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水を飲んだ馬は走れなくなる。勿論、食事もだけれど。
常識ではあるが、今はそのタイムラグが痛い。
それでもここまで丸一日休憩なしで走り続けてくれた愛馬のお陰で、ブレト自身が走り続けるよりずっと早くディード様が襲われる可能性が高いウィル伯爵領のハズレまであと少しまで来れた。
強化魔法をブラックまで一緒に掛けられるようになったことは、大きい。
やってみようと思わなかっただけではあるのだが、まさかできるとは思わなかった。
けれどいくら魔法で強化しようとも、生きている限り、食事と水、そして適切なタイミングでの休息は必要だ。
あのまま一気に現場まで向かってしまいたい気持ちは強かったけれど、転んで骨折させてしまうようなことになっては大変だ。馬の命にかかわる。
身体の大きさに比べて細すぎる足で支えている馬にとって、体重を支えながらの治療は時間が掛かるし、場合によっては足が変形してしまって二度と走れない身体になってしまうからだ。
「ディード様をお助けするために、お前を犠牲にしていい訳じゃ、ないもんな。ごめんな、余裕なくて」
スピードが一気に落ちてきて初めて、自分が愛馬へどれだけの負担を強いているのかに気付くような体たらくだった。情けない。
謝罪と感謝を込めて労わる。とはいっても、鞍を載せ替える間だけではあるが。
ひと一倍身体の大きな俺には一般的な鞍はちいさ過ぎるのだ。
ハリス卿が話を通しておいてくれたそうで用意して貰っていたこの街一番の駿馬に掛けられていた通常サイズの鞍では身体に合わなかったのだ。仕方がなく乗ってきた物を付け替えて貰うことになった。
汗だくの汚れた鞍を装備させて、馬にも厩務員にも申し訳ない。
厩務員からはその間だけでも休憩を勧められたけれど断った。
「ブラック、ここまで無理をさせたな。この厩舎でゆっくりお世話して貰って、後からサーフェス団長が率いる軍がここまで来きたら合流して追いかけてきてくれ」
水桶に頭を突っ込んだままの愛馬の身体を拭いてやりながら、声を掛けた。
口の中へ固形糧食を放り込んだままなので、ちょっと発音が不明瞭ではあるかもしれないけれど、なぁに、俺とブラックの間柄だ。思いは伝わっている、はずだ。うん。
「ブルルル」
置いていかれることが分かったのか、ブラックが抗議の声を上げる。
それを宥めるように、身体を拭く手に力を込めた。
口に放り込んだままの固形糧食をゆっくりと舌の上で転がすように味わいつつ、宥めるように身体を拭いてやる。
ディード様に固形糧食の美味しい食べ方をレクチャーした時には、こんなことになるなんて想像もしていなかった。できなかった。万難を排するための能力、それを得るための努力が、足りていなかった。
「ディード様、御無事でいてください……」
あの日、見送った後姿を思い出すだけで胸が締め付けられる。
自分が側近になどならなければ、このようなことにはならなかったのではないかとさえ考えてしまう。
「ブルル」
ディード様に安直すぎると笑われたけれど、この真っ黒の瞳がきれいだと思って付けた名前だ。
「ブラック。なんだ、慰めてくれるのか。優しいな。大丈夫だ、絶対に、俺がお助けしてくる。こればっかりは、いつもみたいに無理だで終わらせられない」
そういえば、最近あまりこの口癖が突いて出ることが減ってきた。
ディード様のお傍に侍るからにはそんな無責任ではいられないから、なのかもしれない。
「少しは成長できてきたと思っていたんだけどな。駄目だな、俺は」
「ブレト卿!」
厩務員が大きく手を振りながら近づいてきた。どうやら作業が終わったらしい。
逸る気持ちを抑えて、ブラックへ声を掛けた。
「ごめんな、ありがとう」
自分はまだ走れるとばかりに声を上げる愛馬を後ろに残して、厩務員へと駆け寄った。
「シルフィード号?!」
葦毛の馬が準備されていると思ったのに、そこにいたのはディード様の愛馬シルフィード号だった。
「え、うわっ」
俺の驚愕を余所に、シルフィード号が俺の首元を銜えて、ぽいっと自分の背に乗せる。
「こちら、サーフェス騎士団長からの手紙です」
この街の領主が馬上のブレトへ手を伸ばした。
その顔に、見覚えがあった。あのドラン師への追及の場にいたひとりだ。
本来ならばこの街にやって来た時点で面会の申し入れをし、礼を尽くした挨拶から始めなければならない相手だが、目線で必要ないと伝えられて軽く頭を下げるだけに留めて手紙を受け取る。
「ご武運を。我々も、準備が整い次第、向かいます故。どうぞそれまで必ず王太子殿下をお守りください」
ザッと一同が頭を下げる。
それに大きく頷いて、ブレトはシルフィード号の手綱を引き絞った。
「必ず!」




