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第47話 明かせぬ決意

 うつらうつらしていた。

 背中の二つの傷口から痛みがじんじんと痺れて広がって、背中どころか全身が熱を持っていた。激しい血流が、どくどくと頭蓋を打ちつける。

 本当は、この場所が安全かどうかもまだ分からないのに暢気に寝ている場合ではないのだ。だがレイの神法が使えないのであれば治癒は期待できないし、リォーがこの状態ではここから脱出することも難しい。

 それにクァドラーと名乗る女の手つきに、悪意は感じなかった。どころか、年頃の女性にしては淡々としすぎているほど手際が良かった。まるで今までにも何度も治療をしたことがあるかのように。


(貴族の令嬢……というわけではないようだが)


 途中から意識が朦朧として観察が不十分だが、クァドラーの服は質は悪くないが貴族というには地味だったし、両手は水仕事を日常的にしている手だった。

 だがこの部屋に来るまでに目にした内装は、平民が住むには頑丈過ぎるし、貴族が住むには地味すぎる。邸宅というより、リォーには要塞を想起させた。


(何もかもがあべこべ過ぎる)


 まだまだ少ない情報を整理し、人物像を導き出そうとしても、どうにも像を結べない。だがやはり、悪意はどこにもない。隙を窺う様子もなければ、事情を探ろうともしない。鼻の利くヴァルも、強くは警戒していなかった。

 リォーは結局、この状況をぎりぎりまで利用するほか道はなさそうだと結論付けるしかなかった。休める時に少しでも体を休め、体力の回復に努める。旅の鉄則だ。

 一度腹を括ると、途端に睡魔が押し寄せた。ゆっくりと瞼を閉じる。

 師匠の夢を見たのは、直前に彫言の剣(レスティンギトゥル)のことを聞いたから、だろうか。


『リォン……いや、リォーの方が合いそうです』


 夕暮れの街路だった。

 八歳の子供が、家路を急ぐ人々に押しのけられたように、道端で所在なく佇立していた。その目の前で、一人の男が思案の結果、そんな言葉を捻りだした。


『リォー……?』

『あなたの愛称です。本名では、呼びづらい』

『みんな、フェルって呼ぶけど……?』


 愛称と言われ、小さなリォーはおずおずとそう返した。だが実際には皆というのは実の家族だけで、他の貴族はみなリォーのことを青の王子と呼んできた。


『誰よりも深く美しい青の王子よ』

『その輝かしい青の髪を、誰もが待ち望んでいたのですよ』

『殿下が皇帝となれば、エングレンデル帝国は再びこの世の春を謳歌することでしょう』


 そう、大人たちはこぞって、世間を知りもしない子供をもてはやし。


『気持ち悪いんだよ、なんだよその髪』

『染めてるんじゃないのか? 水かけてやろうぜ』

『血まで青いのかもよ。魔獣みたいに。確かめてやるよ』


 子供たちからは、いい気になるなと散々に侮蔑された。

 リォーは必然的に玉妃宮に閉じこもりがちになり、城内を出歩くことも減っていった。だが年になれば、全学校スコリーオに行かなければならなくなる。

 全学校に行くことには、淡い期待もあった。レテ宮殿に来るような貴族の子弟とは違う、あの少女のような、偏見のない者とまた会えるかもしれないのではないかと。

 結果から言えば、それは呆気なく打ち砕かれた。

 学校は大人の目が減る分、周囲からの悪意は容易に悪化エスカレートした。リォーが学校の外――城下に逃げ出すのもまた、当然の帰結と言えた。


 そこで出会ったのが、師匠だった。

 逃げ出したはいいが内郭門を越えられずに泣きべそをかいていたリォーを、黙って助けてくれたのだ。

 そして突然、そんな脈絡のないことを言い出した。

 リォーの困惑に答えるように、師匠は続けた。


『それは、皇子としてのあなたです。城下ここでは、あなたはただの無力な男の子です。名前にも、何の力もない方がいい』

『ただの……?』


 それは、その時には意味は分からずとも、不思議に心惹かれる言葉だった。


(リォー……リォー……)


 初めてもらった宝物のように、何度もその名前を口の中で繰り返す。


『今度来るときには、髪粉も用意しておきましょう。使い方を教えて差し上げます』


 今度、という言葉に、リォーは目を瞬いた。

 青の王子に面会を求める大人は毎日際限なく現れる。誰もが熱心に自分を売り込み、幼いリォーはその目が怖いと思ったものだ。

 だが師匠の目には、熱意というものは欠片もなかった。だというのに、もう一度会うのは花が咲くのと同じくらい普通のことという顔をしている。

 それが何故か嬉しくて、リォーは迷いもなく頷いていた。この時は、師匠の名前も身分も職業も、何一つ知らなかったくせに。


『……うん!』


 きっと、許されたような気がしたのだ。ここにいて良いと、そのままでいいと。

 初めて――否、あの式典で会った少女以来再び、リォー自身を見てもらったような気がした。


「……し、しょ……」


 声にならない声で、そう呼んでいた。その掠れた自分の声で、リォーの浅い眠りは覚醒した。


(……くそ痛ぇ……)


 半覚醒のうちにした身動ぎに、背中がズキンと痛んだ。まだ体全体が熱を持っている気がする。だが手足は冷たい。


(経過は、良さそうだな……)


 もう数時間もすればまた発熱するだろうが、今までの経験からそれが自然治癒の副作用みたいなものだということは承知していた。


(問題は、あとどのくらいここにいられるか、だが)


 ゆっくりと深く呼吸をしながら、リォーは首を巡らせた。

 ぎょっとした。


「ッ……」


 目と鼻の先に、レイの寝顔があった。リォーが寝ている寝台に、凭れるようにして頭と両腕を預けている。


(なん……何で、こんな所で……っ)


 レイもまた、クァドラーに治療を受けていたことは知っている。重症ではなくとも、神法士は見た目では判別できないほど疲労している場合が往々にしてある。限界だったのだろう。


(ボロボロ、だな)


 近くで見るレイの顔は、あちこちに擦り傷や切り傷があって、痛々しいばかりだった。怪我の度合いで言えばリォーも大概なのだが、眠っているせいでいつもより幼く見えるから、そう感じるのかもしれない。


(なんで、こんなになってまで……)


 王証が必要だということは、理解できる。プレブラント聖国でも、エングレンデル帝国でも、それは最重要機密であり、譲れない国宝だ。

 だがリォーが持っているものは、剣だ。折れた剣の先だった。それは湖の底から引き揚げた時か変わらない。

 だが。


『王証は持つ者によって形が変わるのよ』


 舞踏会の夜、レイに言われた言葉が頭から離れない。

 そんな都合のいい話があるだろうか。もしそれが本当なら、これをレイに渡せば弓になるのだろうか。


(そういえば……盗られてない、な)


 ボロ雑巾のようになった服と一緒に、胸当ての下に隠した王証も外していた。辛うじて動かせる左手で確かめれば、服の下にちゃんと硬質な感触がある。

 思えば、レイはこの王証を欲しがっているのだ。その女の前で無防備に寝るのは迂闊といえた。

 だが、王証はまだここにある。

 そんな余力はさすがになかったかと、今までなら考えたかもしれない。だがレイのことを少しだけ知った今は、そんなことはしないと、疑いもなく確信していた。


(我ながら妙な話だ)


 自分らしくなくて、少しだけ居心地が悪くなる。だから、ありもしないことを考えてしまった。

 もし、本当に弓に変わったら、と。


(……そうなったら、最悪だ)


 そんな奇跡的なことが現実に起これば、それは本物だという何よりの証明になるだろう。

 だがそうなった時、真の姿がどちらなのか、一体誰がどうやって確かめるというのか。

 王証を授かった当の本人がいれば、分かったかもしれない。だが二柱は既にいない。

 王証の真偽を確かめる術も道具も、記録には出てこなかった。そんな必要がなかったからだ。

 確かめられないとなれば、最悪の場合、今度は聖国を巻き込んでの戦争に発展するかもしれない。

 王証の欠片に意味も価値も用途もないはずなのに、煩わしい大義だけはあるのだから。


(最悪だ……)


 全ては、リォーが詰まらない意地を張ったせいで。兄も妹も巻き込み、レイを傷付け、何百年と守られてきた魔獣の棲み処も荒らして。

 そして、得るものは何もない。


(そんなことは、絶対にできない)


 そうならないためにも、リォーは絶対に、王証をレイに渡すことはしない。絶対に。


「悪いな……」


 そっと呟く。

 無意識のうちに、シーツに揺蕩う髪を一房、掬い上げていた。いつの間にか置かれた蝋燭の灯りに、一層深みを増した麦穂色がどこか藤色に揺らめく。


「夜明けの色、だな」


 じきに稜線の向こうから白白しらじらと旭日が現れる、その数分前の空の色。夜と朝が混じり合う、儚くも胸高まる色だと、口が滑りそうになった、寸前。


「……へ?」


 ぱちり、と橄欖石ペリドットの瞳が現れた。


「ッ――ってぇ!」

「えっ? ちょ、リォー!?」


 反射的に逃げていたが、背中の激痛にすぐさまシーツの海に撃沈した。目覚めたレイが慌てて顔を覗き込む。が、リォーは必死で壁側に顔を逃がした。


「大丈夫!? そんなにすぐに動いたらダメだよっ」

「ばっ、ちがっ……分かった! 分かってるから放っておけ!」

「分かってないよ! 傷口が開いても、ここじゃ神法が使えないんだから……治して、あげられないんだから」


 リォーに説教していたはずのレイが、途中から声調を落として、そう言い結ぶ。まるで、神法が使えない自分には価値がないとでもいうように。


(……そういえば、こいつも結構こじらせてるっぽいんだったな)


 目だけで振り向いた先に予想通りの表情が見えて、リォーは内心で嘆息した。家族や先祖が優秀なせいで膨らむ劣等感の厄介さは、リォーも身に染みている。

 だからだろう、柄にもないことを口走ったのは。


「お前は、よくやってるよ」

「え?」


 逃げるのをやめて、その情けない顔を見上げる。森に隠された湖の水面のように輝く瞳に、リォーの青が映っている。手を伸ばせば、今なら水底まで届きそうだ。

 屈折した意地と矜持で必死に隠そうとしている、レイの心の底にも。


「……あ、ありがとう」


 そこまで考えたところで、レイの瞳が恥ずかしそうに睫毛の下に隠れる。

 リォーは金縛りが解けるように我に返った。


(なに考えてんだ俺は……)


 痛みと疲労で、まだ意識が朦朧としているのかもしれない。考えがまとまらず、しかも飛躍している。触れたいと思ったのか、暴きたいと思ったのか、自分の思考なのに、それすら分からない。


「…………そ」


 リォーは全力を振り絞って、どうにかいつもの皮肉を捻り出す。


「そもそも、神法士がある程度回復してなきゃ、治癒なんて頼めたもんじゃない」

「……それもそっか。うん、じゃあ、沢山食べるっ」

「なんでだ!?」


 よく分からない理論で返された。

 一瞬前の心配と困惑を返せ、と思うリォーであった。



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