【第2部】雪国編 第1話雪は、壊れる音を消す
雪国に入った瞬間、音が減った。
風は吹いているはずなのに、耳に届かない。蹄の音も、荷車の軋みも、雪に吸われて形を失う。カイルは外套の襟を立て、街門をくぐった。
フロストハイム――半年を雪に閉ざされる北方都市。
王都からの依頼文には、こうだけ書かれていた。
「雪害対策の助言。急を要す」
街は整っていた。石造りの建物は分厚く、屋根は鋭い角度で雪を落とすよう設計されている。窓は小さく、壁は何度も補修された跡があった。
寒さと共に生きる街の、完成形に見える。だが、カイルの足は自然と止まった。
――静かすぎる。
人はいる。通りを歩き、荷を運び、挨拶も交わす。だが街全体が、呼吸を止めているようだった。音だけではない。動きが、鈍い。
一軒の家の前で、彼は屈み込んだ。雪を払い、基礎の石に触れる。
冷たい。だが、それだけではない。石の下に、微かな段差があった。ほんの指一本分。凍結と融解が、何年もかけて押し上げた痕跡。
「……動いてるな」
呟きは、すぐ雪に消えた。
案内役の役人が、怪訝そうに振り返る。
「何か?」
「いえ。ただの癖です」
カイルは立ち上がり、通りを見渡した。
扉がわずかに歪んだ家が多い。窓枠の隅に、古い亀裂が走っている。どれも致命傷ではない。だが共通している。
直して、使い続けている。
「この街は、崩れたことがないのです」
役人は誇らしげに言った。「雪は厳しいが、我々は慣れている。建物も、人も」
カイルは答えなかった。崩れない街ほど、危ないことがある。
広場に出ると、中央に大きな建物があった。集会所だろう。煙突から白い煙が上がり、周囲の雪だけが不自然に溶けている。
「最近、暖房を増設しました」
役人が言う。「魔法暖房です。冬でも快適に」
カイルは足元を見た。溶けた雪が、地面に染みていない。水は逃げ場を失い、夜になれば凍る。凍れば膨らみ、基礎を押す。昼に溶け、また沈む。
それを、何十年も。
「……春は、いつ来ますか」
唐突な質問に、役人は目を瞬いた。
「四月です。雪解けは――」
「その時、事故が起きます」
役人の笑顔が固まった。
「冗談でしょう。雪害なら冬に――」
カイルは首を振った。
「雪国の事故は、音がしません。崩れず、倒れず、ただ歪みます。そして人は、気づいた時には動けない」
役人は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
カイルは集会所の壁に手を当てた。石の継ぎ目が、わずかにずれている。
「この街は、強い。だから壊れない」
彼は静かに続けた。
「でも――もう壊れ始めています」
その夜、宿で地図を広げた。標高、風向き、雪解け水の流れ。街は盆地の底にあり、冷気と水を溜め込む形をしている。
暖房を増やせば増やすほど、地面は昼に緩み、夜に凍る。
カイルはペンを取り、図面の余白に一本の線を引いた。
建てない場所。
その線は、街の中心を貫いていた。
外では、雪が降り続いている。音のない雪が、すべてを覆い隠す。
――この街は、まだ壊れていない。
だが春になれば、誰にも聞こえない音で、壊れる。
カイルは外套を脱がず、そのまま椅子に腰を下ろした。
止めるべきか。止められるのか。
雪は、答えない




