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第43話 喰われる希望

「カーラ、逃げろ!」

「あ、あ……」


 リォーが矢のように駆けだす。だが人の足が神法に敵うはずもない。

 カーランシェの雪のように白い肌に、炎の赤が映る――そこに岩のような尻尾が飛んできて、地面ごと火球を叩き潰した。


 ――ガォルァァアアアァァッッ!


 今までの咆哮とは明らかに違う、怒気を孕んだ凶暴な雄叫びが山を震わせる。怒り狂った竜蜥蜴グアンロンが、叫びながら尻尾を引き戻す。その反動を使って今度は頭が振られ、襲い来る炎ごと周囲の木々を薙ぎ払った。


「きゃぁあっ」

「レイ!」


 身構える時間はなかった。竜蜥蜴の傍に残っていたレイがその鼻面に弾き飛ばされ、全身をもんどりうつ。


「っ…、え……?」


 地べたに這いつくばったまま、レイは一瞬聞こえた声が理解できずに顔を上げた。だが肝心の竜蜥蜴はけたたましく土を蹴散らして、今度こそ容赦なく物陰に潜む帝国軍を踏み潰していく。


「ぎゃああっ」

「か、閣下! もうこれ以上は……ッ」


 潰れた悲鳴の中、逃げ惑う部下たちがネストルに指示を求める。返る声はしかし、最早命令というよりも子供の癇癪に近かった。


「いいから放て! 燃やせ!」

「し、しかし、竜蜥蜴はサトゥヌス帝との約定で、不可侵の」

「これは保護だ! 魔獣を追い払って、殿下を連行するんだ!」


 自分はじりじりと後退しながら、ネストルが口答えする部下の襟を掴み上げる。保護といった口で連行とのたまう辺りその錯乱ぶりは極まっていたが、それはレイたちも例外ではなかった。


「レイ、無事かい!?」

「う、うん、でも」

「いいから立って」


 駆け寄ったヴァルとハルウに促されて、その場に立ち上がる。少し離れた場所でも、カーランシェのもとに辿り着いたリォーが、妹の肩を抱いて立たせていた。

 リォーが、無謀な下知を飛ばすネストルに向けて大喝する。


「やめろ! ここは皇室の直轄地だぞ! そこに火を放つことがどういう意味か分かっているのか!」

「聞くな、奸計だ! 任務を続行しろ!」


 リォーの大声を、ネストルが更なる大音声で掻き消す。だが神法士が応じる前に、竜蜥蜴の太い爪が彼らのいた場所を抉り取った。


「うわあっ」

「竜蜥蜴! やめろ!」

「きゃあっ」


 飛び散る土や木っ端から妹を守りながら、リォーが必死に呼びかける。だが我が子を火達磨にした帝国兵を片っ端から潰そうとする魔獣に、その声が届く余地はなかった。


「お前たちもとっとと逃げろ!」


 荒れ狂う竜蜥蜴に退くことも出来ずにいるレイに、セネが長老の腕の中からそう叫ぶ。距離は大分離れてしまったが、向こうはさすがに無事のようだ。長老の腕の中には、意識のないカタンもいる。

 彼らもまた暴れる竜蜥蜴と迫る火から距離を取ってはいたが、逃げきれるかどうかは怪しく思えた。


「そんなの出来ないよ!」


 ボロボロの体で叫ぶ。もう、大声を出すだけでも体が痛かった。

 だがこの事態を招いたのはレイたちだ。それをこのまま放置して逃げるなんて、できない。せめて、善性種エピオテスたち全員が無事に安全な場所に逃げられるまでは。

 だがその言葉は最初から予想されていたように、セネは強く言葉を重ねた。


「いいから逃げろ!」

「でも!」

「おれたちも逃げる! だが、お前たちがいちゃ逃げられない」

「……っ」


 それは、冷静に考えれば当然の反論だった。ここは彼らの棲み処だ。人間種ピリトスへの襲撃がどこまで本気かは不明だが、それでも逃げ道や別の隠れ家を確保しておくのは常套だ。

 レイは、頭が痛くなるほど惨めな気持ちで唇を噛みしめた。


「……ごめん。本当に、ごめん……!」


 それしか言葉が出てこなかった。カタンの無事を確かめて、出来るなら治癒の神法も施したかったが、今人間種が近寄れば竜蜥蜴の怒りを増長させるだけだろう。


「レイ、早くしな」


 足元でヴァルが急かす。レイはそれ以上抗う言葉もなく、ともすれば沈み続ける気持ちをどうにか平静に保つしかなかった。

 竜蜥蜴は暴れ続けている。何百年と守り住み続けた森を、山を破壊してでも、人間種を排除しようと。

 今レイに出来るのは、その視界から消えることだけだ。

 レイは先程の竜蜥蜴の言葉を十分に吟味してから、神法の枕詞を静かに唱えた。


「……いと高きにまします、世界を整えし始まりの神々が一柱、空間の神コーロスよ。天より来りて恵みの一滴をこの身に分け与えたまえ」


 それを見上げながら、ヴァルがハルウの肩に飛び乗る。それから、今度はリォーたちに一瞥を向けた。


「坊主どももこっちに来い」

「分かって……」


 いる、と言いかけたリォーの目に、黙ってレイの腰に触れるハルウが留まる。

 藍晶石カイヤナイトの瞳を険しくしたのは一瞬、帝国兵とセネたちとを交互に見たあとで、すぐにカーランシェの手を取って走り出した。

 散々に荒らされ、抉れて凸凹になった地面を駆ける。辺り一面を埋め尽くしていた木々は最早なく、視界は開け、竜蜥蜴の黒光りする威容だけがよく見えた。


 グォルァァアア!


 断続的な竜蜥蜴の咆哮を背に受けながら、レイたちのもとに辿り着く。そしてハルウに倣い、リォーもまたレイの肩にそっと手を置く。

 それから、眉根を引き絞って、セネとカタンを抱く長老を見た。


「……約束は、必ず守る」


 そこには、あの洞窟の広場で交わした言葉以上の強さがあった。

 第三皇子の権限で森を守ると言っても、今のリォーには何もできない。目の前の善性種さえ助けられない。それを苦しくなるほどに承知した上で、小さく頭を下げる。

 二度と彼らの平穏を脅かさないことだけではない、確固たる決意を込めて。

 それを承知してかどうか、木々の向こうに消えようとしていた白と緋の体躯は、一度立ち止まり首だけをゆっくりと振り向かせた。白い片眉を少しだけ持ち上げて、リォーを見据える。

 それから、なぜか近くの枝に生っていた果実をぎった。二、三個を、まとめて投げる。


「っ?」

「餞別じゃ」

「は?」


 驚きながら受け取るリォーに、わざと後からそう告げる。

 その間の抜けた顔を見て、長老は飄々と笑った。


「森は、焼けても再生するでな」


 それが排他的な彼らなりの精一杯の優しさだとは、すぐに分かった。気にするなと、リォーたちを送り出してくれる。

 だから、レイもその先の詠唱を続けられた。


「願い奉るわたしたちに、全と一を司る空間の男神コーロスは真白き翼を広げて微笑まれた。『神は常に共に在り、常に見守っている』と」


 神法は、世界を造り給えし神々に願い、その力の一端をお借りすることで奇跡を起こす。

 それを最も効率よく簡潔に整えたのが神言だが、効果や威力が高い――神殿では俗に格が高いともいう――神法に関しては、簡略化せずに神識典ヴィヴロスの原文をそのまま祈りに変える。

 だがその分、肉体への負荷も必然的に高くなる。


(体が、熱い……っ)


 今までの優しい温かさとは明らかに異なる熱が、体中の血管を介してレイの体力を奪う。体中の怪我とも相まって、ともすれば膝を折りそうだった。額に首に、大粒の汗が浮く。


(でも……!)


 今レイにできることは、これしかない。


「コーロスは迷い悩める者も、傷付き嘆く者も、分け隔てなくその翼の陰に招き入れ、御許へと身を寄せることをお許し下さる。その、慈悲を」


 無意識のうちに黒泪型の首飾りを握り締めていた。強く願う。

 頭上では竜蜥蜴が全身を唸らせて燃え盛る草木を踏みしだき、薙ぎ倒し、地面を抉る。飛び散った無数の礫が帝国兵を横殴りに弾き飛ばし、ネストルもまたその歯牙からは逃れられず、吹き飛ばされる。

 そして、


「今一度我らに」


 あと少しで詠唱が完了する、その間際に、ネストルの手から弾き飛ばされたリォーの剣が、目の前の地面に突き立った。


「レスティンギトゥル!」


 リォーが咄嗟に数歩先の剣に手を伸ばす。レイに触れていた手が離れる。そこに、竜蜥蜴の鋭い牙が真っ赤な口腔を見せつけて追ってきた。


「フェルお兄様!」


 カーランシェが金切り声で兄を呼ぶ。その震える細腕を、レイが蒼白な顔で引き寄せる。


「えっ……!?」


 身を乗り出していたカーランシェが、大きな瞳を益々見開いてレイを見返す。その淡褐色ヘーゼルの瞳が、愕然と訴えていた。

 何故引き留めるのかと。何故助けに行かないのかと。


(行けるものなら……!)


 今すぐにでもリォーを連れ戻しに行きたい。けれど今は、レイにしか出来ないことをしなければならない。

 竜蜥蜴を信じて。


「恵み給え……!」


 言い切ると同時に、青白い光がレイを中心に広がり始めた。その霞む光の中、やっと自分の剣をその手に取り戻したリォーと、レイは確かに目が合った。そのすぐ後ろに迫った琥珀の隻眼と、赤く脈打つ口腔とともに。

 そして。


「……だめ……だめ…っ!」


 カーランシェが、零れそうなほど瞳を見開いて弱々しく首を横に振る。その目の前で、見せつけるように魔獣のあぎとが涎を撒き散らして最大まで開く。


「グ、グアンロ――ッ」


 ハッとリォーが振り向く。だが時既に遅く、上下にびっしりと並んだ凶悪な牙が容赦なくリォーの体を呑み込んだ。

 そしてその牙は、咀嚼する間も惜しむようにそのままレイたちのいる場所へと向かう。


(まだ、光が……!)


 翼下避行よくかひこうの神法は完成している。周囲に広がっていた青白い光が、レイたちを包むように内へと戻ってき始めている。

 それに比例するように、頭を振り回されるような気持ち悪い振動が脳を揺らす。だが対象の質量が多すぎるせいか、光はまだ完全には収束しきらない。


(間に合わないかもしれない)


 その恐怖に、引き寄せたカーランシェを力任せに抱きしめていた。そんなレイを、ハルウがいつもの調子で優しく背後から抱きしめる。

 早く、と首飾りと聖大母ユノーシェルに祈る。

 吐き気を催す気持ち悪さに、瞑っていた瞼を少しだけ押し上げる。


「!!」


 目の前に、鮮血を付けた竜蜥蜴の牙があった。



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