第6話 建てない街は、寒い
春は進んでいた。だが街は、浮かれなかった。
工事区画は封鎖され、資材は撤去された。杭は抜かれ、掘り返された地面は、仮の溝と板で覆われている。見た目は中途半端で、未完成だ。
人々はそれを見て、口をつぐんだ。
完成しない工事は、希望にならない。
無人凍結区画は、さらに広げられた。空き家が増え、通りは途切れ、雪が残る場所が街の中に現れる。
「寂しくなったな」
誰かが言った。否定できる者はいなかった。
商人は売上を落とした。宿は空室が増え、交易の便も悪くなった。
数字は、はっきりと悪化している。領主は、報告書を机に積み上げていた。
「……街が、後退している」
絞り出すような声だった。カイルは窓の外を見た。
雪の残る区画と、灯の集まる区画。温度差が、目に見える。
「戻っています」
「何がだ」
「街の呼吸です」
領主は黙った。呼吸という言葉は、税や交易の報告書には出てこない。
事故が起きてから、春は何度か雪解けと凍結を繰り返した。
だが――あの“ずれる音”は、二度と鳴らなかった。
地面は沈まない。家は歪まない。
夜、眠ったまま動けなくなる者はいない。代わりに、寒い。
丘の移設地では、風が強く、夜は厳しい。
暖炉は小さく、薪の消費も増えた。楽な暮らしではない。
それでも、朝は来る。子どもたちは丘を走り、転んでも、地面は平らだ。
母親は、夜中に床の軋みを気にせず眠れる。
無人区画では、雪が積もり、何も起きない。そこは“何もしない場所”だ。
ある夕方、あの商家の父親が、カイルを訪ねてきた。
ベルナで見た男とは違う。言葉が少ない。
「……店を、畳んだ」
「そうですか」
「客が減った。仕方ない」
男は遠くを見て言った。
「でもな、春が来るのが怖くなくなった」
その一言で、カイルは頷いた。
「家は建て替えない。直しながら使う。あんたが言っていた通りだ」
誇りも、感謝も、強調はない。
ただ、受け入れた声だった。
夜、広場――かつて工事予定だった場所に、人が集まっていた。
簡素な灯り。温かい酒。音楽はない。
寒いから、長居はしない。だが誰も、床を気にしていない。
子どもがカイルの外套を引いた。
「ねえ、この街、前より貧しい?」
同じ質問だ。だが、答えは少し変わった。
カイルは考え、そして言った。
「寒い街だ。便利でも、強くもない」
子どもは眉をひそめる。
「でも?」
「壊れない街だ」
子どもは、しばらく考えたあと、走り出した。転ばない。立ち止まらない。
その背中を見送りながら、カイルは思う。
王都なら、この判断は通らない。数字が先に来る。見栄が勝つ。
だが、ここでは違った。犠牲は出た。失ったものも多い。それでも、街は残った。
後日、王都から使者が来た。再び、復帰の話だ。
「雪国での判断、報告は受けている。手腕を評価する声もある」
カイルは首を振った。
「評価はいりません」
「なぜだ」
「評価は、次に“急げ”と言われる前触れです」
使者は苦笑した。
「……厄介な監督だ」
「ええ」
否定はしなかった。使者が去ったあと、領主が言った。
「ここに、残るのか」
「しばらくは」
「次の街から、呼び戻されるかもしれん」
カイルは外套を手に取った。
「その時は、行きます。似た構造なら、似た壊れ方をする」
「止められるのか」
「分かりません」
正直な答えだった。
「でも――建てない線は、引けます」
夜、現場小屋で図面を広げる。
次の依頼は、山岳の坑道都市。崩落の噂。カイルは、まず余白に線を引いた。
建てない場所。掘らない場所。
外では、風が鳴る。寒い風だ。だが、その音ははっきりしている。
雪が、氷が、地面が、今どこにあるか分かる音だ。
――壊れない未来は、派手に完成しない。
――便利にも、豊かにも見えない。
ただ、今日と明日が同じ形で続く。
それだけだ。カイルは外套を羽織り、灯を消した。
寒い街に、夜が降りる。
だがその夜は、誰の命も、奪わなかった。




