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第61話 狂信者の誘い

 会話の途切れた部屋に、リォーが息せき切って飛び込んできた。


「カーラがいない!」


 所在なくソファに座るしかなかったレイは、その言葉に扉を振り向いた。開け放った扉に手をつき、肩で息をするリォーの顔面は蒼白で、整った白貌は汗だくになっている。

 レイは遅れて意味を理解すると、慌ててリォーに駆け寄った。


「え、え!? どういうこと!? いないって」

「噴水の陰に隠れるように言ったのに、どこにもいないんだ。庭のどこにも!」


 喚き散らすようにリォーが叫ぶ。ここまで取り乱すのを、レイは初めて見た。その汗も息切れも、恐らく庭の全てを走り回って探したからだろう。

 そうまでしても、カーラが見つからない。

 レイは嫌な予感に指が震えてくるのを無視できなかった。


「入れ違いになったんじゃ……」

「部屋は先ほど全てくまなく確認しましたが……」


 レイの無責任な希望的観測に、扉のすぐ横に控えていたエストが控えめに否定する。彼もまた先に母子を別室に移した帰りに、家族や使用人が怯えて隠れていないかと確認して回ったはずだ。

 リォーが庭に出る前に屋敷の中に入ったのなら入れ違いになった可能性もあるが、そうなったらカーラはまずリォーたちを探すはずだ。話し声も聞こえるはずなのに、この部屋に辿り着けないのはおかしい。


「この庭は、一歩外れれば山と変わりありません。もしや、迷われたのでは」

「カーラが自分から森に入るはずがない」


 エストの申し訳なさそうな進言に、リォーが怒気すら滲ませて断言する。

 確かに、淑女の見本のようなカーラが、大好きな兄の言いつけを破って、何があるか分からない森の中に入るとは思えない。


「でも何かから逃げたんなら、その可能性はあるね」


 ヴァルが、淡々と口を挟んだ。長く豊かな尻尾を揺らすことも、毛繕いをすることもなく。

 嫌な予感が、心臓を揺らす。どくん、どくんと。


「何か……」

「魔獣か、或いは……別の何者か」

「――――」


 悪意ある何者か。そんなもの、レイは一人しか思いつかない。

 レイが気絶している間――つまりカーラが庭に隠れている間に、窓から逃げ去ったという男。


(ハルウ――!)


 レイは膝から崩れ落ちた。

 その横を走り抜けて、リォーがヴァルに掴みかかる。


「知ってんだろ! あいつがどこに逃げたのか!」

「あたいが知るわけないだろ」

「お前しか知るわけがない!」


 リォーの手を難なく逃げるヴァルに、リォーが渾身の怒声をぶつける。それは、怒りに見せかけた希求だった。

 ヴァルなら、ハルウのことを知っているはずだと。その目的も、行き先も、カーラに何をしたかさえ。

 けれどずっとレイの傍にいたヴァルが、そんなことを知るはずがない。望む答えを出さないヴァルに、リォーが焦れたように責める。


「お前……本当に善性種エピオテスなのか」


 暖炉の飾枠(マントルピース)の上の棚に逃げたヴァルを睨み上げて、リォーが敵意すら込めて疑念をぶつける。しかしその皮肉もまた、ヴァルを揺さぶることはなかった。


「残念ながら、一応ね。そして大方の善性種同様、あたいの中の善いこともとっくに枯れちまったのさ。……セネなんかよりも、ずっと前にね」


 紅玉の瞳が、微かに伏せられる。ともすれば見逃してしまいそうな、一瞬の変化。


「ガドル老――あの隠れ里の長老もそうだったろ。あの爺も、里のことだけを考えて選んでた」


 思えば名前も聞けなかった、白と緋の縞模様を持つ牡鹿の善性種。彼の中にも善はあり、そして彼だけの基準で取捨選択されていた。その中に、レイたちは入っていなかった。それと同じだと、ヴァルは言う。


「だから、期待はするんじゃないよ。特にあんた――サトゥヌスのガキはね」

「……またサトゥヌスか……!」


 結びの言葉に、リォーがぐっと奥歯を噛みしめる。

 二柱の英雄神に従ったはずのヴァルがサトゥヌスを嫌うというのは矛盾があるような気もしたが、二柱の結末を考えれば思うところがないはずもない。だがカーラの命がかかっているこの場面で、ヴァルが好き嫌いだけで嘘をつくことはない。

 ヴァルが知らないのなら、他の方法を探すしかない。


「……私、神法で探してくる」


 レイはやおら呟くと、緩慢に玄関を目指す。

 山の上の屋敷に戻れば、カーラが着ていたドレスがまだ残っている。それを頼りに気配を辿れば、森の中にいるならすぐに見つけられるはずだ。

 だがこれを、冷めた忠告が引き留めた。


「神法は逃げる時までもう使わない方がいいと思うけどね」

「…………」


 ヴァルだ。リォーの手が届かない棚の上で、静かにレイを見下ろす。

 言いたいことは分かる。すでに何度も神法を使っている。これ以上使えば、帝国の探索に引っかかって帝国軍がここに押し寄せる可能性は、格段に上がるだろう。

 だが、レイもリォーも、それを無視した。

 リォーが風靴ウォラーレで坂を駆け上がっている間に、レイが風の神への枕詞を唱える。リォーが探してきたドレスを受け取って、探索の神言を詠み上げて。

 けれど、見つけられなかった。風は空しく散り、何の道しるべも行使者レイに示さなかった。少なくとも、この近辺にはいない。


「カーラ……」

「…………」


 なんの手応えもなく消えていく神法に、レイは力なく項垂れ、リォーは両の拳を握り締めて棒立ちになった。

 高く昇り始めた太陽に二人の肌はじりじりと焼かれ、山鳥の甲高い鳴き声が細く長く響く。

 次の一歩を、どう踏み出せばいいか分からない。

 二人、それぞれの感情の中で途方に暮れていた所に、その声はかけられた。



「お探しものですかな?」



「「!?」」


 背後からの出し抜けの声に、レイとリォーは同時に振り向いた。

 手入れの行き届いていない荒れた噴水の向こうに、十人近い男たちがいた。全員が、金糸の縫い取りがある白地に青の差し色の入った貫頭衣を身に纏っている。フードを深く被り、表情は見えない。


「……帝国軍?」

「いや、この服は……」


 早くも神法で嗅ぎつけてきたのかと、レイは身構えながら風の神への枕詞を唱えた。だが隣のリォーは、何かを見極めるように目を細めている。

 その内の一人、真ん中に立った男が、おもむろに一歩前に踏み出た。もったいつけるようにフードを後ろに落とす。

 現れた顔に、リォーが目を剥いた。


「ファナティクス侯爵……!?」


 その名前に、レイの薄っぺらな記憶も触発されていた。たしか、カーラの誕生会で挨拶に現れた六侯爵の一人だ。

 ひょろりと細い体格と目、老人と呼ぶほどではないが、白髪の混じった灰色の頭髪や額に刻まれた皺には、相応の年齢が滲み出ている。

 特に、舞踏会でリォーを見つめる熱狂的な眼差しは、レイの記憶に強く印象付けられていた。

 今日は社交の場でないからか、腕帛マニプルスは腕に垂らしていない。代わりに、双聖神教の紋章は貫頭衣の左胸に示されていた。が、何かが違う、とレイは違和感を抱いた。


(何が……弓が、ない?)


 双聖神教の象徴は、ユノーシェルを表す弓と、サトゥヌスを表す剣とが交差する図柄で描かれるのが基本だ。しかし目の前の貫頭衣には、たった一本の剣だけしかなかった。まるで、真の救世主はサトゥヌスだけだとでも言うように。


(あれって……どこの教派だっけ)


 双聖神教には幾つもの分派があることは、レイでも知っている。だがその一つ一つの紋章を覚えきることは、まったく熱心ではないレイには無理なことであった。

 だが、リォーには心当たりがあるようらしい。視界の端の横顔が、みるみる悪化する。


「なぜ、閣下がこのような場所に……」


 リォーが、焦燥と体裁のぎりぎりを保って問いかける。その顔にはこんな時に面倒臭い人物がと大書きされてあったが、それを指摘する者はない。


「それは勿論、殿下の身を案じてのことに決まっているではありませんか」


 そして当のファナティクス侯爵はというと、リォーに話しかけられたのが至上の幸運とでもいうように上機嫌でそう答えた。

 しかし対するリォーの表情は、益々苦いものになった。一刻も早く話を切り上げたい気持ちを隠しもせず、端的に誤魔化す。


「いつものことです。何の問題も」

「いつものことだなどと!」


 だがこれに、ファナティクス侯爵は更に勢いを乗せて言葉を被せてきた。


「ある日突然皇太子殿下の殺害容疑者として帝国軍に追われていると聞いて、私がどれ程心配に胸を掻き毟ったことか! 明らかな冤罪だと誰もが承知しているのに、宮廷の陰謀のために真実がねじ曲げられてしまうこの哀しさ……。しかし国中の誰もが殿下を不遜にも疑おうとも、この私めだけは、何があろうと殿下を信じております。殿下にそのような愚かな工作が無用なことは、その麗しく神々しいお姿を見れば一目瞭然!」


 拳を握り締めて云々かんぬんと喋り続けるファナティクス侯爵に、レイはついに痺れを切らせて小声で隣に問いかけた。


「……いつまで続くの?」

「……止めるまで」


 リォーが、焦燥と怒りを爆発寸前まで堪えて答える。どうやって、とは、聞くまでもなかった。


「それにしても、早すぎる。何を媒介にしたのですか」


 いまだ同じ熱量で話し続けていたファナティクス侯爵の言葉を斟酌なく遮って、リォーが核心に踏み込む。

 これに、ファナティクス侯爵は蒐集品コレクションを自慢するような満面の笑みで答えた。


「実は、殿下が子供の頃お怪我をなさった時にお貸ししたハンカチを、ずっと大切に持っておりまして」

「え゛っ」

「まさか、俺の血を使ったのか……!」


 レイは思わずリォーよりも先に声を上げていた。

 まさか、この目的のためにずっとリォーの血を保管しておいたとでもいうのだろうか。

 だがリォーが容疑者として追われる事態も、神法による探索についても突発的な異常事態イレギュラーのはずだ。

 となると、別の目的があったか。あるいは、ただただ持っていたかったから、か。


(えぇ~、血をぉ? 下賜品とかじゃなくてぇ?)


 ゾッとした。

 怪我したリォーを発見した瞬間ここぞとばかりに駆け寄って常備していたハンカチを取り出し、新しいもので返すというリォーの言葉をだらしない笑みで固辞するファナティクス侯爵の顔がほぼ強制的に脳裏を駆け抜けた。

 最早、狂信的を越えて気色悪さしかない。レイは本能的に一歩足を引いて、リォーの背中に隠れていた。

 その瞬間、ピリッと肌がひりついた。強い視線だと、反射的に周囲を見渡す。


(誰?)


 しかしそれを探し出すよりも前に、ファナティクス侯爵がずいっとリォーの前に踏み出した。


「ずっと、殿下の御身だけを案じておりました」

「……その気持ちには感謝するが、今は閣下の手を取ることは出来ない。そのまま帰って頂きたい」


 舞踏会の夜のように、腰を深く折り、左手の握り拳を右手で包んで腹部にあてようするファナティクス侯爵に、リォーは一歩下がって拒絶を示す。

 ファナティクス侯爵は、第三皇子派の筆頭だ。その援助を受けることはしないとは、リォーが最初に言っていたことだ。それに、リッテラートゥスからの忠言もある。

 しかし、そんな柔らかな拒絶で引き下がる相手ではなかった。


「そのような寂しいことを仰らないでください。殿下のお心を煩わせることのないように、殿下の大事なものは私めが全て把握しておりますのに」


 姿勢を正し、少し高い位置にあるリォーの青眼を陶然と見つめる。その眼差しに灯る熱量は、最早恋する乙女の如しだった。

 だが、レイの目の前にある背中は、鳥肌を立てるどころか明らかに硬くなった。


「……どういう意味だ」


 リォーが、表面上の敬意も捨てて問い返す。しかしこの変化さえも喜ばしいとでもいうように、ファナティクス侯爵は笑みを深めた。貫頭衣の下の両手を、リォーが取ると信じて疑わないようにゆっくりと伸ばす。


「お心当たりがあるのではありませんか?」

「まさか……カーラのことか?」


 リォーが勃然と結びついたというように、その名を出す。その疑念に、レイはまさかと息を飲んだ。


(まさか、ハルウじゃなくて、この人が……?)


 レイが最初に神法を使ったのは山の上の屋敷を破壊されてすぐのことだが、そもそもリォーの血を媒介にしていたのなら、外に出た途端探索の成果は出たことだろう。あるいは、転移先の大まかな方角くらいは、既に把握していたかもしれない。

 神法に意図的な転移の術はないが、幾つかの神法を組み合わせれば高速移動することはできる。となると、今よりもっと早くここに到着していた可能性もある。


(……何が目的なの?)


 背中越しの笑みが、途端に不気味さを帯びる。しかし狂信者の笑みがレイを向くことは、一度としてなかった。


「……どうぞ、ご一緒に参りましょう。ラティオ侯爵家まで」


 尊崇する神を祭壇に招くように、ファナティクス侯爵が更に両手をリォーに差し出す。

 リォーは何も言わなかった。踵を返すことも、その手を拒むことも。



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