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第83話 心の行方

 風のような速さで廊下を駆けるヴァルに必死で食らいつきながら宝蔵庫の扉の前に辿り着いた時、室内で竜巻でも起きたのかと思うような衝撃音が轟いた。

 女王エレミエルは宝蔵庫の鍵を取りに行かせていたが、リォーは構わず扉に開いた穴から侵入した。

 そして、レイを見付けた。


「レイ!」

「ハルウ、止めな!」


 ヴァルが素早く二人のもとへと飛び込む。だが、間一髪で間に合わなかった。ヴァルの目の前で、ハルウはレイの首飾りと神弓トクソを奪い取った。


「あ――――」


 その次に起こったことは、目を疑うような光景であると同時に、リォーのぽっかりと欠如していた記憶を激しく揺さぶった。


「あれ、は……」


 まるで世界に穴が開いたかのような、視界に墨を一滴垂らしたような。そうとしか表現できない漆黒の闇が、佇立するレイの頭上にぽっかりと生まれていた。宝蔵庫自体も灯りが点されておらず薄暗いが、とても比べ物にならない。

 その闇は、何人なんぴとにも壊せぬ硬質な球体のようにも、決して掴めぬ幻の液体のようにも見えた。それがゆっくりとレイの額の前まで延び、レイが一言を発する間に、その頭にねっとりとまとわりついた。


「「ッレイ!」」


 リォーとヴァル、二人同時に叫んでレイの体に飛びつく。掴んだ、と思った手はしかし、霧でも掴むようにすり抜けた。


「!?」


 驚愕する間にもレイに取りついた闇はみるみる膨張し、そのまま足の先まで飲み込んでいく。

 二度目だ、とリォーは勃然と思い出した。


『待って! つれていかないで!』


 九年前のあの時、レテ宮殿でレイが自分の首飾りを貸すと言って手から放した時も、この闇は突然現れレイを連れ去ろうとした。リォーは必死でレイに手を伸ばしたが、まるで手ごたえがなかった。

 見えているのに触れられない。まるでレイだけ別の次元にずれてしまったような、空間がひずんでいるような、本能で怯んでしまう感覚。


 まさに、ウーデン


 七歳だったリォーは、一度で諦めた。どうしようもできなくて、ゆっくりと膨れ上がる無からただ逃げた。その無が、リォーが隠れていた生垣も、列柱も、庭の噴水も飲み込んでいく。そこに、誰かが――そう、エレミエルが現れたのだ。

 あの時にエレミエルが何をしたかは、幼いリォーには皆目分からなかったが。


「チッ、遅かったか……!」


 足元のヴァルが獣の唸り声を上げる。その目の前で、レイの体を完全に覆い隠した闇はどんどん増殖するように膨らんでいった。

 だがその闇は、庫内の何に触れても止まることも歪むこともなければ、音すら立てなかった。ただ無音で呑み込んでいくように見えるのに、接触とか捕食という概念とは明らかに異なる。

 ただ、触れた先から全てをその内に呑み込む――無にしていく。

 そしてそれは、ハルウが起こした衝撃により散乱していた宝物だけに限らず、壁や床すらも同様だった。バキバキともギシギシとも鳴らず、触れた所から物質が『無』くなっていく。

 近寄るだけでも危険だと、誰にでも分かる。だというのに、ハルウは目の前の扉が壁ごと無くなるとみるや、待っていたとばかりのその横の壁を素手で破壊してその向こうへと侵入した。


「ハルウ! それ以上は許さないよ!」


 ハルウの命知らずとしか言えない行動に目を奪われていたリォーは、ヴァルの声でその目的に思い至った。

 ここが王証のある宝蔵庫で、ハルウがそれらに見向きもしないということは、別の場所か、更に厳重に保管されているかだ。それが、この壁の向こうだというのなら。


「行かせるか!」


 リォーは頭の片隅にこびりつくような恐怖を振り払って、彫言の剣(レスティンギトゥル)を引き抜いた。隙だらけの背中に、容赦なく突きを繰り出す。


「目障りだなぁ」

「ッ」


 ぞんざいな呟きとともに、ハルウが振り返った。それだけで、リォーは背後の棚まで吹き飛ばされた。

 咄嗟に剣の刃を立てたのに、先程のように神法を切ることが出来なかった。切られないように、ハルウが軌道を変えたのかもしれない。

 背中に激痛が走ったが、どうにか膝を折ることは堪える。そのリォーを庇うように――否、ハルウの視線と足を引き留めるため、ヴァルがゆっくりと歩み出る。


「また殺すのかい」


 抑えきれない怒気が恩寵にも影響を与えるのか、ヴァルの豊かな黒毛がさわさわと風に揺らめく。しかしハルウは、まるで面白い冗談を聞いたというようにくすくすとリォーを指差した。


「頭のおかしい男が何人殺したって一緒でしょ? それに、そいつは聖国の民じゃない」


 軽やかに死を宣告するハルウだが、当のリォーはというと、その背後に見えた古めかしい木箱に目が吸い寄せられていた。

 まるで墓石のような飾り気のない石の祭壇の上に、それだけが置かれてある。リォーの腕の長さ程もあるだろうか。長方形の立方体で、飴色に変色した木目には古い物が持つ特有の色の深みがある。何百年と大事に扱われてきたのだろう、打ち付けられた金具も古く黒ずんではいるが、錆などは一つもない。

 中に何が収められているかなど、聞かなくても分かる。


「神弓、が……」


 リォーとレイを――否、関わる者を度々翻弄してきたと言われる王証が、そこにある。

 その木箱の前に立つハルウの手の中にある欠けた神弓に、ぴたりと嵌るであろう残りの半分が。


(あれが完全な形に戻れば……)


 ハルウの目的が何なのかはまだ分からないが、きっともうレイを二度と取り戻せなくなる。それを阻止するためにも、リォーが再び踏み込もうとした時、背後で足音がした。


「これは……」

「レイ……」


 破壊された扉の向こうに現れたのは、女王エレミエルだった。隣には治癒の神法である程度は回復できたらしい、王配サフィーネもいる。

 二人が無残に荒らされた宝蔵庫に目をくれたのは一瞬で、すぐに部屋の上部を埋める程に膨らんだ無の塊に目を奪われた。


「…………いやよ」


 愕然とするサフィーネの横で、エレミエルが膝から頽れた。


「だから、嫌なのよ……あの子に近付くのが……!」


 はしばみ色の瞳を大きく見開き、見えないはずの娘を探すように長い指を伸ばす。


「あの子がわたくしに近付く度に、危難が降りかかる……!」

「エレミエル……」


 慄き震える妻に、サフィーネが硬い表情で寄り添う。その姿は期せずして死の神タナトスを目の当たりにしたような怯えようだったが、リォーは同情よりも怒りが先立った。


「……だから、あの首飾りをレイに与えて孤独を誤魔化して、遠ざけたのか」


 孤独が無を呼び寄せるからと、孤独者同士をまとめて見えない所に押し込めて。近付けば厄災を連れてきたと嘆く。

 それが母親の口から出てきたものとなれば余計に、リォーは込み上げる苛立ちを抑えられなかった。


「あいつは、馬鹿みたいに必死に、王証を求めてた。それは全部、あん――陛下のためだったんじゃないのか? それを――」

「帝国の皇子といえど、発言には分を弁えて頂きたい」


 その仕打ちはあんまりだと続けようとした批難を、殺意さえ滲んだサフィーネの眼光が封殺した。妻を守るためならば、友好国でも大国が相手でも関係ないと、その黒瞳が語る。

 しかしその腕の中のエレミエルは、巨大化し続ける無を見上げたまま、悄然と肯定した。


「そうよ……。わたくしが、ユフィールを――あの子のジオを救えなかったから……」

「……っ」


 その言い方がやはりレイを代替品としか見ていないように聞こえて、リォーは無性に腹が立った。

 救えなかった、消えてしまった命は確かに憐れだ。だがそればかりを見て、救えた命を顧みないのは虚しいだけだ。そんなことで満足するのは本人だけだ。

 レイが危険も顧みず、あの少人数で帝国まで旅してきたのは、誰かの代わりになるためじゃない。

 自分を見てもらうためだったんじゃないのか。

 知らない場所で、少なすぎる味方で、事情を明かすこともできない国事の重責をあの頼りない肩に乗せて。何度リォーが悪し様に追い返しても食いついてきたのは、全てこの母親のためだろうと、リォーにだって分かるのに。


「妹を救えなかったなら、姉を救えばいいだろ!」

「ッ」


 堪らず怒鳴りつけたリォーの言葉に、エレミエルがハッと顔を上げる。その目がギュッと細まり、リォーを強く詰っていた。何も知らないくせにと。

 そんなことは百も承知だ。当事者でないから言える無責任な言い分だと分かっている。だが言わずにはいられなかった。

 これで聖国との友好関係に亀裂が入ったら、父の激怒どころでは済まないだろうが、構うものか。

 リォーはもう二人の顔は見ず、再びハルウに突っ込んだ。


「首飾りを返せ!」


 ヴァルを警戒していたハルウの横面目がけて、白刃を振り下ろす。ハルウの緑眼がリォーを捉えると同時に、向けられた掌が幾つもの火矢を放った。

 真正面から眉間を狙ってきた三つを彫言の剣で斬り落とす。だがそれは陽動だ。左右から回り込んだ二本の火矢が、振り切った姿勢からの僅かな隙を狙う。


「死ねばいい」

「っ」


 無機質な目で、ハルウが吐き捨てる――その体を、突如暴風が吹き飛ばした。リォーの焦眉に迫っていた火矢も、余波を受けて掻き消える。

 ヴァルだ。


「小娘ども! 早くレイを!」


 更なる風をその身に巻き起こしながら、諦めたように動けずにいたエレミエルとサフィーネを怒鳴り飛ばす。

 躊躇は一瞬、エレミエルは背後に徐々に集まりだしていた兵たちに視線を向けてから、頷いた。


「……サフィーネ。祈ります」

「あぁ。共に祈ろう」


 無を退けるのに、一体どの神に祈ればいいのか。二人が声を合わせて枕詞を唱え始めるが、リォーにはそれがどんな内容なのか聞き取る余裕はなかった。

 ヴァルの放った風で、ハルウの態勢が僅かだがよろめいた。その隙を逃さず、黒泪ダクリュオンの首飾りを持つ左手を狙う。


「いつの間に連携取れるくらい仲良くなったの?」

「ッ!」


 死角から現れた踵が、リォーの側頭部を容赦なく蹴り飛ばした。すぐ横の壁に体を強打する。


「……やっぱり、強いんじゃねぇか」


 ぐらんぐらんと揺れる脳を左手で支えて、リォーは無理やり膝を伸ばした。

 ここまで気配を感じさせないで動けるのは、自分の体を熟知し、十全に操作することができているからだ。武技に優れていなければ、到底できるものではない。


「弱いなんて言った覚えはないけど? 疲れるのは、まぁ嫌いだけどね」


 その口調はやはり今までと変わらず恬然として、益々リォーの怒りを煽った。

 苛立ったように見せたのも、よろめいた振りをして誘い込んだのも、宝蔵庫よりも一回り以上小さい奥の個室の感覚を把握して、壁に打ち付けるまでが狙いだったのだろう。

 自分の力は最小限に抑えて、最大効果を得る。自分の感情すら利用するほど計算高く、狡猾で頭が回る。

 だからこそ、黒泪を奪ったらレイがこうなることも十分に承知した上で行動を起こしたのだろう。

 レイを傷付けるわけがないと、決して揺らがない真実のように言ったくせに。


「嘘つきが」


 腹が立ち過ぎて、負け犬の遠吠えのような批難が口をついていた。

 ハルウが、憐れむようにリォーを見下す。


「子供だねぇ」


 分かっている。その通りだ。それでも、こいつには言ってやらなければ怒りが神経がはち切れそうだった。レイをこの世の何よりも大事そうに見つめていた、この男には。


「お前は……レイだけは、傷付けないんじゃなかったのか」


 ぴくりと、ハルウの胡散臭い笑顔が反応する。情があるのかないのか、リォーには少しも分からない。

 ハルウは、厚顔にも肯定した。


「傷付けないとも。体はね」

「……どういうことだ?」


 ヴァルが、ハルウの死角を伝って王証の納められた木箱に近付く。それを視界の端に捉えながら、リォーは問い返した。気を逸らせる目的もあったが、やはりその言葉の意味は気になった。

 ハルウが、空虚な笑みを深める。


「無が必要としているのは、自分のジオに適う者の魂だけだ。体も心も、要らないんだよ」

「なん、だと……?」


 それは、すぐ傍らで広がり続け、ついに宝蔵庫をはみ出し廊下や天井をも侵食し続ける無を前にしては、とても信じ難い発言だった。

 だが一方では、神々の中には喜怒哀楽の四情のように、肉体を持たない存在もいる。神識典ヴィヴロスの中では、無に肉体があるという記述はなく、となれば魂だけを求めるという推論も的外れではないとも取れるが。


「孤独な魂を得られれば、不要な付属品なんか無傷で返すよ」


 楽観的に肩を竦めるハルウの言葉が真実なのか、また本心なのか、リォーには確かめるすべがなかった。

 何より、魂を奪われた者という存在が、リォーには想像が出来なかった。

 肉体を失えば、心魂のみの化け物(エリープシー)になるという俗説はよく知られている。だが、魂のみを失えば、それは一体何者だというのだろうか。

 だが一つ、確かなことはある。


「魂を失ったら、レイはレイじゃなくなっちまうだろ」


 双聖神教では、人は体と心と魂の三つから成ると考えられている。常に対という考え方から偶数を善いとする教えにあって、三という不完全な命だからこそ、人は自分の外に最後の一欠片を――愛を、求めるのだと。

 体には怠惰が宿り、心には善良が宿る。そして魂には審判が宿るとされる。その審判がなければ、人は指針を失うも同然だ。

 しかし、ハルウはやはり笑った。大したことではないというように。


「器になりさえすれば良いんだよ。そのために必要な神気ちからは、ここにある」

「器、だと?」


 魂のない体が、器。器と呼ぶのなら、魂のなくなった場所すきまに、何かを入れるということになる。

 何を、と聞き返す前に、背後に回っていたはずのヴァルが口を開いた。


「ルシエルは生き返りはしないよ」

「なっ」


 口を挟んでは死角を捉えた意味がないではないか。というリォーの非難は、けれどそもそも意味を成していなかった。


「だが、呼び戻すことはできる」


 ハルウはヴァルを探す素振りすら見せず、右手に持った神弓を掲げて見せた。


「黒泪で死の神タナトスを遠ざけ、神弓で生の神ビオスから取り戻す。そうすれば、彼女の魂に手が届く。レイの肉体に眠る、彼女の血を道標に」


 無がすぐそこに迫るこの逼迫した状況で恍惚と宣う姿は、完璧な笑顔だからこそ異常にしか見えなかった。

 死んだ者を蘇らせる。

 それは大喪失クレヴォよりも遥か昔から試みられてきたことだ。神法でさえ、規律が整備され統制が取れる以前は研究されていたという記録がある。

 それでも、それはずっと禁忌だった。

 髪や血など、死した肉体を。生前の縁の品を。血縁者の血肉を。足りなければ更に幾つもの命を。

 人々は有史以前の遥か昔から、どんな残忍な方法も厭わず、あらゆる手段を用いて、死んだ者を復活させようと手を尽くした。

 だが、成功したという記述はどこにもない。中には生と死の神々に直接訴えようとした者もいたとあったが、末路は悲惨だった。

 肉体がなければ、どんなに手を尽くして心魂を呼び戻しても化け物に成り果てる。肉体があっても、心魂が合わなければ酸鼻極まる苦しみが待つ。

 それでも、人々はその禁を犯した。六種族の中で最も短命な人間種ピリトスは、特に。


「つまり、死者蘇生ってことか?」


 導き出された答えに、しかしハルウは愚者を見る目で失笑した。


「あんな非現実的で非建設的な邪法と同じにしてもらっては困る。ルシエルの魂は、レイの体に必ず合う。分かるんだ」

「何故分かる」

「彼女はルシエルの生まれ変わりだよ。一目見て分かった。……いや、彼女がイリニス宮殿を出た瞬間に、僕は感じたんだ。ルシエルの存在を」


 そう断言するハルウの顔は、誰が見ても分かるほど、恋する者のそれだった。狂気さえ滲む恋。それがあまりに深くて重くて純粋で、リォーは痛ましさすら感じてしまった。


(本気、なのか?)


 権力でも復讐でもなく。

 本気で、ただの恋のために何人もの人を殺し、国を乱し、神を騙し、果ては原初の神でもある無すら利用しようというのか。


(愛だの恋だの、そんなことで……)


 確か、レイは難産の末に瀕死の状態だったとかで、すぐに聖都から曾祖母のいる聖砦へと運ばれた。その時、法術の外に出た僅かな間に、ハルウはレイの存在を嗅ぎ付けたということか。

 それが一体どんな感覚に依るものなのか、神法も使えなければ、サトゥヌスの血を感じたことさえないリォーには、想像もできない領域だった。

 そもそも、生と死の神々が司るという輪廻転生や前世について、リォーは懐疑的なたちだった。たとえハルウの言ったことが事実だったとしても、こんな手段が成功するとは思えない。

 それでも、一つ、分かったことはある。


「つまり、お前はレイよりもルシエル(そいつ)を選んだってことなんだな」


 脳の揺れも収まり、リォーは改めて剣を構えた。反対側では、ヴァルが風を纏って期を待つ。


「お前には関係のないことだ」


 ハルウの仮面のようだった笑みが、潮が引くように消えていく。無言のうちに叩き付けられる殺意に、癪に障るほど心胆が凍えた。

 それでも、リォーは残る一つを確かめないわけにはいかなかった。


「ならば、魂を無に囚われ、体も奪われたら、残ったレイの心はどうなるんだ」

「……さぁ?」


 ハルウが、お得意の笑顔も取り戻せぬまま、そう答える。

 だから、リォーが代わりに笑ってやった。


「なら、レイ(あいつ)の心は俺がもらう」


 盛大に、嫌味ったらしく。


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