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第38話 伝説の中の魔獣

 荒れ狂う暴風が青葉を吹き飛ばし、後頭部で結んだレイの髪をてんでばらばらに舞い上げる。

 森は燃やさない。人命は奪わない。その信念の下、レイは敵が居並ぶその足元目がけて風の刃を横薙ぎにぶちかました。

 その結果。


「……すっげ……」


 背後で、リォーが思わずというように感嘆する。その通り、周囲の地面は鎌で掘り返したように捲れ上がり、木々は太い幹が抉られたり、時にすっぱりと切れてその年輪を晒す物さえあった。

 そしてその中にいた帝国の軍服は、最早包囲の陣形もなくなる程ことごとく後方に弾き飛ばされていた。


「死ん……でないよね?」


 視界から消えた敵とあちこちから上がる呻き声に、レイは血の気が引く思いで誰ともなく問いかける。

 自信はまるでなかった。だがあの場面では、下手な加減は逆効果だった。


「軍服にはちゃんと防護の彫言がある。それに、帝国軍人はそんなにやわじゃない」

「フェルお兄様!」


 苦しそうな息遣いながら、背後に庇ったリォーからそんな回答が返る。腕の中のカーランシェが、弾かれたように傍らに駆け寄った。


「お兄様、や、矢が、二本も……!」

「今手当を」

「いい……」


 カーランシェの後ろから早速手を伸ばすレイに、リォーがどうにか上半身を起こしながら首を横に振る。


「傷は浅い。矢柄を折ってくれればいい」


 そう言って見せた背中の矢は、確かにそれほど深くなさそうにも見えた。咄嗟の状況で、引きが浅かったのかもしれない。


「でも、神法で治癒すれば」

「女の力じゃ、鏃は抜けない」

「そうなの?」


 意外なことを言われ、レイは出した手を彷徨わせた。治癒の神法は生物の自然治癒力を高めるだけのもので、異物を取り除くことまでは出来ない。

 鏃には返しがあり、闇雲に行っては更なる痛みや失血を招きかねない。

 レイは覚悟を決めて矢柄に手を伸ばす。だがそれを、カーランシェが慌てて押し留めた。


「ま、待ってください! そんな、きちんと王宮に帰って、侍医に診てもらってからでなくては」

「そんな悠長なことはできない」


 リォーが掠れた声で拒絶する。実際、カーランシェの提案はとても現実的ではなかった。

 レイとしても、先程の神法は敵を吹き飛ばしただけのつもりだ。態勢を整えられる前に逃げる必要があるが、木々が生い茂る山道に、背に矢が生えたままでは邪魔だし危険だ。


(怖い……けど、私がやらなきゃ)


 レイには実戦経験もなければ、治癒や負傷と向き合うのも今回が初めてだ。レイがそうなら、カーランシェはなおさらだ。

 レイはカーランシェには見せないよう、あえて二人の間に回り込んだ。震える左手で矢を握り込み、左肘を膝に当てて固定する。リォーもまた、両手を地面について体を固定した。


「……行くよ」


 緊張で溢れてくる生唾を何度も飲み込んで、短剣を勢いよく振り下ろす。


「ッ」


 瞬間、リォーの体が微かに震えたが、呻き声はなかった。

 大丈夫? と聞きそうになったけれど、大丈夫なはずがない。

 レイは自分の方が痛みを堪えるような顔をしながら、更に短剣を振り上げる。


「もう一本」

「ッ」


 パキッと乾いた音がして、二本目の矢も地面に落ちる。


「立てる?」

「……あぁ」

「フェルお兄様……」


 一拍の間を空けて、リォーが体を持ち上げる。支えようとしたレイよりも早く、カーランシェがその細い腕を差し伸ばした。

 それに身を譲って、視界が開けた時だ。崩れて瓦礫の山になった縦坑の対岸で、チカッと光るものが見えた気がした。

 考えるよりも先に神言を唱えていた。身を乗り出して両手を翳す。


「慈悲深き風の神アネモスよ! 希うは一陣の風巻しまき、全てを阻め、鉄壁のふうじゅん!」


 十指の先から風が逆巻き、全てを弾き飛ばす風の壁が広がる。だがその風が三人の体を覆いきるよりも早く、氷の矢が着弾した。


「ッう!」


 続けて氷の矢が次々と飛来する。だが省略した詠唱のためか構築の時間不足か、通常よりも薄い風盾に振動が直接ダイレクトに両腕に響く。


「カーラ!」


 足元で、リォーが動けないカーラを抱き込む。


(どっちに走れば……!)


 素早く視線を左右に走らせる。その時、視界の隅で何かを捉えた。風盾の範囲外。

 腕を伸ばしたのはただの反射だった。


「ッ」

「……え?」


 咄嗟の行動に、風盾が音を立てて四散した。リォーの腕の中、ゆっくりと振り向いたカーランシェの長い髪を巻き上げる。

 それを真下に見ながら、レイはぐっと足に力を入れた。だが痛みで、均衡バランスの崩れた体を立て直すことができない。膝が震える。

 ぐらり、と体が傾いた。


「きゃっ」

「ッレイ!」


 カーランシェを左腕に抱いたまま、リォーが右手を伸ばす。だが届かない。

 レイはその場で地面に膝と手をついた。


「……だい、じょぶ……」


 辛うじて倒れ込まなかった体を、両手でどうにか支える。肩口に走った衝撃は骨を揺らし、一瞬呼吸を奪ったが、貫通したわけではない。外套の彫言が、半分以上殺傷力を減じてくれたのだ。


(何か刺さってる感覚は、無視できそうにないけど)


 見ると気力が枯れそうだったが、根性で肩口に突き立った矢柄を掴んだ。思った通り、鏃の返しまでは食い込んでいないようだ。


「ぐ、ぅ……!」


 痛い。

 瞬時に生理的な涙が滲んだ。それでもどうにか引き抜く。鏃の刃が肌を裂いてびりびり痛んだ。押さえがなくなった傷口がどくどくと血を吹き出すようで、頭もずきずきと痛んだ。

 けれど今こんな所で倒れ込んでいる時間はない。一刻も早く帝国軍の包囲を抜けなければ、先はないのだ。


「レイ!」

「い、いから……早く……」


 逃げよう、と言おうとして、今度はめきめきと生木を裂くような音が聞こえてきた。

 ぐっと奥歯を噛みしめて、草ごと土を握り込んで顔を上げる。そして硬直した。


「……しつ、こい、なぁ」


 次には苦く笑ってしまった。ところどころ明るい木漏れ日が降る深緑の森の中に、弓に矢をつがえた人間が何人も横並びに潜んでいるのだから。

 一瞬、こちらの岩壁も崩してしまおうかとも考えた。現に、対岸の地盤はいまだ少しずつ崩れ続けているのか、ズズッと鈍い地響きが時々上がっていた。神法での攻撃が一旦収まっているのもその論拠だ。

 ここで今一度神法で地を揺らせば、この縦坑が塞がるくらいの崩壊は起こせるだろう。だがそうすれば手負いのリォーもカーランシェも巻き込まれる可能性があるし、下に隠れたままのヴァルとハルウとセネは生き埋めになるかもしれない。

 それに、横穴に逃げ延びた善性種エピオテスがまだ隠れているかもしれない。


(それは、絶対に、いや……!)


 レイが見た善性種たちが、この隠れ里の何割に当たるかなど考えても分からないことだが、たった一人でも残っているかもしれないと考えれば、レイは出来ない。したくない。


「フェルゼリォン殿下。これ以上の抵抗は見苦しいですぞ」


 剣を構えた兵士で周囲を固めて、ネストルが声を張り上げる。手負いの第三皇子に対してかける科白としては、あまりに高圧的だ。


「自分は部下に守られて……見苦しいのはどっちよ」


 痛みを堪えて上半身を起こしながら、レイは人の盾の向こうに吐き捨てる。

 三人が三人とも膝を折る中では、その言葉に説得力はない。だがそれでも、いい加減我慢ならない怒りがふつふつと湧き上がってきていた。

 目的のためには、誰の犠牲も悲しみも歯牙にもかけない。否、見えてもいない。

 そしてそれは、レイに対しても同様であった。


「レイフィール王女殿下」


 ネストルが、憐れむように眉尻を下げる。


「あなたは、少々ご自分の価値を履き違えていらっしゃるようですな」

「……?」

「あなたには利用価値がある。だが、そんなものがなくとも、帝国われわれ小動こゆるぎもしないのですよ」

「…………ッ」


 その嘲笑は、悲しいことに正鵠を得ていた。

 今も昔も、レイに価値があったことなどない。

 王太女である姉は優秀で、可憐な妹は息をするように愛される。

 王族の居城であるイリニス宮殿に、第二王女の居場所はない。

 誰も戻ってくることを望んでいない。

 実の母である、女王エレミエルでさえも。


『あの子の目を見られないの。きっと、私を責めているのだわ。……私が、判断を誤ったから』


 いつも目を逸らす母。怒っているような、苦しんでいるような眉。何か言いたげな唇。

 レイはいつも見ていた。

 七歳になって、初めてイリニス宮殿で暮らして、祖母もヴァルもハルウもいない中で、たった一人、足下に底無しの穴が空いたような思いで。

 一年にも満たない時間だったけれど。

 ずっと見ていたから、知っている。


「……そんなこと」


 言われなくても、知っている。

 そう、口の中で力なく肯定するしかなかった時だ。

 ベキベキッと、樹木が倒れるような音が辺り一帯に響いたかと思うと、ドシンッと地が揺れた。見上げる視界に、ふっと影が落ちる。神法士がまた動き出したのかと、レイは視界の端で上空を睨む。


「な、なにあれ……?」


 緑の樹冠の更に上から、それは現れた。

 レイは最初、崖が動いたのかと思った。まるで雲が太陽を隠すように巨大なそれは、不気味に茶色く黒ずんでいた。あちこちに草や苔が生え、細いながら木まで生えている。

 だがよくよく目を凝らせば、その黒茶色は地表などではなく、蜥蜴のような鱗の連なりを持っていた。所々に見える植物は、その鱗の上に乗った土から生えているだけだ。否、正確にはその巨体の上に長い年月を経て積もった土が薄い地表を形成し、草木が育ったに過ぎないのだろう。


 一つを認識すれば、生物的特徴は次々に目に明らかになった。

 細長く前に突き出た顔、ヴァルくらいならすっぽり入りそうな鼻孔、額から突き出た捩じれた二本の角などは、地上で出会えば捻くれた灌木だとでも思ったかもしれない。

 そしてその面長な頭部から伸びる太い首や肩、盛り上がった胸板などは、もはやいわおのようだった。何より背中から伸びる蝙蝠のような両翼は、所々に穴が開いているものの、空の半分を覆う程に巨大であった。

 そんな中で、どんなにその巨体を保護色で自然の中に溶け込ませても、決して隠しきれない獰猛な色が一つ、レイたちを見下ろしていた。

 子供ならすっぽり入ってしまいそうな程大きな、深い琥珀色をした真円のまなこ。極限まで細められた縦長の瞳孔に、蟻のように小さな人間種ピリトスが映っている。

 その生物の名を問う者は、最早どこにもいなかった。


「まさか、本当に……」


 伝説の中にしかいないはずの魔獣、竜蜥蜴グアンロンが、そこにいた。


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