1 宇宙エレベータ
これは私が別の所に投稿していたものを、書き改めたものです。
「皆さま、長らくのご乗車ありがとうございました。本車両は間もなく宇宙ステーションに到着します。シートベルト解除のランプが消えましたら前方のドアから順序良くお降りください」待ち焦がれたサインが出て人々はドアを目指した。言葉としては歩くというより浮遊するほうが合っているのだが、すこしでも早く出口に行こうと心が急いている。
エレベータは最高時速10万キロもの猛スピードで上昇するのだが、それでも4時間近くも狭い空間で過ごさなければならかった。ずっと我慢して、ようやく解放された乗客たちは広いプラットフォームに出ると、誰もがまず思い切り伸びをする。そして軽くステップすると2,3mも舞い上がり、高く浮遊したところで宙返り、今度は平泳ぎの格好で空中を前に進もうとする。勿論進みはしないのだが、一度は映像で見た宇宙遊泳の真似をやりたいのだ。初めての無重力のおかしな体験が大人を子供時代に戻していた。
無重力宇宙を人々はそれぞれ違う楽しみをする。ここに無重力の異常さを実感している中年男のコンビがいる。
「随分、ゆっくりなトイレだったな」のっぽがトイレから出てきた太っちょに話しかける。
「いやあ、用を足して、最後のおしっこの雫が落ちないで、空中にふわふわと浮かんでいるんだ。それがトイレの壁に吸い寄せられて消えていくのがなんともおかしかったんだ。」
「汚いな。君の行ったトイレには入りたくないぞ。」
「そう言うなよ。黄色い水滴が宙にふわふわ浮いて、壁に吸い寄せられていくんだ。壁にくっつくと、小さく丸くなって消えてゆくんだ。壁が多孔質でできていて、壁の裏側から吸引していると思う。おしっこの雫が吸い寄せられるんだ。だから尿も臭いも、外に散らばらないようになっている。エレベータの使いにくいトイレと違って、実に良くできたシステムだよ。」
「まあ、ここのトイレの評価は後にして、展望台に行こうぜ。早く地球全体の丸い姿をこの目で見たいもんさ。こんな所にいるのは俺たちだけになってしまったぞ。」
「ああ、そうだな。だけど、どうして宇宙ステーションをこんな高い所に作ったんだ。地球一回りできてしまう距離だよ。おかげで長い間トイレを我慢しなきゃあならなかったぞ」
「ニュートンのリンゴのことは知ってるだろ。りんごも月も空にあって、リンゴは落ちてくるのに月は落ちてこない。それなら月に届くほどリンゴの木が高ければリンゴは落ちてこないとニュートンは考えた。ステーションだってずっと高い所に置けば落ちなくなる理屈だよ」
「それは分かるが、ここよりずっと下で回っている人工衛星だって落ちないじゃないか。低い所にある人工衛星をステーションにできなかったのか?」
「低い所だとずっと地球への引力が大きくて、それに釣り合うようにして、人工衛星を高速で回さないといけないんだ。そんな衛星からケーブルを下ろしたら、地表では時速何千キロもの速さになってしまう。とてもじゃないが近づけない。ここくらいの高さなら地球の自転と同じ速度で回っていても、釣り合っていられる。地上から見ればこの衛星は止まっているように見えるんだ。だからここからケーブルを下ろせば、地上の1点に下ろせるんだ。」
「そうか、やっぱり高い所でないとだめなのか。」そんな話をしていると二人は展望室に着く。
「うわー、やっぱり宇宙から見る地球はきれいだな。」
「ああ、やっぱり実物を見ないとこれは実感できない。」
二人は目の前に広がる光景にただただ感嘆するのだった。
そんな下品な中年コンビとは対照的に、ひと組の若いカップルがいる。
二人は手を取り合いながら一緒にステップしては宙に浮き、そこで微笑みをかわしてまた着地を繰り返していく。単純なことなのに二人ですると嬉しくて堪らない。
そしていつか一般者立ち入り禁止区域まで来て、門番のようにいかめしい守衛に睨みつけられたしまった。
「あのう私たちスチーブン博士に招かれてきました。」すこしおずおずしながら要件を伝えると、意外にも守衛は丁寧に応対してくれた。
奥まった面会室まで案内されると、そこにはスチーブン博士と小柄な東洋人女性が待っていた。
「やあロイとミリー、よく来てくれたね。まずは結婚おめでとうと言わしてもらおう。悪かったね、結婚式に出られなくて」
「いえ、ハネムーンで宇宙に来られるなんて思ってもみませんでしたよ。ここに来られただけでとても感謝します。ビルおじさんのおかげです。」
宇宙エレベータが出来て宇宙旅行は誰でも可能な時代になったが、誰もが宇宙にあこがれを持っている。エレベータ搭乗に希望者が殺到して、とても需要に応えきれない。くじで乗客を選別するしかなく、よほど運の良い者でないと、なかなか宇宙にはたどり着けなかったのだ。
特に宇宙ステーションのホテルの人気は高く予約は来年までほぼ一杯の状況が続いている。一般人はただステーション内を見学しただけで地球に帰るのが普通だった。スチーブンス博士の計らいでハネムーンでホテルに泊まれることができたのだからラッキーと言うのは本音だ。
「紹介しよう。ヨーコ、こちらは私の甥夫婦のロイとミリーだ。さっきも言った通り二人はハネムーン中でね。宇宙観光と私の月へのシャトル出発の見送りにも来てくれたんだ。そしてロイとミリー、こちらはキョウコ(サトウ)=ジョンソン。前の国連難民弁務官、そして今度初代の月面基地司令官に就任される。二人の門出を祝ってくれるために、来てくれたんだ」
「はじめまして、ミセス、ジョンソン。あなたに会えて大変光栄です」新婚の二人は思いもしない著名人に出会え恐縮しながら手を差し出した。これも伯父のサプライズ演出だと思いながら挨拶する。
「はじめまして、ロイとミリー。ご結婚おめでとうございます。明るい家庭を築いて下さいね」キョウコが本名だったが、いつからかヨーコと呼ばれるのが普通になっていた。150センチと小柄で二人の肩しかなかったが、全身から強いオーラを感じ取れた。ロイやミリーにとってもあこがれの人だ。
6年前彼女は国連難民弁務官として最後の紛争問題と呼ばれた西アフリカの紛争地域の調整に当たっていた。反政府軍殲滅を理由に難民キャンプ場に迫るギルブル政府軍に対し、攻撃を控えるように説得した。銃口を向けられても彼女は立ち向かい、彼女の気迫に最後は前線司令官が折れ、これを機に紛争問題は解決の糸口を見出すことができた。政府軍と反政府軍の話し合いが行われ、やがて停戦交渉が始まる。更に卓越した行政手腕で、難民達の自立プロジェクトを組織し、治安を回復させることに成功した。
いつしかマスコミは銃口にも怯まなかった彼女を『21世紀のジャンヌ=ダルク』、あるいは困窮者を救ったことから『聖母ヨーコ』と呼ぶようになる。その後、彼女は勇退し、家族とニューヨークで暮らしたいたのだが、これだけの人材を世間が放っては置いてくれなかった。
彼女は月面基地の初代司令官として、次のシャトルで赴くことになっている。
21世紀後半になって、スチールよりも軽くて強い、夢の素材カーボンナノチューブが開発され、地上から静止軌道までケーブルで繋がれたのだ。スチールなどでは距離の長い地上と静止衛星の間を結ぶと、材質自身の重さで切れてしまう。それが軽くて強いナノチューブによって、静止軌道から地球までを結ばれ、宇宙エレベータが実現することになった。ロケットに頼らなくてもエレベータで宇宙旅行が気軽に出来る。ロケットでは一人当たり1億もかかっていたのに、エレベータを使うと千分の一いやもっと安く宇宙に行ける。その結果宇宙開発は一気に進み、月面基地が本格化し、1万を超す技術者が居住するまでになった。
しかし基地に人が多くなると、それだけトラブルも増える。ただでさえ長期の生活はストレスを誘発しやすいのに、出身国、人種、宗教、風習の違いなどが対立を深めていく。そしてちょっとしたことで恋愛関係のもつれから、傷害事件まで起きてしまった。
国際問題になる前に月面基地に正式な行政トップを置き、トラブルを未然に処理してもらう機運が盛り上がった。初代の司令官は基地でのルールやモラルを確立できる人物が求められ、何より誰からも信頼される知名度と実績が絶対に必要だった。その適任者にキョウコの名前が真っ先にあがったのは自然の成り行きでもあった。
ウィリアム=スチーブンスは月面基地の設立提唱者であり、指導的立場としてヨーコに就任要請をする。
『私はこのまま家族と過ごして老後を迎えたいのです』と彼女は断った。
『このままでは各国の利害が対立し、月が利権争いの場になりかねません。』
『でも私でなくもっと有能で、若い人が適任でしょう』
『対立する双方から公平な調停だと納得させられる人は、あなた以外にありません。単なる有能だけでは基地司令官は務まらない。カリスマと名声を持ち、誰からも信頼を寄せられた人でないと務まらない』少々強引な博士の説得に彼女も承諾する。
4人はテーブルを囲み談笑している。各自の服と椅子は磁石により、無重力でも固定され、不自由さはない。
「ミリー、ここは気に入った?」とヨーコが新婦に声をかけた。
「ええ、とっても。この無重力の世界は不思議ですよね。体が浮き上がりこんなに軽く動けるなんて体験しないと判りませんね。何より窓から見える宇宙の景色、丸い地球には感動を覚えます」窓から見える丸い天体、暗い空に浮かぶ姿は宝石だった。
4人のいる部屋は一般人向けの展望室のように広くはないが、窓ガラスが半球状に大きくせり出して、少人数でくつろいだ雰囲気で星空を眺められるようになっていた。無重力で上下の感覚は難しいが、3万6千キロも離れた所に地球が浮かんでいる。(あんな美しい星を醜い争いで汚すなんて愚かなんでしょう)説明されなくても実感してしまうのが不思議だった。
エレベーターのケーブルは地球にまっすぐ伸びているはずだが、あまりに遠すぎて途中からは全く見えない。それどころか地球のエレベーター基地のある太平洋の島さえ、肉眼では見つけられない。(こんなに地球が小さく見えるなんて)ミリーはつくづくここに来てよかったと思った。
ヨーコの飾らない親しみやすい性格なのか4人の会話は弾み、予定していた時間はいつのまに過ぎていた。
「ロイ、このまま私たちと月に行きたいと思っているのではないのか?」
「ええ、勿論です。でも伯父さんたちが頑張って月を良くしていただかないと、僕らにはとても行けそうにありませんね」ロイは月開発が難問につき当たっているのを知っており、伯父の苦労を思いやった。
やがて楽しい会話も終わり、新婚カップルはステーションホテルの1室に去った。
「ビル、彼らも今度の仕事が厄介なことだと判っているようね」くつろいだ会話の後、任務を思い出したようにヨーコが口にして言う。
「あれは勘がいいからね。ヨーコの任務が大変なことを察したんだと思うよ」
翌朝120人乗りのシャトルに乗り込みながら博士とヨーコは見送りにきた多数の関係者に笑顔を返していた。今度、月に行く隊員の中には家族がステーションまで見送りに来ていた者もいる。大勢の見送り人の中には勿論、ロイとミリーもいる。
「あら、宇宙シャトルと言っても電車と同じだわ」ミリーが可笑しそうに言う。シャトルの大きさも地上の電車1両分の大きさだ。
「うん、真空を走るから空気抵抗を考える必要はないんだ。だから、より多くの人と貨物を乗せられるよう細長い箱になっている。僕らが乗ってきたエレベーターの車両が流線型だったのは、大気圏を通らなければいから先端をとがらせ空気抵抗をへらしていた。シャトルよりずっと細長くして大勢の乗客を乗せられるようにしたんだ。」ロイはこういうことに詳しい。
「ついでに言うと、シャトルには大型エンジンが積み込まれてないんだ。ここのカタパルトは超電導の電磁誘導でシャトルを高速で月に向かって発射できるんだ。だからシャトルには小型エンジンしか積まれてないんだ。」
「じゃあ、月から戻るときはどうするの」
「月にも同じようなカタパルトがあって、それを利用する」そんな話をしていると伯父とヨーコが見えた。
「おじさん、ヨーコ。お元気で」ロイとミリーは月基地の中心人物伯父とヨーコを誇らしげに見送った。
やがてシャトルは滑るようにほとんど音もたてず、しかし猛烈な勢いで飛び出した。延長2キロの超電導磁石式カタパルトで加速され、シャトルは一気に月に向かう。月への3日の行程が始まった。
翌日、楽しかった宇宙観光を終え、ハネムーンを地上のホテルでまどろんでいたロイとミリーの目に、テレビニュースのテロップが飛び込んだ。
『臨時ニュースです。地球ー月シャトル403号機がホノルル時間午前6時に消息を絶ちました。シャトルには乗員、乗客合わせ108名が乗り、2日前に宇宙ステーションを出発しましたが、1時間前に突然連絡が途絶えました。船は月面基地に補充する要員と、食料や機材を積載し順調に飛行をしておりました。NASAの報道官によると、シャトルと連絡を取ろうと懸命な努力をしているが今現在何の新しい情報は得られていな・・・』
「まあ」ミリーは夫に視線を移すが、ロイの顔もただ驚愕しか現れていない。
「まさか、そんな」
『ニュースを続けます。行方不明なりましたシャトルには月面基地の初代司令官に任命されたキョウコ=ジョンソン氏が乗っておりました。彼女は国連弁務官として・・・』
機械的な声でニュースが流れていた。




