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第87話 幸せの腹の中

 思い出したくない。

 彼女とのことは、何よりも大切だからこそ、思い出したくない。

 あの頃、彼女はそのたった一語や吐息でさえも宝石のように煌めいて、美しく儚くこの体の隅々に降り積もった。

 彼女は、何も持たない異端な自分の全てだった。

 彼女と引き離されて、死ぬ思いで戻ってきた後のことなんか、もう二度と思い出したくはないんだ。




       ◇




 双聖歴三十年。

 プレブラント聖国第一王子ハルウは、エングレンデル王国へ嫁ぐ予定の妹ルシエルを誘拐し、両国の和睦を潰そうとした反逆罪で、双子の姉である第一王女フュエルにより投獄された。

 拷問は酸鼻を極めた。

 まず法術と法具で何重にもハルウの力を抑え付けられた。そして食事はおろか、水すらも極限まで与えなかった。

 だがハルウは半神半人で、生半な傷でも飢えでも死にはしない。頑丈さは人並みだというのになまじ回復力が高いために、何度も死にそうになりながら、その度に死にきれなかった。

 爪は全て剥がされ、鞭打たれて裂けた傷口からも皮膚を剥がされた。手足は切り落とされこそしなかったが、何度も壊死しそうになった。毎日、自分の血溜まりの中で目が覚めた。

 きっとフュエルはこの機にハルウから王籍を剥奪し、死ぬまで幽閉しようと考えていたに違いない。一思いに殺さなかったのは、エングレンデル王国に対する体面か、駆け引きか、或いは報復か。

 それを裏付けるように、二日に一度はフュエル自ら、血と汚物の悪臭が立ち込める牢に足を運んだ。

 その度に、彼女は言った。

 お前は悪だ、と。


「お前はいつも、国益を無視して我欲を優先する」


 違う。


「お前の利己的な振る舞いが、いつも我が国を破滅に導く」


 違う。そんなつもりはなかった。


「種違いとはいえ、ルシエルは妹だぞ。お前の信じる愛が男女のそれだと、本気で言っているのか?」


 違う。ルシエルは、妹などではない。


「お前は結局、私の成すこと全て、台無しにしてやりたいだけなのだろう。母の色を受け継ぎ、後継と認められ、父母の望みを体現する私の行いが、お前を否定するから」


 違う。お前を苦しめたいと思ったことなどない。

 けれど。


「お前はいつも、いつも……私から父様を奪う……!」


 けれど、間違ってはいないのだ。

 だからこそ、ハルウはフュエルの罰を甘んじて受けた。法術も法具も壊すことはせず、拷問にも抵抗はしなかった。

 フュエルのことはもうどうしたって嫌いだが、幸せでいてはほしいのだ。

 それでも、受け入れられないことはあった。


「ルシエルは、王子との婚約を受け入れたぞ」


 散々に痛めつけ、完膚の見当たらなくなった兄に、フュエルは淡々とそう告げた。


「狂った廃王子よりも、大国の王太子妃になる方がいいと、過たず理解していたようだ」


 そんなはずはないと、ハルウは最後まで認めなかった。

 けれど頭の中には、フュエルにより引き離されたルシエルの最後の声が張り付いて離れなかった。


『お兄様、お願いだから、お姉様と話し合って!』


 聖国の兵士が現れるたびに作られ続ける屍山血河を前に、ルシエルはぐしゃぐしゃの泣き顔でハルウの手を振り払った。


『わたし、こんなことをして欲しかったんじゃない……! ここまでしなければ一緒にいられないなら、わたし……お姉様に従う……!』


 ルシエルがハルウの手を離れたその一瞬に、フュエルはハルウを捉えた。自ら放った矢で、ハルウの腹を串刺しにして。


(ルーシェ……)


 ルシエルと離れて以降、ハルウはほとんどその言葉しか口にしていなかった。

 自分の愛が間違っていたのか。

 彼女の愛とは違うものだったのか。

 聞きたいことがありすぎて、顔を見たくて、声が聞きたくて。

 真実、気が狂いそうだった。


(ルーシェ……)


 会いたい。


(ルーシェ……)


 独りは寂しい。


(ルーシェ……)


 出会う前は、独りなど、苦でさえなかったのに。


「ルシエルが発った」

「!」

「早ければ明日には、宮殿入りするだろう」


 その言葉が、半分腑抜けていたハルウを再び動かした。

 フュエルが消えてすぐ、ハルウは獄中から抜け出した。瀕死の体を引きずって七日七晩駆け、辿り着いたレテ宮殿でハルウは見た。

 ルシエルの、幸せそうな顔を。

 戦場で遠く一、二度見たことのある男と、ぴったりと寄り添って、額が触れる程近く笑い合っていた。


(……だから、思い出したくなかったんだ)


 ハルウは、姿を消した。




       ◇




 吐き気がする、とルシエルは思った。


 エングレンデル王国第一王子サナーティオは、サトゥヌス譲りの青い髪と瞳を持つ、冷ややかな麗人だった。すらりと背が高く、細身だが武人らしく均整の取れた筋肉がしっかりと付き、だが少しも男臭くない。

 妙齢の淑女たちは誰もが彼の妻の座を狙っているという噂も、無理からぬことと思える。そしてそれは、婚約後には無駄に実感できた。

 だが宮中を三歩歩けばぶつかる嫌がらせなど、ルシエルにはさほどのものでもなかった。周囲の者全員に無視されることに比べれば、笑って堪えられる。

 だが、婚約者であるサナーティオと交わす抱擁や接吻ばかりは、ルシエルを心身ともに疲弊された。


(気持ち悪い……)


 サナーティオのことが嫌いなわけではない。冷たいわけでも、暴言を吐かれるわけでもない。サナーティオは常に穏やかに微笑み、ルシエルを丁寧に導き、決して無理強いをしない。

 兄から感じていた優しさとは全く質が異なるが、それでも彼は貴婦人たちが皆一様に頬を染める美男子で、一つも非がないことだけは確かだった。

 傍にいて、眩暈がするほど吐き気を催すなど、決して知られてはならない。

 全ては、兄のため。


『お前は憐れな被害者だ。引き裂かれた婚約者のもとに、命懸けで向かえ』


 ハルウの下から戻ったルシエルに、フュエルは開口一番そう告げた。


『もし拒めば、あいつは死ぬ。……まぁそれも、悪くはないがな』


 姉は、冗談など言わない。虚言も卑怯もしない。母と同じ琥珀色の瞳が穏やかに微笑を浮かべていても、その言葉に、偽りはない。


(わたしなら出来る……出来なくても、やらなくてはいけないのよ)


 ルシエルに、王族としての意識や責任という考え方は薄い。そういう風に育てられなかったからだ。当のユノーシェルも、そんなことは望んでいなかった。

 だから、両国の恒久的な平和のために堪えるとか、犠牲になるという決意も、フュエルに比べれば稚拙と言わざるを得ない。

 兄にもう一度会えると言われればその誘惑に抗えないだろうし、兄が助け出してくれるというなら、その手を取るかもしれない。

 けれどその先には、またあの血の海が待っている。兄にその咎を負わせるのが嫌だから、誰かを殺す兄を見るのが嫌だから、ルシエルはここに留まっている。それだけだ。

 英雄の娘としての使命感も、母国への愛も、民のための平和も、どうでもいい。

 兄のためだけに、ルシエルは笑った。幸せそうに、楽しそうに、未来の夫が、愛おしくてたまらないというように。


 けれど、限界は来た。



「ルシエル? 顔色が良くないようだが」


 その日も、ルシエルはサナーティオに会うために完璧な笑顔を貼り付けていた。笑顔で挨拶をし、笑顔で抱擁を受け、笑顔でその頬に唇を押し付けた。

 淑女たちの間の流行や噂話を皮切りに、聖国との和睦は順調に進んでいるという話の途中で、サナーティオに気付かれた。


「まぁ、お恥ずかしいですわ。化粧が合わなかったかしら?」


 着いてすぐの頃は長旅の疲れが。一月も経つ頃には生活の変化についていけず。そして最近は、王国で流行りの化粧を学んでいるという理由で躱し続けていた。

 嘘をつくのも笑顔を作るのも、聖国の時から親しんだ特技だ。

 だがそれも、倒れてしまえば無意味だった。


「ッルシエル!?」


 ルシエルはついにサナーティオの前で失神し、部屋に運ばれた。それからずっと、ルシエルは寝台の上だった。

 医官や侍官が入れ代わり立ち代わり寝室に来たが、ルシエルへの説明は特にない。サナーティオが見舞いに訪れることもなかった。

 二週間後にはレテ宮殿から離宮に移され、人の出入りさえなくなった。

 食事の量は減らされ、痩せ細り、しかし腹部だけは少しずつ膨れてきた。もしや何かの感染症だったのかと不安は増すばかりだったが、誰に聞いても事情を教えてくれることはなかった。

 そうして、どれくらいの月日が経ったかも分からなくなった頃。



「――ルシエル。迎えに来たよ」



 ユノーシェルが、現れた。


「…………お母様? どうして……?」


 ルシエルは、我が目を疑った。

 母と最後に会ったのは、婚約のために国を出る時だった。ユノーシェルは、今生の別れだと言って送り出してくれた。もう二度と会うことは出来ないだろうと。申し訳なさそうに、それでも笑っていた。

 けれど今、扉を開けて現れたユノーシェルは、笑っていなかった。和平が成立し、やっと国王同士の交流が再開されたという顔では、少しもない。

 辛そうに、苦しそうに、そしてやはり申し訳なさそうに、寝台に横臥するルシエルを見下ろす。

 一歩、一歩と歩み寄るその顔に、ルシエルは黒ずんだものが付着していることに気付いた。薄暗い室内光で見るそれは、母の頬だけでなく服の肩や腕のあちこちに付いている。

 そして陽光のもと光り輝くはずの金朱の髪は、その毛先が真っ赤に染まっていた。ぽたりと、何かが床に落ちる。


「お母様、それ……」


 すぐ目の前まで辿り着いた母が、寝台から起き上がれないままのルシエルをそっと抱き起こす。


「気付いてやれず、すまなかった」


 そして、悔悟の滲む掠れた声で、そう謝った。

 太陽の匂いがするはずの母から、兄と同じ、血の匂いがした。




       ◇




 双聖暦三十一年。

 ルシエルがユノーシェルにより連れてこられたのは、魔王の封印を強化するために建てられた小さな砦だった。

 元々古い城砦があった場所で、英雄神と魔王との最終決戦で大地が裂けた際、ほとんど全壊してしまった建物を修繕したのだ。

 昨年末に工事が完了すると、ユノーシェルは和平を成功させた第一王女フュエルに譲位して、砦に引きこもった。フュエルは偉大なる聖大母のために、女王よりも更に位が上の、斎王の名を贈った。


「ここは……?」

「ちゃちな家だよ。だが宮殿よりは何倍もましかな」


 目を覚まし、見知らぬ天井に戸惑ったルシエルに答えたのは、ユノーシェルが戦友ともと呼ぶ善性種エピオテスのカナフ=ヴァルクだった。

 イリニス宮殿でも常に女王の傍にいたが、その下町口調をいつまで経っても改めず、いつも重臣たちに煙たがられていた。


「イリニス宮殿では、ないの?」

「ユノーはここを終わりの砦(エスカトン・フルリオ)と呼んでたかな」

「終わりの……?」


 妙な名前だとは思ったが、それよりもここが聖都でないことに、ルシエルは戸惑った。


(てっきりお姉様のもとに連れ戻されると思っていたのに)


 婚約後すぐに体調を崩し、支えるべきサナーティオに何も出来なかったルシエルに、フュエルはきっと憤慨している。

 既に女王ではなく、表舞台にも出てこなくなったユノーシェルが使者として現れるなど、余程のことだ。

 もしかしたら、エングレンデル王国は期待外れのルシエルを突き返して、和平も破棄するつもりだろうか。それを防ぐために、ユノーシェルが説得に現れた。

 となれば、ルシエルはまた昔に逆戻りだ。


(わたしは、また、役立たずのお荷物なのね)


 ルシエルは、自分自身に深く失望した。


「泣くのは後回しにして、まずは食べな」


 はらはらと涙を零すルシエルに、しかしカナフ=ヴァルクは同情するでもなく淡々と、食事の乗った盆を尻尾で示した。

 肌理細かな白パンが三つに、何かの肉の塊と腸詰めが二つずつ、大きいスープの椀からは、溢れるくらいに野菜がたっぷり入っている。

 ここ数週間、満腹になるほどの食事を一度もしてこなかったルシエルは、その量の多さに眩暈がした。


「あの、わたし、そんなに食べられないわ」

「はあ? 食べれないくせに吐いてたのかい? そんなんじゃ、育つもんも育たないだろ」

「は、はあ……」


 何故怒られたのか、ルシエルにはさっぱり分からなかった。ルシエルはもう二十一歳だ。これ以上育つ要素はない。

 それに、確かに婚約後はほぼ毎日のごとく吐いていたが、好きでしていたわけではない。ただ、食べ物が思うように受け付けなかったのだ。口の中が酸っぱくなるような、妙な感覚がして。

 しかし、カナフ=ヴァルクに説明しても仕方ない。ルシエルは、吐き気を堪えて、時間をかけて完食した。

 そうして数日が過ぎたが、いつまで待ってもフュエルが断罪しに現れることはなかった。ルシエルはただ、カナフ=ヴァルクに言われるまま、よく食べ、好きに眠った。

 そして更に数日が過ぎた頃、ユノーシェルが姿を見せた。


「随分顔色が良くなってきたね」


 自分の方こそ傷だらけの顔で、ユノーシェルがそう言った。

 ユノーシェルたち神法の使い手は傷を癒すことが出来るから、戦傷というものはない。だがユノーシェルは、戦時中は面倒臭がって、小さなものはそのまま放置するのだと、いつかに兄から聞いた覚えがある。


(そう言えば……)


 フュエルは婚約が不成功に終わればハルウを殺すと言っていたが、どうなっただろうか。ずっと自分の不調にばかり気を取られて、そこまで考えが回らなかった。

 兄が無事なら、近い内に必ず会いに来てくれるだろうという根拠のない確信があった。母が兄に自分のことを秘密にする理由はないはずだし、兄一人ならば、フュエルに遅れを取りはしない。


「お母様。あの、お兄様のことを、お聞きしても……?」


 ルシエルの頬を一度撫ぜたきり黙ってしまったユノーシェルに、ルシエルは思い切って質問した。

 その瞬間、ユノーシェルの太陽のような金の瞳は、痛ましく歪められた。

 まさかと、最悪の想像が頭を過る。

 ユノーシェルは、長い沈黙の末に、口を開いた。


「今日は、現状を説明しようと思って、来たんだ」


 それは、ルシエルの問いとはまるで無関係に思えたが、遮ることは出来なかった。ルシエルは寝台に上半身を起こした姿勢のまま、続きを待った。


「エングレンデル王国は、プレブラント聖国との和平を破棄し、第二次侵攻を開始している。理由は……未来の王太子妃が不義不貞を働き、王国の名誉を傷付けたことへの報復だ」

「…………え?」


 滔々と語られたことに、ルシエルは理解が追いつかなかった。

 和平の破棄は、危惧していたことだ。だがそこからすぐに二回目の侵攻があり、その理由が未来の王太子妃――つまり自分の、不義不貞というのは。


「不義って、わたし……」


 決して聞くはずのなかった言葉に、ルシエルは頭を疑問符で埋め尽くしながら戦慄した。

 婚約のための輿入れの途中でハルウに攫われたことは、フュエルが徹底的に隠蔽した。王国側には、道中で魔獣の群れに襲われたため一旦引き返し、その後護衛隊の再編成と魔獣の殲滅に時間を要したと説明したと聞いている。

 ルシエルも、その三か月の間にあったことを誰にも話していない。知られるはずがない。

 けれど、そんな思惑は何の意味もなかったのだ。


「お前は、妊娠していたんだよ。ルシエル」



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