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第5話 春、音のない崩壊

春は、音を立てずに来た。

朝、街の雪は一気に減っていた。

屋根の白はまだ残っているが、通りには黒い地面が覗き、靴底が濡れる。

人々はそれを見て、少しだけ顔を緩めた。

「今年は早いな」

そんな声が、あちこちで聞こえた。

雪国では、春は希望だ。凍えずに済む季節。重ね着を減らし、外に出られる時間。

――だから、危ない。

カイルは無人凍結区画の端に立ち、街を見下ろしていた。

風は弱い。空は白く、日差しは柔らかい。だが地面は、緩んでいる。

踏み出すと、靴がわずかに沈んだ。

「……来たな」

呟きは誰にも届かない。

工事区画では、作業が再開されていた。

領主は停止を命じたが、建て替えを途中まで進めた区画は、すでに“戻れない”状態だった。

掘り返された地面。新しい基礎石。その下に残る、冬の水。

「様子を見ながらだ」

監督役の技術官が言っていた言葉を、カイルは思い出す。

様子を見る、という判断ほど、現場で危険なものはない。

昼。気温がさらに上がる。

屋根から落ちる水が、音を立て始めた。

滴る水が集まり、通りの端に小さな流れを作る。人々はそれを跨ぎ、笑って通る。

「春だ」

誰かが言った。そのときだった。

工事区画の一角で、誰も聞き慣れない音がした。

崩れる音ではない。割れる音でもない。

――ずれる音だ。

湿った布を引きずるような、低い音。地面が、呼吸するように動いた。

カイルは走った。

「全員、止まれ!」

声は届かなかった。人は春に油断する。冬の緊張を、無意識に解いてしまう。

基礎の一つが、ほんの数指分、横に滑った。それだけだ。

石は倒れない。壁も立っている。屋根も落ちない。

だが――建物は、建物ではなくなった。

床が、傾いた。最初に気づいたのは、中にいた女だった。

商家の裏で、帳簿を整理していた。椅子が、わずかに動く。

「……?」

立ち上がろうとして、足がもつれた。床が、平らではない。

次に、扉が開かなくなった。歪んだ枠が、内側から噛み合う。

「誰か――」

声は大きくならない。恐怖は、まだ“確信”になっていない。

外では、誰も異変に気づいていなかった。

建物は立っている。見た目は、昨日と同じだ。

だが内部では、柱がねじれ、梁が軋み、力が逃げ場を失って溜まっていく。

壊れる準備が、完了した。

カイルは現場に飛び込み、壁に耳を当てた。聞こえる。

木が、石が、呻いている。

「人がいる!」

叫び、仲間を呼ぶ。だが救出は、難しい。崩れていないからだ。

壊れた家なら、壊せばいい。だが歪んだ家は、触るほどに人を殺す。

「待て!」

誰かが梁に手を掛けるのを、カイルは止めた。

「今動かせば、全部来る!」

時間が、ゆっくり流れる。中では、女が床に伏せていた。

立てない。体は無事だが、足元が斜めになり、力が入らない。

「助けて……」

声は、壁の向こうで薄くなる。カイルは判断した。

「床を割る」

周囲が息を呑む。

「上からは駄目だ。下から、逃がす」

凍結で持ち上げられた基礎の下に、逃げ道を作る。

水を、力を、抜く。作業は荒い。だが躊躇すれば、時間が人を殺す。

床板が外され、冷たい水が噴き出した。凍っていた水が、解放される。

建物が、ほんのわずかに沈む。その瞬間、女の体が動いた。

「今だ!」

引きずり出され、外の空気に触れたとき、女は初めて、声を上げて泣いた。

救えたのは、一人だけだった。別の建物では、寝たまま動けなくなった老人がいた。

梁は落ちていない。だが床が傾き、胸を圧迫していた。

救出が間に合った時には、呼吸が止まっていた。

街は、静まり返った。叫びも、瓦礫もない。

ただ、立っている建物と、横たわる人。

これが――雪国の崩壊だ。

領主は顔を蒼白にし、立ち尽くしていた。

「……崩れていない」

そう呟いた言葉が、彼自身を裏切る。

「崩れています」

カイルは答えた。

「目に見えないだけです」

その日の夕方、工事は完全に停止された。誰も反対しなかった。

春は、人を救う季節ではなかった。油断を殺す季節だった。

夜。無人凍結区画に、風が吹き抜ける。

空き家は寒い。だが、地面は動かない。

カイルはそこに立ち、街の灯を見つめた。

犠牲が出た。止めきれなかった。

それでも――

もし、建て替えを続けていたら。答えは、分かっている。

この街は、静かに全滅していた。

春は優しい顔をして、音を消して、すべてを壊す。カイルは外套を深く閉じた。

次の判断は、もっと冷たい。

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