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第79話 最悪の再会

 父との記憶は、ほとんどないと言っていい。

 父は王配として女王と共同統治という形をとってはいるが、基本は騎士団の統括以外あまり権限を有していない。

 常に女王の補佐役に回り、出しゃばることもなく、妻の意思を尊重すると公言している。夫婦であるから公私ともに最も助言を求められる存在であることは確かだが、その温厚な性格から、女王を裏で操っているなどの類いの噂は立ったことがない。


 レイの記憶にあるのも、女王として立つ母の隣に寄り添い、人好きのする笑みで気さくに客人たちと接する姿だけだ。体こそ大きいが雰囲気は姉と同じで親しみやすく、ユノーシェルの気配のしないその淡い黒髪や黒瞳は、レイの中で密かに救いだった。

 だから目の前に現れたような、物々しい近衛兵を背後に怖い顔で剣を向ける姿など、想像したこともない。


「まさか……本当にレイフィールなのか?」


 ハルウに向けた厳しい警告とは一転、レイの声にサフィーネが戸惑うような声を上げる。どうやら正門でハルウが告げた第二王女到着の知らせは届いていたようだが、レイ本人を見るまで半信半疑だったらしい。

 それも当然で、レイが帝国に向かっていることは、女王夫妻には伝わっている。それが連絡もなく現れれば、疑うのも無理はない。

 レイは頷くことも事情を説明することもすっ飛ばして、頭を下げていた。


「……ご、ごめんなさい!」


 まだまだ距離のある父に聞こえるように、精一杯声を張り上げたつもりだった。けれど出てきたのは、虫が鳴くような掠れた声だった。


「こんな……こんなことをするつもりじゃなくて」

「……レイフィール」

「あのっ、城の中は神法を使えないと思ってたから、それで……っ」

「レイフィール。落ち着きなさい。それじゃ事情が分からない」

「…………ッ」


 諭すように声をかけるサフィーネに、レイは呼吸の仕方を忘れたように口をパクパクと動かした。

 言い訳しか、出てこなかった。

 ハルウが平気な顔で残忍なことができると、十分身に染みて分かっていたくせに。イリニス宮殿では法術もあるし、ここまでのことにならないのではないかという甘い考えがあった。何より母に王証を渡そうという甘言に、逆らえなかった。


(……違う)


 回らない頭に次々と言い訳が浮かんだが、声になる前に違うと気付いていた。

 レイは、まだハルウに期待していたのだ。ハルウの言葉は本心からで、レイのために王証を届けるだけで、王証を手に入れた今、これ以上の酷いことはしないと。

 何より、手を引かれながらもここまで歩いてきたのは、他ならぬレイ自身だ。

 だから、真っ先に謝罪が口をついていた。


「ごめ……ごめんなさいっ。私、あの……王証を――」

「女王はどこ?」


 上手く説明できなくて、レイは右手に握り締めたままだった神弓トクソを見せようとした。だがハルウが、それを隠すように二人の間に立ちはだかった。


「貴様……何者だ。王女を唆したのか」


 真正面から対峙する形になったサフィーネが、油断なくハルウに剣先を向ける。その背後では、二列横隊を組んでいた近衛兵たちが徐々にハルウを囲い込むために左右に展開していく。

 しかし、レイには父の問いこそ分からなかった。


「……お父様? 知らないの? ハルウは、お祖母様の食客しょっかくの……」

「食客? 聖砦は部外者立入厳禁のはずだ」

「でも、そんなはず……」


 更に表情を険しくするサフィーネに、レイは益々困惑した。

 ハルウは、レイが生まれる前から聖砦にいた。だからこそ、何故いるのかと疑問に思うことすらなかった。

 勿論、子供心にハルウが何をする人かと思ったことはある。

 レイにお茶や茶菓子を用意してくれることはあるが料理番ではないし、神殿から来る女史のように勉強を教えることもない。護衛の先生がいない時に剣の相手を頼めば、ティーカップより重い物を持ったことはないからと断られた。ハルウが聖砦でしていたことと言えば、本を読むか、森を散策するか。気付けば何日もいないということもままあった。

 だがセレニエルがハルウについて言及することはなく、ヴァルにも追い出すような気配はなかった。


 今回の旅に、神殿の神武官ではなくハルウが同行すると聞いた時は驚いたが、二人とも異論はなさそうだった。それくらい信を得ているのだと、単純に思った。

 そんな人物が、面識がないとはいえ、女王夫妻が知らないなどと、有り得るだろうか。


「ハルウは……」


 その横顔を見ても答えなどないと分かっているのに、レイはその整った白貌を凝視していた。四方八方から剣と槍を突き付けられ、それでも飄々と笑うハルウを。


「何者なの……?」


 レイは、ついに口にした。意識的にか無意識的にか、ずっと避けていた言葉を。


「あれ、まだ気付いてないの? それとも、わざとかな?」


 ハルウが、いつ串刺しにされてもおかしくない状況の中、レイを見て笑う。


「ライルード伯爵家の人間で、黒泪ダクリュオンのことを知っていて、平気で敵を殺す。もう分かるでしょ?」


 幼子をあやすように、ハルウが順を追って諭す。レイの頭を過ったのは、魔王の子を孕んだ娘のことを淡々と説明していた、クァドラーの言葉。


『妊娠した形跡はあったけれど、胎児だけぽっかりと消えていたそうです』


 記憶を失くし、胎児もなくし、生家に戻ってきては幽閉された女性。彼女から始まる、ライルード伯爵家の悲劇。


「でも、魔王の子供は、生まれる前に消えていたって……」

「魔王が子供を作ったのは、神気ディーオを奪われる前だ。この意味、分かる?」

「……ッ」


 分かりたくないと、レイは無意識に首を横に振る。だがそれ以上目を背け続けることは、事ここに至れば到底無理な話であった。

 魔王がどんな力を持っていたのかについては神法の研究の一大分野だが、どの資料を見ても具体的な明記はない。

 魔王の息は大地を汚し、雄叫びは生き物を狂わせたとか、ジオを奪っては人々に喪失を与えたなどと言われるが、それがどんな法だったのかは、いまだに解明できていないと言われる。

 だからこそ、その血と神気を継ぐ者が一体何が可能で不可能かも、誰にも分からない。

 何より、イリニス宮殿の法術もものともしない、神言も魔法も必要としない、その圧倒的な力――血力エマこそが、否定のしようがない存在証明なのではないか。


「ハルウが、魔王の子供、なの……?」


 否定してくれと、縋るように見上げる。けれどハルウは、よくできましたとばかりにレイの頭をぽんぽんと撫でた。


「…………!」


 怒りとも悲しみともつかない感情が、ぶわりと込み上げた。


「娘に触るなあ!」


 サフィーネが、目にも止まらぬ速さでハルウに斬りかかった。それを援護するように、周囲に展開していた兵士たちもまた一斉にハルウの退路を断つ。

 レイが身構える時間はなかった。


「!」

「鬱陶しいなぁ」


 ハルウが、レイを撫でたその手で炎を生み出した。先程よりも大きく伸びた炎が、大蛇のようにうねってぐるりに襲い掛かる。

 だが今度は、彼らも容易に吹き飛んだりはしなかった。


「構え!」


 サフィーネの号令に合わせ、前列にいた兵士が鞘を構えて火を防ぐ。神法相殺の彫言があるのだ。それで半減した火力の間を、次列が槍を構えて跳びかかる。

 先頭はサフィーネだ。

 そこに、更にハルウが手をかざした。


「やめて!」


 レイは咄嗟にハルウの腕にしがみついていた。ハルウが体勢を崩した――その姿勢のまま、反対の手を振るう。

 大量の水が、雨のように彼らに降り注いだ。それでも、サフィーネは標的ハルウを凝視したまま突撃の手を緩めない。それが仇となった。


「ッ」


 あと数歩という距離で、爆発が起きた。辺り一帯が白煙に呑み込まれ、一瞬建物の影すらも認識できなくなる。

 火に触れた水が、一瞬にして蒸発したのだ。その瞬間的に発生した威力に、ハルウに斬りかかろうとしていたサフィーネの巨躯も数メートル吹き飛んだ。


「っお父様!」


 目の前で掻き消えた父を求め、弾かれるように駆ける。その横で、真っ白な蒸気がぐるんと動いた。

 人の気配だ、と理解する前に、すぐ隣にいたはずのハルウがドンッと地に押し倒された。衝撃で周囲の蒸気が放射状に飛び散る。お陰で、ハルウの右手首と腹を踏みつけ、その喉元に剣を突きつける人物が、レイにも見えた。


「お父様……!」


 頬や服に土をつけてはいたが、ハルウを睨み下ろすサフィーネの黒瞳はあくまで冷静だった。


「王女誘拐、及び反逆罪で捕縛する」


 サフィーネが罪状を述べる間に、軽症だった部下の数名が捕縛のために駆け寄る。

 神法士相手には、通常の麻縄の他、神法封じの法術も必要になる。それを両手両足につけようとする兵士たちを、しかしハルウは一瞥もせずにこう言った。


「ねぇ。僕は女王の居場所を聞いたんだけど」

兇徒きょうとに明かすと思うか」


 動揺も焦燥もなく問うハルウに、サフィーネが当然の答えを与える。部下がハルウの手足に取りつく。


「面倒だなぁ」


 ハルウが呟く。刹那、サフィーネを含む全員が放射状に吹き飛んだ。


「なっ!?」


 大の男が五人、地面の上で血だらけで倒れていた。まるで旋風にでも切り刻まれたかのように、彼らの肌や服には細かな裂傷が無数に出来ている。

 その中心で、ハルウは何でもないことのようにのっそりと起き上がった。


「まったく、探す手間とこじ開ける手間が増えるじゃないか」

「何で……手は、使えなかったのに……」


 パッパッと土をはたき落とすハルウに、動揺のまま声が漏れる。そんなレイを憐れむように、ハルウが種明かしをした。


「あれはただの誇大表現パフォーマンスだよ。ああいうのを最初に見せておくと、大抵の人間種ピリトスは勝手に勘違いするんだ。動きを封じれば勝てる、とね」

「そんな……じゃあ……」


 愕然としたのは、レイだけではなかった。捕らえたと思っていた周囲の近衛兵たちの間にも動揺が走り、すぐには包囲を立て直せずにまごつく。

 それらの視線を浴びながら、ハルウは苦悶の声を上げるサフィーネの元へと悠々と近付いた。その右手には、西日を受けてきらきらと輝く水滴が集まり始めている。


「ハルウ、やめて……お願いだから」


 その水で何をするつもりなのかと、レイはゾッとした。サフィーネに近付くごとに、その水滴がめきめきと硬質な音を立てて、徐々にその色を白く変えていく。

 ハルウがサフィーネを真下に見下ろす頃には、集まった水は冷気を放つ巨大な氷柱となって、その心臓を捉えていた。


「……貴様」


 サフィーネが、打撲と裂傷だらけの体を無理やりに引き起こす。

 レイは、絡まる足を必死で動かして走った。


「お父様!」

「来てはならん!」


 その目の前で、ハルウがそっと右手を振り下ろす――直前、くんと鼻を動かした。まるで、サフィーネの血の匂いでも嗅ぐように。


「?」


 ハルウの動きが止まり、サフィーネが残る力を振り絞って剣を構える。そこに、レイが自身を盾にするように割り込んだ。


「レイフィール、退きなさい!」

「やだ!」


 父娘の押し問答も聞こえないかのように、ハルウが「まさか」と呟く。


「……お前、ラフィエルの子か?」


 それは、ハルウにしては珍しく驚いた顔だった。レイの向こうのサフィーネを、何かを思い出すように凝視する。


「……そうだ。今の王配は、確かラフィエルの家の……」


 記憶を探るように、ハルウが独りぶつぶつと続ける。

 レイは背後の父を目線だけで振り返って意味を問うたが、当のサフィーネも何のことか分からないようだった。


 ラフィエルとは、ハィニエルと同様双聖神の魔王討伐に従った神仕カマリエラの名だ。主が地上に留まると、その意を受けてやはり忠臣として地上の再興に尽力した。

 ラフィエルは常に側近としてユノーシェルにはべり、サトゥヌスが去った後は公私に渡って女王を支えたという。その功績が認められ、ラフィエルにはエンゲルス公爵位が与えられた。

 ラフィエルは家を、ハィニエルは信仰を残したとは、よく使われる言い回しだ。


 そしてサフィーネは確かにエンゲルス公爵家の嫡男だが、現公爵の死後にその爵位を継ぐのは次男で、サフィーネは別の爵位を持っている。


「ラフィエルが……どうしたの?」


 ハルウがすっかり黙考してしまったその隙にと、サフィーネと近衛兵が急いで体勢を立て直す。彼らから少しでも気を逸らさせるために、レイは恐る恐る尋ねた。

 すると、ハルウは小さな失敗を明かすように軽く苦笑した。


「うっかりしてたよ」

「え?」


 それがどこか拍子抜けする声音で、レイはもしやと期待してしまった。双聖神同様神聖な神仕の血を害してはならなかったと、思い出してくれたのかと。

 けれど。


「そう言えば、ラフィエルも殺さなきゃいけないんだった」

「――――!」


 まるで頼まれたお使いを忘れていたとでもいうように、ハルウが笑う。


「あの時は頑なに認めなかったくせに……今さら夫を名乗るだなんて、図々しいんだよ」


 子供のような嫌悪感を露わに、羽虫を追い払うように右手を振る。

 宙に浮いたままだった氷柱が、レイの背後から再度ハルウに斬りかかろうとしていたサフィーネの腹めがけて加速する。


「やめ……!」


 反射的に手を伸ばす。自分の動きだけがもどかしいくらい遅く感じる。風を切り裂いてサフィーネの腹に迫る氷刃が、あと数センチで布を裂き皮膚を食い破る。その音がここまで聞こえてくるようで、怖気が走った。

 間に合わない、と絶望する――寸前、


「!」

「きゃあ!?」


 氷刃が爆発した。

 砕け散った氷が、すぐ傍らにいたレイに容赦なく降りかかる。反射的に両腕で顔を庇うが、幾つかが頬や腕をピッと切り裂いた。が、それだけだった。

 レイを守るように、その手を引いて胸に抱き寄せた者がいたから。


「大丈夫?」


 耳に馴染んだ優しい声に、恐る恐る顔を上げる。


「……ハルウ?」


 氷刃を放った張本人が、レイを守るように抱きしめていた。その目線が、すっと横に滑る。


「それにしても、随分酷いやり方をするものだね」


 虹彩異色オッドアイの瞳を追って、レイもまた視線を向ける。

 すぐ足元に倒れたサフィーネや、周囲で動くに動けない近衛兵たちは、違う。彼らを飛び越して、馬車回しの先にある玄関ホールへと続く扉の、その前で視線が止まる。

 そこにいたのは、


「おかあ、さま……」


 白い顔を更に白くした、女王エレミエルだった。



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