第90話 慈母の微笑
その背中を見付けた時、リォーは俄かには信じられなかった。
英雄神ユノーシェル唯一の男児でありながら魔王の落胤という畏怖の存在が。
数分前まで、イリニス宮殿の騎士をことごとく退け、女王や王配を脅し、平和と希望の象徴である聖国を恐怖のどん底に突き落としていた男が。
たった一言を絞り出したきり、今にも泣きそうな顔で逃げ帰ろうとしているなんて。
(そんなはずないだろ)
ハルウは、目的のためにレイを十六年間騙し続け、甘い言葉でイリニス宮殿まで連れ出し、希望をちらつかせて絶望に叩き落とした男だ。
それが、女のたった一言で、前にも後にも進めなくなるなんて。
「――まさか、臆してんのか?」
知らず疑問が口をついてしまったが、そうとしか思えなかった。
皇帝にも女王にも、魔王にさえ怯まなかったくせに、まるでこの先には――砦の中には、この世で最も重要で、最も恐ろしい秘密が隠されているとでもいうような怯えようではないか。それを暴けば、世界は終わり、とても生きてはいかれないとでもいうような。
けれど、その問いの答えは得られないはずだった。
ここは現実のように見えて、現実ではない。夢とも記憶とも違う、無の中だ。
無の中は、何も無くて、全てが有る。世界の外側、或いは肚の中。
だから、
「……なぜ、君がここにいるの?」
この男が振り向いて答えるのも、或いは当然なのかもしれない。
「お前の親父殿に送り込まれたんだよ。……命を懸けて来いとな」
リォーは敵意もそこそこに、正直にそう答えた。
出来損ないの笑顔を貼り付けていたハルウが、眉間に小さく皺を寄せる。
「あんなもの、父親じゃない」
「そこかよ」
目的や手段など、他に気になることは幾つもあるだろうに、まず反論するのはそこらしい。
(なんか、子供になってないか?)
ハルウの印象は最初から、不気味な、得体の知れない奴だった。何を考えているかも、どれ程の手練れかも分からない。
だが今リォーの前にいるのは、嫌なことを言われて機嫌を損ねる、年相応以下の子供にしか見えない。
だが、実際に今の精神年齢は、この時代に影響されているのかもしれない。
修繕したばかりのような砦、魔気の濃い荒れ地。ハルウと話していた、金髪に琥珀色の瞳の女。
リォーの知識だけでは分かるはずもないのに、ここがユノーシェルの生きている時代だと、リォーは理解していた。
だから、この男に次にかける言葉も決まっていた。
「見ないのか?」
「!」
「この先――砦の中にある真実を」
これは、もしかしたら自分の言葉ではないのかもしれないと、ふと思った。
誰かが――まさにこの時、力になれずにいた誰かが願った言葉が、リォーの口を借りて喋っているのではないかと。
それもまた悪くないと思っていたら、ハルウが露骨に泣きそうな顔をした。
(おいおい)
まるで心が剥き出しではいなか。予想外の反応が続くものだから、リォーは怒りも一時色褪せるくらい困ってしまった。
あるいは、今までハルウが常に笑顔の下に全ての感情を隠してきたからこそ、そう思うのかもしれないが。
「……行きたく、な――」
い、と言い切る前に、おぎゃあ、と微かに泣き声が聞こえた。二人して、ハッと声の方を見る。砦の中からだ。
「赤子がいるのか?」
それは、ただの疑問だった。
この荒涼とした何もない場所の、暮らしやすいとは言い難い厳めしい砦に、新生児というのはあまりに不釣り合いだ。だが今聞こえた声は、明らかに生まれて間もない赤子だろう。
それだけの問いだったのに、ハルウの顔は益々酷くなった。
違う、と顔を歪めて首を横に振る。
「……違う。ルーシェは、他の男の子供なんて……」
駄々をこねるような口振りに、リォーは問答無用でその背中を蹴飛ばしたくなった。だがそれより半瞬だけ早く、口が動いた。
「いや、おかしいだろ」
「…………?」
ハルウが、幼子のように瞠目する。リォーも、自分で言ったくせに驚いていたが、構わず口が動くに任せた。
「サナーティオに輿入れして、まだ八か月も経っていないんだぞ。お前、月日もろくに数えられなくなったのか?」
「それは……」
「そもそも、まだ婚約の段階で手を出すなんてことは、さすがにないだろう。両国の目的は、完全な終戦と和平なんだから。それに、もし本当に開戦派がいるとするなら、その筆頭はサトゥヌスだろ。奴が戦争を望むなら、そもそもルシエルを受け入れたりはしない」
リォーは勿論、今が双聖暦の何年何月かも知らなければ、当時の詳細な情勢も派閥も知らない。だが、断言した。どちらが正しいかは、本能で分かったから。
「お前、分かっているくせに目を背けたのか?」
けれどそう続けたのは、多分リォー自身だ。
だから、ハルウの色違いの目に刹那、敵意が戻ってきた。
「……何だって?」
「こんなこと、お前なら少し考えれば分かるだろ。それを確かめもせず、阿呆みたいに立ち尽くして」
そう、多分腹が立ったのだ。
レイをあんなにも手酷く傷付けておいて、自分は少しの傷でもう動けないと嘆く。不幸を一身に背負い込んだような顔をして、独り殻に閉じ籠ろうとする。
そういう態度には、我慢がならない。
「お前は、完全に正解と分かっている道じゃないと進めないのか? 不正解の道に一歩でも踏み込めば、二度とやり直せないのかよ!?」
それまでに積もり積もった怒りに任せて、気付けばその顔を殴り飛ばしていた。手応えは、奇妙にない。けれどそれは、ハルウがいつものように器用に避けたからでは、多分ない。
「よくも……!」
殴られて尻餅をついたハルウが、驚きと怒りに顔を赤くする。けれど、あの馬鹿みたいな魔法で反撃してくることはなかった。
「言っとくけどな!」
まだ怒りが収まらぬまま、ハルウのお綺麗な顔面に指を突き付けて、リォーは一気に捲し立てた。
「俺はお前の父親でもなけりゃ、味方でもない。レイみたいに何でもかんでも感情移入して同情して、全力で助けようなんて、これっぽっちも思わないからな!」
まるで子供の喧嘩だと、ここにヴァルがいたならば呆れたかもしれない。それくらい幼稚な言い分だし、内容だった。
けれど、言いたいことは辛うじて伝わったようだ。
「……君の助けなんか、要らない」
ハルウが、仇敵を見る目でリォーを睨み上げながら、その場に立ち上がる。向かい合えば、頭一つ分高い位置から、魔王と人のそれぞれから受け継いだ瞳が見下ろしてきた。
それを同じだけの力で睨み返して、リォーは半身を開いた。
「だったら、歩け」
そして現れた砦の入り口を、顎で示す。いつまでも、子供のように怯えているなと。
「…………」
逡巡は、僅か。
足を動かしたのは、リォーに負けたくないという子供のような意地の、ただそれだけだったかもしれない。
ハルウが二歩先を行きながら、二人は砦の中に入った。
扉は施錠されておらず、不審者を弾く法術の気配もなかった。護衛もいない。二人がどんどん廊下を進んでも、騒ぎ立てるものは何もなかった。
そして。
「フュエル」
声がした。中性的で少し掠れた、聞き覚えのある声。
ハルウが、ぴたりと足を止めた。リォーも横に並んで、廊下の奥を覗き込む。
金髪の女の背中が見えた。足元には、長い三角耳をそよがせた黒い獣がいる。
「……カナフ=ヴァルク」
「今、誰かと話していなかったか? 気配はないけど、音が」
「私は」
耳をぴくぴくと動かすヴァルの言葉を遮って、フュエルが言った。
「……嘘は吐いていない。ルシエルは、確かに泣いている」
聞こえてきた声に、ハルウの肩がぴくりと跳ねる。隣を見なくてもどんな顔をしているか分かったが、敢えて見ないでいてやった。まだ、逃げ出さないでいたから。
「あぁ」
と、耳を動かすのを止めたヴァルが、フュエルの言を肯定する。
「聖国に戻ってきたってのに、脱獄したはずのハルウがいつまで経ってもルシエルのもとに現れなくて、ね」
「…………ッ」
その言葉に、フュエルがいつも毅然と揺らがなかった背中を、苦しそうに丸めて蹲った。まるで取り返しのつかない罪を犯してしまったかのように震えている。その背中に、何年もエングレンデル王国からの侵攻を跳ね除け続けた苛烈王とまで呼ばれた威厳は、豪もない。
そして、隣のハルウは、
「……な、ん……?」
鳩が豆鉄砲を食ったように、瞠目していた。まるで、想像もしていないところで天地がひっくり返ったというような驚きようだ。
そして事実、ハルウにとってはそうなのだろう。
大切な妹が泣いている。そう聞かされた理由が、全く正反対だったと知るのは。
「そんな、まさか……あのフュエルが、嘘を……?」
本当の時の流れでは知ることのなかった言葉を、ハルウはすぐには呑み込めないでいた。
けれど時は進む。ハルウが傷心のまま去った後の砦の中で。生まれて初めて、自分のためだけについた嘘に苦しむフュエルの悔悟とともに。
「……母は、きっと悔いている。より多くの善いことのためと信じて、ルシエルを送り出したことを」
ユノーシェルがルシエルの婚約に反対しなかったのは、それが最大多数の最大幸福だと信じたからだ。
勿論、ルシエルとハルウの気持ちは承知していたが、二人が兄妹として暮らすうちは、ユノーシェルにも出来ることはなかった。
「だが、こうなってしまえば、母は同じ道を求める二人を二度と引き裂きはしないだろう。二人が望むなら、二人が穏やかに子供を育てられるように、全力で守る」
人の営みに寄り添う第三の神々の特質なのか、個人の気質なのか、ユノーシェルは困っている者を見捨てることが出来ない。それが魔獣でも強人種でも同じだ。善性種が奴隷として扱われていると知れば解放令を出すし、飢饉があると聞けば自ら弓を取って駆け付け、畑も耕した。
滅私奉公では国を導くことは出来ぬと諫めたサトゥヌスや重臣に、ユノーシェルはそんなんじゃないよと笑って答えた。
『したいからしてるんだ。結果はついでだ』
その言葉の通り、ユノーシェルはしたくないことは意地でもしない。
ルシエルの婚約も、彼女が一言嫌だと言えば、ユノーシェルは婚約以外の方法で和平をもぎ取ってきたはずだ。
それが、フュエルには誇りであり、目標でもあった。そんな母に近付くために、彼女は常に公正であり続けた。
けれど。
「私は、それが許せない。どうしても……!」
父を追いやったハルウのために、母の立場を悪くするだけのルシエルのために、母が傷付くのが許せない。或いは、自分は父を失ったのに、ハルウが幸せな家族を得ることを、不公平と感じたのかもしれない。
真実は、フュエルの胸の中にしかない。
けれどそれを、ハルウが知ることは決してない。この過去を放棄した、臆病者には。
「……恨めしいか?」
そう聞いたのは、どちらだったか。
けれど、返事はなかった。
ただ、フュエルを慰めるでもないヴァルと、フュエルの弱々しくも頑なな背を、穴が開くほど見つめていた。
赤子の泣き声が、聞こえる。
外で聞いたよりもしっかりと、元気な赤子の泣き声が。
「……行こう」
ふらふらと、誘われるようにハルウが足を踏み出す。目的の部屋は、すぐに見つかった。
小さな窓から射す陽光に、部屋が白く優しく照らされている。窓際には純白の寝台と、小さな傍机があった。
寝台の上には、二十歳過ぎの、たおやかな女性が上半身を起こしていた。深い紫色の長い髪が光を弾き、目も綾に輝いている。
その横顔は零れる髪に隠れて見えないが、その視線が向かう先は、はっきりと分かった。
純白のシーツを被せた膝の上、やはり真っ白なおくるみに包まれた、小さな小さな新生児。太陽の光を嫌うように顔が窓の反対に向けられ、入り口に佇立するリォーたちにも、その顔が良く見えた。先程までぐずっていたせいか、顔はほんのり赤い。
紅葉よりも小さな手。桃のような丸い頬。ちょんと小さな唇。薄い眉と髪は母よりも薄い藤色で、その下の硝子玉のように円らな瞳は、橄欖石のような鮮やかな緑。
憎い青色など、どこにもない。
「……まさか」
ハルウが、呆然と震えた声を上げる。その時にはもう、リォーにさえ確信があった。
愛しいルシエルの腕に抱かれた小さな赤子の内に、一体どんな魂が眠っているかなど。
「レイ……なの?」
ハルウが、そう言ったきり、言葉を失った。その声にも、立ち尽くした男にも、寝台の上の女は気付かない。
ただ、誰かの面影が見える娘の顔を、愛おしそうに見詰めている。
「『妻よりも可愛い子』……か」
リォーは、魔王の意地の悪い言葉を思い出した。約束を果たすため、見守ることしか出来なかったもどかしさを少しずつ取り戻すような、拙い優しさを。
『まだ気付かないの?』
ハルウを眠らせる直前、魔王はそうも言っていた。
奴は最初から気付いていたのだ。レイが、誰の生まれ変わりなのかを。
「僕の、過ち……か」
ルシエルの微笑みを瞼に焼き付けようとするかのように見つめ続けたまま、ハルウが呟いた。
吐息混じりの、悲しそうな、嬉しそうな声だった。




