみたのだけれども、彼はゆるゆると首を横に振って、「新しく仕立てさせたものだ」と答えた。
……だったら、この張り詰めた空気は何?
「もちろん構わないのですけれど、それほど深刻そうになさる事情が、何かおありなのですか?」
「……その服は、青色なのだ」
「…………そうなんですか?」
重大な秘密を打ち明けるかのような、なんらかの罪を懺悔するかのような、それくらいの緊迫感を持って伝えられたのが「服の色は青色」という内容だったので、私の中の疑問はさらに深まる。
正直なところ、リアム様が何を心配しているのかについては、よくわからない。
けれどもせめて、自分の気持ちだけは素直に伝えておいた方がいいだろう。
「でも、そうですね……。青色だと私の瞳や髪の色とも合わせやすいですし、何より私の好きな色でもありますので、青色は良いと思います」
戸惑いを隠しながらもそう言うと、リアム様の纏っていた空気が僅かに和らいだような気がした。
「怖がらせてしまっていないだろうか? 逃げ出したくはなっていないか?」
「……? 怖くはないですし、逃げ出したくもありません」
「本当にか?」
「はい。私のために用意してくださったのですよね? とても嬉しいです」
「ちなみに、いくつかある服全てが青色なのだが……」
「『いくつか』ということは、複数あるのですか?」
私がそう尋ねると、リアム様は少しだけ視線を彷徨わせた後で「……三着ほど」と言った。
どうして三着ある服の全てが青色なのだろうかと、新たな疑問が生まれるものの、なんとなく聞かない方が良いような気がしたので、そこには触れないことにする。
「そんなにたくさん、ありがとうございます。楽しみにしていますね」
私の返事を聞いて、リアム様はようやく心底ほっとしたというような表情を浮かべて、「ああ」と答えた。
彼の緊張が解けたようで、なによりだ。
「……ところで、クララからも何か話があると聞いているが、一体どうしたんだ?」
リアム様からそう問われて、今度は私が姿勢を正す。
「そうなんです。もしもリアム様に時間の余裕がおありでしたら、一緒にお出掛けがしたいと思いまして」
そのまま「もちろん、難しければ無理はなさらないだください」と付け加えると、彼は「しよう。すぐにでも」と被せるようにして言葉を発した。
「どこか、行きたいところがあるのか?」
「いえ、〝特定のここ〟というところはありません」
「では、何かしたいことがあるのか?」
そう言うと、リアム様は少しだけ考えるような素振りを見せながら、「わりと栄えた土地だから、おおよそのものが手に入るとは思うが……」と続けた。
けれども私は、何かがしたくて「出掛けたい」と言っているわけではない。
「私はただ、これからリアム様と共に治めることになるこの地を、リアム様と一緒に見てまわりたいと思いまして」
そこで一旦言葉を区切り、「ありていに言うと、デートのお誘いです」と言ってから、ちらりと彼の様子を盗み見る。
視線の先には予想通り、右手で口元を覆って目を見張るリアム様がいた。
信じられないという表情でありながらも、嬉しさをあらわにするリアム様は、私が思っていた通りの反応をしてくれている。
そしてその後すぐに「楽しみだ」と言って、蕩けるような笑顔を浮かべる彼を見て、私は思うのだ。
「リアム様は私のことを、異性として好いてくださっているのではないだろうか?」と。




