第88話 生贄は、ひとつ
ハルウが苦しげに眠る横顔を一時見つめた後、小さな魔王は広がり続ける闇を振り仰いだ。
「さて、どうしたものかな」
闇は既に宝蔵庫の一部を残して全体を呑み込んでいた。足元にも漆黒は迫り、一歩でも踏み外せばそのまま奈落に落ちていきそうだ。
死という奈落に。
「レイを取り戻せないってのはどういうことだ」
彫言の剣は抜き放ったまま、リォーは魔王の前に回り込んだ。
魔王が、一拍遅れてリォーを振り返る。それから嘆息一つ、面倒臭そうに説明の口を開いた。
「前回は、生の神の加護が残っていたことで、無が彼女を掴まえきれなかった。だから祈りが強く作用した。そこに、母親と、ぼくと、お前の存在が一瞬合わさって奇跡が起きた」
「奇跡……」
人々が涙を流して求める奇跡を、魔王はさも興味のない偶然のように軽く言う。だがその説明なら、リォーは可能性があるように思えた。
「それは、生の神に祈りを捧げることで補えるってことじゃないのか?」
「浅はかだなぁ」
「なんだとっ?」
子供らしい笑みで心の底から馬鹿にされた。だがその後に続けられた正論に、リォーは瞬殺で押し黙った。
「お前は、命が一つ生まれ出でる力が、たった幾つかの言葉の羅列だけで賄えると本気で思ってるの?」
「っ」
リォーは出産の大変さについてどうこう言えることは一つとしてないが、言葉にして問われれば、とても是とは答えられなかった。
魔王が続ける。
「彼女を引き戻すには、無に別の対を与えるか、彼女が孤独でないことを証明するしかない。だがさっき言った通り、ぼくは消滅するわけにはいかない。お前の持っている黒泪を彼女に渡そうとしても、その前に無に気付かれれば奪われる可能性もある。だから使えない」
「だったらどうやって……」
「可能性があるとすれば、お前が代わりになることかな」
「俺が?」
予想外の所で白羽の矢が立ち、リォーは目を剥いた。
「お前もまた、弱くはあるが孤独な者だ。神の血を持ち、家族との繋がりが弱い。……まぁ、一か八かだけど」
その指摘に、リォーはラティオ侯爵邸でヴァルに言われた言葉を思い出した。
『神法を使えないあんたの場合は少しくらいなら離しても平気だが』
ヴァルはリォーが黒泪を持っていることを知っていた。それはリォーにも黒泪が必要だと知っていたからだ。
黒泪が必要なのは、孤独な者。
「……そういうことか」
ヴァルは最初から、リォーを犠牲にすると決めていたのだ。
リォーの黒泪を寄越せと言った時も、レイよりも時間はかかるだろうが、無に呑まれると知っていた。そしてリォーがついていくと決めた時も、魔王がそう言いだす可能性を、きっと計算していたに違いない。
計算違いがあるとすれば、無が世界を再構築するという、その一点くらいだろう。
リォーは、王証の入った木箱の横に座り、ずっと沈黙しているヴァルを睨んだ。
「見殺しにするつもりだったのか」
双聖神教とは違う神々を祀る土地で聞いた、生贄を求める神の話を思い出す。
無の神に、孤独な者を捧げよ。
つまりはそういう腹積もりだったのだろう。
いつも強固な自信を宿していたヴァルの紅玉の瞳が、肯定するように静かに伏せられた。
「……九年前、坊主があの場に居合わせていたことは聞いていた」
正直、腹は立ったが、九年前と出来る限り近い状況を整えたいとは、リォーでも考えただろう。感情のままに罵ることは出来なかった。
(どうする……どうすれば……)
レイのために、世界のために死ねと言われ、是と即答できるほど、リォーは献身的でも自己犠牲に長けてもいない。
死ねと言われれば、嫌だとも怖いとも思う。
しかも魔王の口振りでは、リォーが身を投げうっても成功する確率が高いとは言い難そうだ。
そんなリォーの迷いを見透かしたように、魔王が目を細める。
「何せ、お前は神と人の子というだけだが、あの子は色々と混じっていて複雑すぎる。血というのは、混ざれば混ざるほど複雑になるからね」
その言い様は、妙に意味深だった。と同時に、ヴァルに感じた嘘を思い出す。
(無が狙う理由の違いは、それか?)
神法が使えるかどうかという理由よりも、血の由縁に依ると言われた方が納得がいく。
だが、疑問もある。
ユノーシェルの直系は、サトゥヌスとの娘であるフュエルから続いている。その血筋に人間種以外の血が入ったという記録は、聞いたことがない。
「色々って、神の血以外に何が……」
「なりません」
そうリォーの疑問を遮ったのは、いまだ自失しているエレミエルを支えるサフィーネだった。その背後の廊下に詰め掛けていた騎士団は、無が迫る中、既に退散させたのか避難を促したのか、姿は見えない。
サフィーネが、普段の柔和な表情を険しくして続ける。
「聖国で青の王子を失うことがあれば、帝国は決して黙っていないでしょう。現皇帝が報復戦争をしかけるほど愚かではないと、信じたいですが……」
それは、リォーの身を案じているはずの言葉なのに、怨敵を睨むがごときだった。少なくとも、本音ではリォーの命で娘が助かるならそうしたいと思っていることが、よく分かる。
(……どっちなんだよ)
レイが嫌だと、まるで災いの元凶のように拒絶していたくせに、失うとなれば死に物狂いで足掻く。まるであべこべだ。その顔が、自国にとって重要人物を殺してでも娘を取り戻したいと言っていることは間違いないくせに。
だが、サフィーネの判断は恐らく正しい。娘と世界を救っても、アイルティア大陸一の大国であるエングレンデル帝国との関係が悪化すれば、聖国といえどもその危機は計り知れない。
何より、リォー自身もレイとは目的のために数日を共にしただけだ。友好国の王女ではあるが直接の関係はなく、その喪失に損害はない。
(……ない、はずだ)
リォーは一度だけぐっと目を瞑ってから、改めて魔王を見た。
「……証明ってのは、どうすればいいんだ」
苦々しく絞り出す。
案の定、魔王は慈悲深く笑った。
「おや、死ぬのは怖いかい? まあ、それもそうだろうね」
けらけらと、リォーの弱さを嘲笑う。
「でもそんなんじゃ、証明だって到底出来やしないさ。だってそれにも、君の命全てが要るんだから」
「!」
それはいかにも魔王の名を冠するに相応しい、卑怯な答えだった。希望をちらつかせておきながら、結局全てを要求する。初めから逃げ場などない。
真面目に聞いた自分が度を越した間抜けのような気がして、沸点の低い怒りが再び再燃した。ギリギリと奥歯を噛みしめて、吐き捨てる。
「確かに、あんたが全部お見通しなように、俺は迷ってるよ」
ポケットに隠したままの黒泪を取り出し、未熟な自分への苛立ちを誤魔化すように、魔王に投げ付ける。
「おっと」
魔王が、それをくるりと一回転して受け取る。
「これ、一応ぼくの分身なんだよ? もっと大事に扱ってくれなきゃ」
「それでも」
口を尖らせて文句を言う魔王の言を、リォーはばっさりと遮った。
「諦めるって選択肢だけはないんだよ!」
そして、小さな子供の襟を渾身の力で掴み上げた。ぐっと、鼻先が触れ合うほどに顔を近付ける。
「教えろ」
「…………あぁ、いいとも」
してやったりと、魔王が嗤った。バチッと小さな痛みが指先に走り、リォーの無礼な手を眼差し一つで外させる。
それから、つぶらな緑眼を細め、王証のすぐ傍らにお座りする黒猫もどきに視線を向ける。
「ヴァル。寄越せ」
「…………」
紅と緑の瞳が、一瞬凄絶に絡み合う。不穏な空気に、自失していたエレミエルがやっと現実に戻ってきて声を震わせた。
「な、何をするつもりですか……?」
だがヴァルはこの問いには答える気がないようで、木箱を器用に開けると、中に丁重に収められていた神弓の欠片を咥えると、ぴょんと床に飛び降りた。そのまま、魔王のもとへぽてぽてと歩み寄る。
「……いけません……それは、聖大母の……!」
「あれ、娘の命より、先祖の遺物が大事だった?」
「ッ」
ヴァルを待つ間にハルウの手から取り上げていた残りの神弓を見せつけながら、魔王がエレミエルに憐れみの微笑を向ける。息を呑む母にはそれだけで見切りをつけて、魔王はヴァルからも王証を受け取った。二つの欠片が、魔王の両手に収まる。
「安心していいよ。王証がないと、ここはすぐに無の腹の中だ」
言いながら、弓柄から真っ二つになっていた神弓の断面同士を押し付ける。すると、みるみるくっついた。吸い込まれるように断面は消え、まるで一度も離れたことなどないかのように継ぎ目が見当たらない。淡い赤色の光も、息を吹き返すようにその輝きを増したように思う。
それを注視しながら、リォーは道理で自分達の足下だけ取り込まれずに残っているわけだと納得した。
原初の神である無に対し、第三の神であるユノーシェルの神気がどこまで対抗できるのかは未知数だが、ここより安全な場所は恐らく他にない。
無の広がる速さが一定だという確証もないし、サフィーネが先んじて逃がしていたイリニス宮殿の人々の脱出がどれだけ間に合ったかも気にかかるが、今は出来ることはない。
どこまで知っているのかも、本当に助ける気があるのかも分からない、魔王の言葉に従うしか。
「ぼくが使うのは、これだよ」
完全に復活した神弓をリォーにかざし、その中央に嵌まった紫色の宝石を見せ付ける。
短弓にしても寸胴な神弓は、子供の背丈に加えて縮小版のような魔王よりも大きく、子供が大人の武器を玩具にしているようにしか見えない。そこから滲む禍々しさというか覇気というかは、息苦しいほどに重く圧を放ってはいるが。
そしてその紫色の宝石もまた、見る者を引き付ける不思議な光を含んでいた。リォーはふと、天剣の柄の中央に象嵌された黄色の宝石を想起した。黄水晶とも琥珀とも違う、混じりけのない純粋な宝石。
この宝石にどんな意味があるのかと見入っていたいると、あろうことか魔王が指でちょんと摘まんでぽろりと引き抜いた。
「んなっ!?」
「「!!」」
これには、エレミエルだけでなくリォーもサフィーネも絶句した。
神気で出来た王証の宝石が手で外れるなど、どうして想像出来ただろうか。
そんな三人の様子を面白がるように見回してから、魔王は何でもないことのように種明かしした。
「これは、ユノーシェルとは別の神気――神仕のものだ。元々別物なのだから、外すなんて造作もないんだよ」
「それでも、普通は外したりなんかしないけどね」
「でもさぁ、神気になってまでくっついてるなんて、ちょっと気持ち悪いよね? 神に仕えるためだけの存在とはよく言ったものだよ」
少しだけ不快そうに口出しするヴァルに、魔王があっけらかんと天上の存在を小馬鹿にする。
その言葉に、リォーはこんな時だというのに先程の思考に立ち戻ってしまった。
「まさか、あれも……」
「もう一人の神仕のものだね。生意気そうな目をしていた」
思わずこぼしていた声に、魔王が懐かしむように肯定する。ハィニエルのことらしい。
(神仕……神に仕えるためだけの存在……ハィニエル派の始祖)
神気だけになってもくっついているとは、言い得て妙だと納得してしまった。サトゥヌスの存在を、消えてもまだ崇め続ける古の亡霊。
だがそもそも、リォーは天剣のことだとは一言も口にしていない。やはり思考を完全に読まれている気がして、今更ながら背筋が震えた。
そんなリォーに、魔王は気紛れに溺れた虫でも助けるように手を伸ばす。
「さぁ、どうぞ?」
差し出された小さな手の、真ん中に置かれた紫色に輝く宝石。大金貨程の大きさはあるそれが目の前に近付き、リォーは一瞬生唾を飲んで怯んだ。近付けば嫌でも分かる。その宝石が持つ、圧倒的な存在感を。
(あの時も、そうだった)
西端の国で、水に沈んだ王国の遺跡に何度も潜って挑んだ時も、そうだった。見当違いの所を探す間は分からないのだが、手に触れるほどの距離に迫ると、途端に本能が騒ぐのだ。これは力あるものだと。そして、この世ならざるものだとも。
あれが、思えば全ての始まりだった。
(あの時は、これで何もかも良くなると、思ったのにな)
ぐっと奥歯を噛んで大きすぎる悔恨を呑み込む。
それから、押し寄せる畏怖と緊張に覚悟を上書きして、リォーはそれを受け取った。
触れれば、不思議と温かい。
「これを、どうするんだ」
吸い込まれるように見詰めていた視線を元に戻す――その必要もない程至近距離に、緑眼があった。
レイと同じ、レイよりも透明度の高い緑色の光の塊。それが目と鼻の先から、リォーの青い瞳の奥の奥まで見透かしてくる。
「やることは簡単だよ」
瞳の中に映った小さな魔王が、耳元で優しく囁きかける。
「それを持って、お前が彼女にこう言うのさ。『――――』」
「!?」
続けられた言葉に、リォーは今度こそ言葉を失った。




