第57話 見捨てられた子供たち
聖砦での教師との追いかけっこで鍛えた脚力で、レイは一気に坂を駆け下りた。
神法を使った方が早いが、ネストルや帝国軍による捜索が続けられていると考えるならば、無闇な使用な危険だ。神法の探索は対象物との距離が開けば開くほど精度が落ちるが、神法を使えば捉えやすくなるからだ。
二人の治癒をしたことに後悔はないが、回数が増えれば危険度が増すのは確実だ。
果たして、元々の身軽さと下り坂なのも相まって、坂の下に辿り着くのはすぐだった。
(これが、ライルード伯爵邸?)
慎ましやかな前庭は手入れが行き届いていないのか、山の木々との境界線が曖昧になるほど緑が生い茂っていた。建築当時からあると思しき年代物の噴水には水がなく、乾いた落ち葉が隅に溜まっている。
その向こうに建つ左右対称の館は、更に古色蒼然としていた。屋根瓦は所々ひび割れて剥がれ落ち、石灰石の壁は風雨に黒くくすんでいる。その壁にも半分以上蔓木が巻き付き、中庭から見えたのと同じ白い花が控えめに咲いている。
規模と物々しさから貴族の所有する屋敷だろうとは思うが、帝都に集まる貴族たちの好む今風とか流行といったものは一切伺えない、旧態依然とした佇まいだった。
(まるで、あの屋敷と同じ……)
共に時代に取り残された、哀れな残留者。
「防御を忘れるんじゃないよ」
知らず眉根を寄せていたレイは、追いついたヴァルの忠告に慌てて腰の短剣を引き抜く。それから、半ば開け放たれたままの扉に身を滑り込ませた。
人の気配は、ない。代わりに、匂いがした。古い建物特有の黴臭さ、湿気た木材の香り、溶けた蝋と油の匂い。香水というほどにはきつくない、淡い花のような香りに、中庭で嗅いだ覚えのある幾つかの香草も香った。
人が生活している匂いは、確かにある。そして、嫌な鉄臭も。
「あの……ハルウ?」
無人の玄関ホールに、控えめなレイの声が響く。返事はない。
「――やめて……!」
代わりに、か細い悲鳴があった。
奥の部屋だ。レイは全力で駆け出した。左右の部屋には一瞬だけ視線を飛ばし、格子柄の廊下を一度だけ曲がって、突き当り。
「やめて! この子だけは……! この子だけはお願いだから……!」
女性の、震えてひび割れた悲鳴と。
「しつこいよ。そいつも悪魔になるって、分からないの? 頭の悪い女は嫌いだなぁ」
ハルウの、苦笑するような暢気な声が、開け放たれた扉の向こうから届く。
レイは叫びながらそこに飛び込んだ。
「ハルウ、ダメ!」
位置関係など分からないから、とにかく両手を広げて緑の髪を探した。だが案に反し、目的の人物は扉のすぐ近くにいた。無機質な目が、レイを見下ろしている。
「……来たんだ」
「ハル――」
説得しようと、ハルウに向き直る――前に、見えてしまった。すぐ足元に広がる赤い血溜まりと、その上に横たわる年老いた女性が。奥の書斎机の陰で、蹲って動かない血だらけの壮年の女性が。
そしてその二人の女性に挟まれるように部屋の中央で体を丸めて怯えている、妙齢の女性。彼女からだけは、乱れてはいるが呼気を感じる。
「ッ…………!」
レイと目が合った途端、妙齢の女性が更に腕に力を入れて腹を隠した。まるで何かを守っているようだ、と思ったところに、答えのようにか細い泣き声が聞こえた。
ふえぁ……と。
ふやぁふやぁと、苦しそうに泣いている。弱々しくて、今にも消えてしまいそうな声。
それが何かと考える前に、レイは目を極限まで見開いてハルウを見上げていた。
「ハルウ……何を、したの」
体が震える。指先がどんどん冷えていく。鼓動が早鐘を打つ。目に、薄い涙の幕があるような気分だ。涙腺が崩壊する寸前。けれど、目は痛いほど乾いている。
「何って……レイって、さっきからそればっかり。邪魔だからって言ったでしょ?」
喉が渇いたからとでも言うように、ハルウが続ける。その声が、いつもとあまりにも変わらなくて。
「……希うは楔戒の繰り風、全てを縛せよ、不破の風鎖!」
握りしめた短剣は結局振るえなくて、レイは咄嗟に警戒していたことも忘れて束縛の神言を放っていた。
白く見えるほどに濃く寄り集まった風の筋が、暴風のようにハルウの体に纏わりつく。
そのまま拘束して、踏ん張りがきかないように少しだけ持ち上げれば、と考える目の前で、ハルウが無造作に手を振った。
「おっそ」
「!?」
バシュッと、空気が一気に抜けるような音とともに、風が散った。結んでいないレイの髪が、てんでに暴れ回る。
背後に庇った女が、歯を食いしばって腹に抱えたものを守る。少しだけ強くなった泣き声が、風の収まった部屋に響く。
レイは、不動のままのハルウを呆然と見上げるしかなかった。
「何で……神法は、使えないって……」
「使えないよ。神法はね」
「それって、魔法は使えるってこと……?」
少しも理解が及ばない。やはり、何もかも嘘だったのかと動揺するレイには憐憫の笑みだけを向けて、ハルウは女に向かって歩き出す。
その腕に、レイは情けなく縋りついた。
「ハ、ハルウ、やめて、ダメだよ」
神法が通用しないなら、レイに出来ることなどこれくらいしかない。だが、ハルウは一瞥もくれなかった。レイの体重などないかのように、蹲って震える女に手を伸ばす。
「っ、ぃゃ、やめ……!」
「やめ……やめて! お願いだから……!」
二人の女の懇願を無視して、ハルウが震える女の髪を鷲掴みにして、隠し続けたその腹を乱暴に暴く。
そこにあったのは、案の通り、ぐちゃぐちゃのおくるみからはみ出した赤子だった。生え初めのような細くふわふわの髪、赤いほっぺとつぶらな瞳は、涙でぐちゃぐちゃだ。
「きたな」
「ふぇ……ぴゃぁぁぁっ」
赤子はハルウを見て一瞬泣くのをやめ、それから今度は火が付いたように泣き出した。
「うるさぁ」
「いや……お願い……お願いですから……!」
「ハルウ!」
ぎゃぁぁぎゃぁぁぁっと泣く赤ん坊に、血で汚れたままのハルウの指先が触れる――その直前。
「女の赤ん坊だよ、そいつは」
ヴァルが、そう言った。
「ッ!?」
レイやハルウが反応するよりも早く、女が驚愕してヴァルを振り返った。
「ち、違います! この子は男の子です!」
「……僕も、坊やって呼ぶのを聞いたけど」
ハルウが、猜疑の目を向ける。ヴァルはそれをものともせず、女の傍に歩み寄った。
「見てみれば分かる」
尻尾で指し示すヴァルに、ハルウが行動で示す。その前に、女が赤子をおくるみごと掻き集めた。
「男の子です! この子は男の子です!」
女が、まるで今にも殺されそうな自分の命よりも重要だと言うように金切り声を上げる。それは結局、抱きしめているのが女児だと答えているも同義だった。
そこまで考えて、矛盾に気付いた。
「……え? 女の子、ってことは……」
「――若奥様!」
レイの声を、後ろから飛び込んできた声と人影が遮る。振り返った先にいたのは、血の気の失せた顔ながら壁に手をついて立つ、使者の男だった。
「ご無事で……」
「エスト……」
若奥様と呼ばれた女が、赤子を抱く手に力を込めて呼ぶ。しかしそこにあるのは、安堵ばかりではなかった。
「ち、違うの、この子は女の子なんかじゃないの……っ」
次々にやってくる変化のためか、女は眦に涙を散らして首を横に振る。最早、この場にいる全員が敵に見えているようだった。
そこに、更なる人物が現れた。
「うそ……男児が、生まれたって……」
使者の男――エストの更に後ろに、ドレスについた血も埃もそのままのクァドラーが立っていた。
それらを視界の端に捉えて、ヴァルが嘆息と共に一つの結論を出す。
「母親が――この女が、嘘をついたんじゃないのかい。奪われないように」
「……ッ」
びくっと、女が肩を揺らす。その前に直立するハルウも、反応はないが似たようなものだった。
「女……」
確かめるように、口の中でそう繰り返す。掴んでいた女の髪が、緩んだ指の隙間からするすると零れ落ちる。殺すのは既に決定事項だというような横顔が、一瞬だけ揺らいだ気がした。
「ハルウ」
今なら、声が届く。そう思ったのに。
「……下らない」
縋りついた腕の先で、凍り付くような声がした。
「母の愛なんて、幻想だよ」
今まで聞いた中で、一番低く掠れた、憎悪に満ちた声だった。殺そうとしていた時でさえ変わらなかった表情が、初めて歪む。
そしてそれは、もう一人も同じだった。
「女児、なのに……?」
ふらつく足をどうにか前に押し出しながら、蹲って震えている女と赤子を凝視する。
「この子は、守られてるの? 同じ女なのに」
「クァドラーギンター様、それ以上はなりません」
ふらふらと、エストの制止も聞こえないように、ぶつぶつと続ける。
「わたしの母親は……わたしを捨てた、のに……?」
足掻くように、止められないように、手を伸ばす。その手と、左腕にしがみついたままのレイとを、ハルウが冷めた目で見下して、呟いた。
「見捨てられた子供たち、だね」
「「――――!」」
ギュッと、心臓を鷲掴みにされたような思いだった。
クァドラーが、目を真円に見開いてハルウを振り返る。その栗色の瞳ごと抉るように、ハルウの止まっていた手が赤子に伸びる。
「待っ……!」
そこに、出遅れたレイが止めようと必死に手を割り込ませる。
ハルウの手に、クァドラーの体とレイの手が同時に接触する、その刹那。
視界が暗転した。




