第84話 届かぬ祈り
『妹を救えなかったなら、姉を救えばいい』
帝国皇子の言葉は、あまりに直截的で表面的で、深慮とは程遠かった。
生まれるということの大変さも、育つということの難しさも何も分かっていない、無責任な子供の言い分。心身ともに健康にここまで成長できたことも、全て自分一人の手によるものと思っている。否、それどころか、何故自分が今も生き永らえていられるのかと、考えたことすらない。
エレミエルは、いまだに覚えている。
不仲な母王に、お前では瀕死の赤子は二人も育てられないからと取り上げられた時の、あの打ちのめされるような無力感を。
必死で手元に引き留めた赤子の息が、日に日に弱まっていく恐怖を。
絶望を。
(わたくしが、殺した)
ユフィールが息を引き取ったのは、夜中のことだった。
長女ラミアーツェルと違い夜泣きをしない子で、夜の授乳も一度だけで、他はずっと眠っていた。心配は勿論あったが、長女も比較的長く寝る方だったから、母乳を飲む間は大丈夫だろうと簡単に考えていた。母と喧嘩別れのように双子の赤子を奪われたことによる心労も尾を引いて、エレミエルに深く考えさせることをさせなかったのもある。
その夜も、たった一度の短い授乳を済ませて、少し経った、夜明け前だった。
いつもの寝顔と少しも変わらないことだけが、唯一の救いだった。
払暁に浮かび上がったユフィールの小さな顔に、一つでも苦しみの気配があれば、エレミエルはきっと立ち直れなかっただろう。
だが、救えなかったならすぐ次と考えるには、ユフィールの死はあまりに大きかった。意地になって母に抵抗せず、ユフィールもまた母に預けていればという後悔が、何度もエレミエルを苦しめた。
けれど素直に認めることはできず、母にレイフィールのその後を聞くのも怖くて、エレミエルは公務に逃げた。それが、結果的に母だけでなく娘との溝をも広げてしまった。
けれど、レイと同じ歳の少年は、そんなことは何一つ知らない。平気で、困難な正論を口にする。
怒りが込み上げた。だが同時に、何一つ間違っていないことも知っていた。
そこに、黒猫に似た不思議な獣の中性的な声がした。
「小娘ども! 早くレイを!」
その叱咤に、エレミエルは歯を食いしばって祈った。
「……いと高きにまします、世界を整えし始まりの神々が二柱、生の神ビオス、死の神タナトスよ。天より来りて、恵みの一滴をこの身に分け与えたまえ」
もう一度この祈りを捧げる日がくるなど、思いもしなかった。九年前の絶望が、嫌でも蘇る。けれど今は夫もいる。もう一度、否、何度でも、エレミエルは成し遂げてみせる。
目の前で広がり続ける漆黒の無を押し留め、その内に囚われた娘を捕まえる軛を解くために。
「願い奉るわたしたちに、死の神タナトスは宣った。
『雲から水が滴り地に還るように、地から命が芽吹き糧となるように。その大いなる理から逃れうる者は誰一人いない』と。
これに、対である生の神ビオスは憐れまれて言った。
『天が広がり義を降らせるように、地が開いて救いを実らせるように。その大いなる愛が見落とす者は誰一人いない』と」
死と再生の男神タナトスは、終焉と破壊を司るからこそ、世界の決めた摂理を重んじ、邪な手出しを嫌う。
生命と恩寵の女神ビオスは、誕生と創造を司るからこそ、全ての命に慈しみを向け、まだ終わるべきでない生に手を伸ばす。
生と死の神々に限らず、神々は常に一対で、その性質は対照的だ。そしてだからこそ彼らは対立ではなく調和を重んじる。違いを認め、補い合い、時に過ちを犯し、それを許してまた手を取り合う。そうしなければ、真に生きてはいけないかのように。
「生死を司るその権能をもって、天の果てから果てまで、地の極から極まで巡って、灰界よりも更に深い底の底まで、慈悲は遍く響き渡る」
一語一語を発するごとに、体中から力が吸い取られていくようだった。けれどエレミエルは、これにただ気合いのみで抗った。ひたすらに祈る。
九年前と同じように、必死に、懸命に、娘を返してくれと。どうか私から、二度も奪わないでくれと。
(神様……!)
指先が白くなるほどに、右手で左拳を握り締めて、全ての神に祈った。
この恐ろしい無を、果ての果てに退けてくれと。
「命を司る二柱の神々よ。神々の血の一滴から生まれた我ら人の儚さを、今一度憐みたまえ。
間に立って理を歪める者の勢いを押しとどめ、なお生きる者に及ぶ道を断ち切りたまえ……!」
神識典の中の、生と死の神々にまつわる記述の一部分を抜き出した神言を、力の限り詠みきる。
九年前のレテ宮殿とは違い、イリニス宮殿では神法を補佐し、効果を増強させる法具を制限なく使用できる。それでもやはり目の前の真っ黒な塊は、九年前と同じように揺らめくことも、呻くことすらしなかった。
(まだ……まだよ……!)
何度も、何度でも繰り返す。
天上に昇り、今もなお世界の外の無を退け続ける神々の中でも、最前線に立つのは第一の神々だ。
エレミエルは既に肩で息をするほどの状態だったが、休まず次の神言を唱え出す。少しでも無の力を削ぐために。レイと世界との繋がりを取り戻すために。
(今度こそ、わたくしが……!)
九年前もそうだった。
式典の最中、レイの不在に気付いてすぐに探し始めたエレミエルだったが、次にレイを見付けた時には、手遅れだった。
中庭の空には大きな黒い塊が広がり、その下には、蒼褪めて怯え切った男の子がいた。見覚えのある首飾りを握りしめて。
『っ返して!』
エレミエルは、たった七歳の男の子相手に鬼の形相で奪い返した。
それから、今と同じように幾つもの神言を繰り返した。何度も、何度も。
サフィーネが駆け付けて支えてくれなければ、もっと早くに倒れていただろう。
けれど、無を完全に退けることは出来なかった。
その時に胸を占めたのは、七年前と同じ無力感だった。自分の娘なのに、自分の力では救い出すことができない。眼前にいるのに、触れることすらできない。
そしてそれは、横から飛び出した男の子の存在によって、更に追い打ちをかけられた。
『おねがい……もどってきて……!』
男の子は、自分の方こそが死にそうな顔をして走っていた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、無策で無に突進しようとしていた。
エレミエルは考える余裕もなく、追い縋るように手を伸ばしていた。首飾りを握り締めた左手を、力の限り先へ先へと伸ばして。
(あの時は、あの子が先に無に触れて、わたくしも触れて、それから……どうなったのだったかしら?)
不思議なほど、思い出せなかった。
次の記憶は、気絶したレイを腕の中に抱いて、座り込んでいるところだ。眠っているだけのようなレイの顔が、夜明けのユフィールと重なって、恐怖で涙が止まらなかった。こんな思いを二度と味わいたくなくて、ずっとレイを遠ざけていたのにと、とめどない後悔が胸を押し潰した。サフィーネがずっと抱き締めてくれていたことにも、しばらく気付かなかった。
あの後すぐ、レイに首飾りを戻して、医務室を借りて、皇子の首飾りを探して。
(あの時、何が起こったのかしら……?)
それが分からなければ、今眼前に迫る無を退けることは出来ないと、エレミエルの焦燥が益々強くなる。思い出さなければと、何度も自分に言い聞かせる。
祈ることと記憶を辿ることに必死で、周りの音も、何が起きているかも入ってこない。
だというのに、その声は不思議と耳についた。
「孤独な魂を得れば、不要な付属品なんか無傷で返すよ」
酷く無味乾燥な、一切の感情がこもらない声だった。
だが何よりエレミエルの逆鱗に触れたのは、「不要」の一言。
その後の問答など、耳に入らなかった。
(不要……? わたくしの娘が、不要な付属品、ですって?)
神言を詠み上げる声は辛うじて止めなかったが、胸中では瞋恚の炎がふつふつと煮えたぎった。
(そんなこと……!)
あるはずがない、という言葉はけれど、胸中でさえ続けられなかった。
レイの扱いを定かにせず、呼び戻すこともせず、公務を与えるどころか婚約者を選ぶことすらしてこなかった。レイとどう接していいか分からず、問題からずっと目を逸らしていたから。
それがたとえ恐怖や負い目からだとしても、無意識に、第二王女をいてもいなくても良い存在と見ていなかったと、どうして言えようか。
(ちがう……そんなことは、決して……ッ)
指先から始まった震えが胸に届き口に至り、エレミエルはついに神言を詠む声まで詰まりがちになった。
ともに詠唱していたサフィーネが、気遣う視線を向ける。それに首を振って平気と応じたその時、声がした。
《事はそんな単純じゃないよ》
子供のような、大人のような、男のような女のような、捉えどころのない声だった。ヴァルの少し掠れた中性的な声とも、この場の誰とも違う。
そしてその通り、この場の誰の声でもなかった。
(誰……?)
エレミエルは、そこはかとなく込み上げる禍々しさに、目を凝らして声の主を探した。
宝蔵庫にいるのは、エレミエルと王配のサフィーネ。帝国皇子のフェルゼリオンに、黒猫もどきのヴァル。そして、王証と首飾りを奪ったハルウという男だけ。
何度でもハルウに向かおうとしていたフェルゼリオンも、突然の新たな声に警戒を周囲に広げた。
「誰だ!?」
そしてそれは、ハルウも同じだった。
「この声……まさか……」
信じられぬという風に目を見開き、視線を彷徨わせる。そしてその緑眼が、自分の右手ではたと止まった。
声が、眼差しを受け止めるように響く。
《無が対を得たら、それで満足すると思う? 対を得たら、奴は世界を再構築し始めるよ。自分たちだけの、完璧な世界を求めて、さ》
その不吉な言葉に、ハルウが恐ろしいものに気付いてしまったかのように右手を開く。だがそこにあるのは、レイから奪った見慣れた黒い宝石だけ。
けれどその場にいた全員が、恐らく同じものを感じていた。
ひとたび目を向けてしまえば背けることが困難になるほどに満ちる、言い知れぬ圧力。それは人であれば王気と呼び、人ならざるものであれば魔気そのものと呼ぶに等しいほどに。
「首飾りが、何で……?」
それを、フェルゼリオンも感じたのだろう。たじろぐように黒泪を警戒する。それを嘲笑うように黒泪が反応したのを、エレミエルは肌で感じた。
だが、答えをもたらしたのは別の者だった。
「やっとやる気になったか。魔王」
英雄神の最後の忠臣、優・カナフ=ヴァルクが、寝起きの悪い子供を詰るようにそう言った。




