第59話 無力な祈り
リォーが駆け付けた時には、既に屋敷は静まり返っていた。
玄関扉はよく見れば鍵が破壊されていたが、他に荒らされた形跡はない。途中の部屋も、生活臭はあったが人の気配がない。
逃げたのか、殺されたのか。
確信が持てないまま、ごく小さく話し声の聞こえる廊下の奥を目指す。漏れ届く淡い外光に生成りの壁板がぼんやりと明るい、と見た時だった。
バリンッ
と、甲高い破砕音がそこから響いた。
「!」
弾かれるように駆け出す。目的の部屋は突き当りを曲がってすぐそこだった。
「何が……!」
剣を腰だめに構えながら駆け込む。だが、足はすぐに止まった。
血溜まりに倒れた老婆。書斎の陰に見える白い女性の足。その間に蹲る若い女性の腕には、涙で顔がぐちゃぐちゃになった赤ん坊。
そしてその足元には、レイとクァドラーが折り重なるようにして倒れていた。
ハルウは、いない。
「レイ!」
リォーは剣を傍らに捨てるように置いて、レイの後頭部と肩に手を差し入れた。温かい。ざっと見た分には、負傷していないように見えるが。
「レイ、起きろ!」
「……ん……」
後頭部の手は固定し、肩を揺らす。呻き声ではあったが、反応はあった。今度は頬をぺちぺちと叩く。と、小さく睫毛が震えた。
リォーはひとまず安堵の息をついてから、足元で置物のように座ったままのヴァルを振り返った。
「ヴァル、何があった? ハルウにやられたのか」
その問いに、ヴァルが思索を切り上げるように小さな顔を上げた。リォーの藍晶石の瞳をじっと見詰め、それからふるふると首を横に振った。
「レイには何も。ただ……多分、接触しただけだ」
「接触って……そんなの、今までも何度だってあっただろ」
ヴァルらしくなく歯切れの悪い物言いに、リォーは眉根を寄せて反論する。けれど紅玉のような瞳は、ふいと逸らされた。
「……そんなの、知らないよ」
その声は、普段のヴァルからは想像もできないほどの沈みようだった。余計に焦燥が募る。隠しているのか本当に知らないのか、リォーが推考を働かせようとした時だった。
「……リ、ォー?」
真下から、寝起きのような声が上がった。慌てて顔を覗き込む。
意外に長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。現れた橄欖石の瞳に、夕べの再現のようにリォーが映り込む。そこに見えた自分の顔が余りに大きくて、動揺していて、リォーはにわかに頬が熱くなった。つい、パッと手を離す。
ゴンッ、と当然ながら鈍い衝突音が続く。
「ぃったぁ!」
続くレイの悲鳴に、リォーは何故かまず剣を拾い直してから確認を入れた。
「平気か!?」
「平気じゃないぃっ」
後頭部を抱えながら、レイが涙目で飛び起きた。よし、元気だ。
リォーは今のやりとりに一切の問題はなかったことにして、迅速に本題に突入した。
「で、何があったんだ」
「床に頭打ったのよ! 急に手を離すからぁっ」
「…………」
それは知ってる。という言葉は辛うじて飲み込んで、リォーは背後の男に目線で問いかけた。
「……お話し致します。ですが、その前に少々の……お時間を頂きたく」
男が、少しの躊躇を挟んで首肯する。
時間稼ぎをして隠蔽工作でもする気かと勘繰る仕草ではあったが、男の視線が二つの遺体を掠めたことで、おおよその意図は理解できた。
「必要ならば手伝うが」
「いえ、殿下にそのような真似をさせたとあっては、旦那様に合わせる顔がございません」
男は言下に辞退した。それに、と僅かに感情を覗かせて語を繋ぐ。
「『家のことは家の者が』……それが、家訓であり、ささやかな矜持ですので」
◆
男はこの家の執事で、エスト・エルゴーと名乗った。
座り込んで動けない母子を休ませたいが、クァドラーから目を離せないという様子だったので、リォーが戻るまで見ていると請け合った。
そのエストの足音が遠ざかって、少し。
「……ん……」
クァドラーが、小さく身じろいだ。
「クァドさん、大丈夫?」
「……レイ、さま?」
レイが覗き込むと、クァドラーが栗色の瞳を動かして見上げてきた。まだ少し夢を見ているような表情だったが、手を貸せばゆっくりとだが上半身を起こすことも出来た。
「わたし……気を失って……?」
「みたいです。怪我とか、痛い所はないですか?」
「えぇ、少しも……」
互いに床に座って向かい合う。見た目にも出血などはないようだし、どうやら心配はなさそうだ。
となると、問題は。
「あの、クァドさんって、何か……見ましたか?」
気絶していた間に見た映像について、だった。
自分だけが気絶したのなら確かめたりしないが、ヴァルが言うにはハルウを含めて三人が同時に同じ現象に陥ったのだという。
ハルウが既に逃げたことについては色々と思うことがあるが、今はあの夢の内容の方が無性に気になった。
「なに、か……」
クァドラーが、想起するように言葉を探す。だが返されたのは、期待とは違うものだった。
「何も」
「何も?」
「えぇ、真っ暗だったもので」
その答えに、レイはがっくりと肩を落とした。確かに、レイの夢も真っ暗ではあったから、同じと言えば同じなのだが。
「でも」
と、レイの残念ぶりを察したのか、クァドラーが思い出すように言葉を続けた。
「泣き声が、していたわ」
「あぁ、赤ん坊がいたからな」
傍らに立つリォーが、訳知り顔で頷く。だがそうではないと、レイは知っていた。
「小さな男の子の泣き声で、聞いているこちらまで悲しくなるような、寂しそうな声だった……です」
やはり同じだ、とレイは思った。全く同じものを見たかどうかは分からないが、同じ場所にいたことだけは間違いない気がする。
だが、無粋な男にそんなことの伝わるはずもなかった。
「なんで男だって分かるんだ?」
「それは……何故でしょう?」
リォーのもっともな疑問に、クァドラーもはたと気付いたように首を傾げる。
「それは」
「もう止めな」
レイが口を挟もうとしたところに、それまで無言で静観していたヴァルが割り込んだ。普段の説教をするのとも違う険しい顔で、レイを睨んでいる。
「ヴァル。でも」
「暗闇の話ばっかりしてたら、無に魅入られるよ」
無に魅入られる。それは、子供の頃からレイを黙らせる最後の駄目押しだった。
孤独なものは、無に魅入られる。無に掴まれば、生と死の神の導きは得られず、闇に囚われたまま、二度と地上の世界には戻ってこられない。そこは世界の外側で、誰もいない、何もない場所で、永遠の孤独だけが在る。世界と交わることは、決してない。
神殿の説教とも神話をもとにした絵本とも少し違う、怖いこわい説話。
「……うん」
レイは途端に子供に戻ったような気分になって頷いた。
無の話をする時、レイはいつからか、共感よりも恐怖をより強く感じるようになっていた。誰も対になれない無は憐れだが、肩入れすれば無に魅入られると言った祖母の言葉が忘れられなくて、次第に闇夜を恐れるようになった。
長じては、自分の立場を理解するにつれ、もう一人の自分のような無を迎え入れたいと思うような気持ちも夜毎に削がていった。光の届かない闇夜はレイの孤独を浮き彫りにして、次第にその闇に全ての悪しき感情を内包しているようにさえ思わせた。少しでも無のことを考えれば、その闇夜が手招きをして、レイを引きずり込もうとすると錯覚する夜さえあった。
(無に魅入られたら、本当の独り……)
それが今よりも悪いことなのかどうかも分からないまま、レイは恐れている。
孤独を。
「お待たせ致しました」
そこに丁度エストが戻ってきて、レイの思索は打ち切られた。知らずほっと息をつく。
「まずは部屋を移しましょう。こちらへ」
エストが、扉の前に立ったまま廊下を指し示す。
リォーがクァドラーに手を貸して部屋を出る。レイもそれに続こうとして、大事なことを忘れていたと足を止めた。床に横たわったままの女性の傍らに両膝をつき、右手で作った拳を左手で包み込んで、略式の祈りを捧げる。
双聖神教では右手で左拳を握り込むのが通常の拝礼だが、葬儀の時だけは手を逆にする。これは魂が肉体を離れていくことを表しているとされ、その存在が人から神々に近付いたことを意味するという。
レイが関わった葬儀は曾祖母の時だけだが、当時は幼くて覚えていることは少ない。それでも、祈りの言葉は教わっている。
レイは改めて二人の女性へ心から謝罪するとともに、二人が正しく死の神タナトスの導きを得られますようにと強く祈った。
(死の神タナトスよ。あなたの慈悲ある御手を求める者がいます。彼らの涙をすっかり拭い去ってください。彼らの行く先に飢えはなく、また渇きもなく、ただ癒しと救いの中を生の神ビオスの元へと迷わず辿り着けるよう、正しくお導きください)
神職者の資格を持たないレイのこの祈りは、何の役にも立たない。ただの気休めだ。それでも、レイには祈るしかできない。
エストはきっと、レイたちがいなくなった後で一人この遺体を処理し、家を空けているというライルード伯爵とともにひっそりと葬儀を執り行うだろう。この二人を想って泣くだろう。
けれどレイは彼女たちの死よりも、ハルウへの憤りと、自分への無力さで涙が込み上げた。けれどそれはあまりに失礼だから。
(泣いてあげられなくて、ごめんなさい)
もう一度心の中だけで謝罪を伝えてから、レイは小走りで三人を追いかけた。




