2-3-20.
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行軍4日目。
自分が、臭い。
汗もだけれど、髪もべっとりしてきた。気持ちが悪い。
だが、たったそれだけの不快さで、人間というものは、こんなにも能力が落ちてしまうものなのだと始めて知った。
いいや、不快さによって、これほどパフォーマンスが落ちているのは、僕だけかもしれない。
皆は文句を言いながらも、初日とあまり変わっていない気がする。
それとも、僕と同じくらい調子が悪いとしてもそれを表に出さない気概があるということなのか。
すぐ横を歩いている仲間の瞳は、まるで輝きを失っていない。
頬についた汚れだって気にしてないように見える。
「負けていられない」
僕は、自分で立てるようになろうと、ひとりでの参加を決めた。
硬い地面での睡眠や、豊かになっていた食生活からの反動とか、疲れが溜まって当然なんだろうけれど。その程度で挫けるなんて、あり得ない。駄目すぎだ。
こっそりと魔法で汚れを消し去ることも考えたけど、そんなのズルな気がした。
『御武運を、お祈り致しております』
僕を信じて待つと言ってくれたブレトのところへと帰った時に、自分で自分を恥ずかしいと思わないで済むように。
僕は背筋を伸ばして、足を大きく前へと踏み込んだ。
行軍5日目。
分かっていたことだし、頑張るけど。かなりキツイ。
馬と同じ速度で走ってきたけど、国境まではまだ遠い。
「食生活最低だったあの時も、十分最悪だと思ってたけど。でも清潔で暖かな部屋でベッドを使って眠れてたあの頃の方がずっとマシだと思えるのって、不思議だよね」
人間って、今が一番つらいと思うものなのかも。
「どんなに辛い記憶だろうと、日々の中で薄れていくものなんだなぁ」
ブレトや執事長たちに甘やかされまくったせいもあるんだろうけど。
今この時ばかりは、あのカラフルな見た目だけの食事すら、変化があって良かった気すらしてくる。
頭の中に思い浮かぶのは、目の前にある最悪と記憶の中の最悪。
最悪と最悪しかない選択問題に、正しい解なんてある訳がない。
実際には小麦麸の何かよりずっとおいしいんだよ、こっちの方が。
それでも、味も香りも食感もずっとずっと同じままというのは、なかなかの苦行だ。マシだなんてやっぱり思えない。
「1日3食、全部固形糧食って最悪だよね」
仲間の声に、そこかしこから同意の声が上がる。僕も、無言で頷く。
ううん。さっきの選択問題に、正解が出ちゃった。
同意できる仲間がいる、この食事の方がずっといい。
行軍6日目。
ペースが一気に落ちた。
何故かと言えば、強化魔法が使えない仲間がチラホラと現れ出したからだ。
「クソッ、なんで発動しないんだよ」
不甲斐ない己を叱咤する、仲間の涙声が辛い。
「落ち着いて。疲れが溜まってきたんだろう。川岸まで出たら、少し休憩を取ろう」
指導係の先輩の冷静な声にホッとした時、発動しなかったそいつの泣き叫ぶ声が響いた。
「なんで、俺が! 俺だけが!」
「落ち着くんだ。お前だけじゃあないだろ」
もうひとりの先輩騎士が取りなしたけれど、彼がそれで落ち着くことはなかった。
確かに、すでに2名が救護班の乗る馬車へと収容されている。
指導係の先輩が救護を呼ぶための赤い魔法弾を空に打ち上げると、救出担当の先輩が瞬時に駆けつけて脱落者を抱えて走り去っていった。
あっという間すぎて、挨拶すらできなかった。
だから先輩の言葉は間違ってはいないんだけれど。
けれどきっと、彼が嘆いているのはそんな事じゃあない。
前の2名は男爵家と子爵家出身の、下級貴族家の出の新人騎士たちだった。
対して、彼は三男とは言え侯爵家の人間。
魔力量は、概ね高位貴族であるほど多いとされる。
だから彼は高位貴族の生まれとして、魔力量には自信があったのだろう。
だが、魔法を使い続けられるかどうかは一概に魔力量だけが効力を発揮する訳ではない。
発動させたい効果について無駄なくイメージできているかどうかが大きいのだ。
影響を及ぼす対象について理解していればいるほど、より効果的に効率よく魔力を使うことができ、結果として長時間の発動を可能とできる。
つまり、彼は座学を真面目に受けず、自らの魔力量に頼り切って曖昧な定義のまま魔法を行使していたということだ。
「……僕も、同じだ」
ハルに師事を請われて、いい気になっている場合ではない。
効率的に魔力を使って同じ効果が得られるような、できる限りの省力化を考えなくちゃいけないんだ。
「普段の訓練では、これほど限界ギリギリまで魔力を使い続けることってないもんな」
誰かの呟きに、心の中でだけ、そっと頷く。
安易に魔力量にのみ頼っていてはいけないという戒めを、心に刻んだ。
皆の気分が沈んでしまったからだろうか。
元々曇天だった空から小雨が降りだした。
霧のようなちいさな粒が顔に貼り付くようで鬱陶しい。
「少し早いが、本格的に降りだす前に崖下の川辺へと出て食事を取ろう。彼のことは心配するな。俺が付き添って追いかけさせる」
飲み水の確保もしなくちゃいけないし、順当な判断なんだろう。
指導係の先輩騎士の言葉に、皆黙ったまま頷いて、足を動かした。
泥濘というほどではないものの雨に濡れて滑りやすくなってきた山の斜面を慎重に下りて眼下を流れる川岸へと向かう。
その足取りは、強化魔法をもってしても誰もが重かった。
魔力量は、幼い頃からの鍛錬で増やすことが可能だ。
けれど、だからといって十倍、二十倍にまで増やすことができるというものでもないのだ。数割程度増やせれば良い方だという。
つまり所詮は生まれた時に有している魔力量がモノをいう。
生まれが高貴であるからと言って確約されたモノではないということだ。
曖昧な定義でも発動できる僕の魔力量は、王国最大だと言われているけれど、実際にそれがどれだけのモノなのか。調べる術がないのと一緒なのかもしれない。
注)運動して汗を搔いているというより、寝汗など代謝で汚れているんだと思って下さい ><




