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15/16

再会

壊した、壊した━━━壊し尽くした


殺した、殺した━━━殺し尽くした


魔人の軍勢を。


その牙も、その腕も、その瞳も。


復讐の名の下に、一つ残らず叩き潰した。


血で染まった大地に、憎しみを叩きつけられるように━━━


怒りが剣を震わせ、悲しみが魔法を呼び、絶望を命を焼いた。


マイスの死に目を背けないために。


ただただ、前へ。


息が切れても、心がすり減っても、ひたすら前へ━━━前へ


あの日から、一年。


希望なき戦いの果てに、ついに辿り着いた━━━






私たちは【封樹海】に足を踏み入れていた。


そして、その深奥、灰の空の下に聳え立つ、魔人の根城に私たちは侵入した。


冒険者アライアンスが【灰燼】ガブリエルを陽動している今のうちに王女の命令をこなす。


「━━━【トマレ】」


ミリーの紡いだ言葉が空気を震わせて響く。


「「「はい、喜んで!」」」


その声に魅入られた魔人たちは、一様に立ち尽くし、虚ろな瞳でミリーを見つめた。


まるで己が肉の檻を差し出すように。


「【五色魔弾】(ファイブ・バレット)」


彼女の掌から放たれた五属性の魔弾が、魔人の心臓を次々に正確に撃ち抜いていく。


魔法防御に長けた魔人といえども、こうして自ら身を曝け出したのなら、ただの処刑対象に過ぎない。


「……これで全部ね。ご苦労様、ミリー」


「いえ……」


私が魔法を使えば、【勇者】の痕跡として、ここに戻ってきたガブリエルに察知されるかもしれない。


それを避けるために、ミリーもトドメにはあえて”凡庸な魔法”を選ぶ。


私たちは、ただ殺す。それも、誰にも気付かれぬように。私たちが【勇者】たちだと、悟られぬように。


「見つけたぞ」


アレスティが声を潜めながら、無言で顎をしゃくる。


彼女の視線の先━━━それは、城の中でもひときわ厳重に守られた石の塔だった。


「━━━行きましょうか」


塔の内部は螺旋階段になっており、壁に灯る青白い蝋燭が、不気味な影を揺らめかせていた。空気は重く、底の見えない階層からは血と死の腐臭が漂ってくる。


アレスティを先頭に、私、ミリーの順で慎重に階段を下りていく。


「……本当に、ここに”あれ”がいるんですかね?」


「そのはずだ━━━あの女の言う通りならな」


アレスティがほんの僅かな殺意が入り混じった返答をした。


「信じられないですねぇ。仮にも四天王と並ぶと言われる実力者ですよ?」


【焔滅】━━━ここ半年で突如現れた謎の魔人。


使用する魔法から姿形まで誰も知られていない。


ただ、一つ確かなのは【焔滅】が現れた場所には生存者がいないということだけ。


私とマイスの故郷も、【星屑の集い】が命がけで救った村も。


【焔滅】が現れてから、レティシンティア王国は成す術もなく、国土の三分の一を失った。


にもかかわらず、王女は動かなかった。


予知したところに私たちを派遣すれば、【焔滅】を殺す機会は幾度もあったはずだ。


被害はもっと抑えられたはずだ。


……なんて考える事自体が無駄なことだ。


今の私たちは、あの女の駒となって、魔人を秘密裏に消す【不撓の明星】だ。


思考は不要。感情は害悪。ただの錆だ。


何より━━━


「どうでもいいわ。魔人を殺せれば、人間なんて……」


「━━━まぁそうですね」


ミリーが淡々と頷いた。


この一年、私たちは、ただひたすらに殺す術だけを磨いてきた。


感情を削ぎ、情を捨て、怒りさえ理性の下において。


復讐の刃として、徹底的に、冷酷に。


そして、気付けば誰かが死のうが生きようが、何も思わなくなっていた。故郷が燃えたと聞いても、胸のどこも傷まなかった。私たちの救った人々が滅んだという報せにも、心は一滴も波打たなかった。


魔人を殺している間だけは、私たちの心に巣食う後悔という毒がほんの少しだけ薄まる気がした。


かつての【勇者】たちも同じように腐っていたのだだろう。


「着いたな……」


そんなことを考えながら、私たちは塔の最下層に辿り着いた。そこには、異様なほどに巨大な鉄格子が、無言で私たちを待ち構えていた。


「【光球】(ライト)」


ミリーの掌から淡い光が生まれ、湿った空間に広がった。薄暗い地下牢の奥、光が届いたその先に鎖につながれた魔人が、頭垂れていた。


「これが、【焔滅】……?」


ほとんど裸同然の姿。衣服と呼べるものは、もはや陰部を隠すだけの布一切れ。


背は丸まり、両手両足が鎖の付いた枷に繋がれていた。皮膚には遠目から見ただけでも、無数の焼け爛れた痕が刻まれている。骨と皮だけの身体には、生気など微塵も感じられなかった。


四天王と同等の実力を持つというにはみすぼらし過ぎる。むしろ奴隷と言った方が近いかもしれない。


「な、何だお前らは!?」


不意に、檻の陰から声が飛んだ。生き残りの魔人が、こちらに気付いたらしい。私は無言で、自らの手の甲を見せた。


「【勇者解放】(デスペーロ)」


皮膚の下から青紫の紋様が浮かび上がり、冷たく輝く。


直後、私の瞳に映った魔人が一瞬で毒に蝕まれていく。


魔人は断末魔すら発することなく、ただ静かに、音も無く溶けていった。


肉が崩れ、骨が崩れ、床には何一つ残らない。


その場には、一冊の古びた日誌と錆びた鍵だけが転がっていた。


それをアレスティとミリーがそれぞれ回収した。


「これで全部ね……」


━━━【勇者解放】(デスペーロ)


私たちの身体能力、魔力量を大幅に増やし、固有魔法を桁違いに強化する究極の魔法。


ただ、一度の発動で、戦局そのものを覆す。いや、世界すら滅ぼしかねない━━━それほどの規模を持つ力だ。


だが、この力も無制限ではない。


この一年で分かったことだが、魔人以外にこの力は使えない。


この力は魔人特攻だ。魔人を殺すためだけに特化した力。いや、魔人を殺し尽くすまで止まらない力。


暴走と呼ぶには生温く、目的の消滅以外で鎮まることはない。


これだけの力を持つ【勇者】の伝承がなぜ残っていないのか。


「希望の偶像である【勇者】は神と同等の存在だから姿を現してはいけない」

「この巨大過ぎる力にただの人では巻き込まれて死んでしまうから伝承がない」


そうしたもっともらしい説は思い浮かんだが、どれも即座に否定した。


私たちの【勇者解放】(デスペーロ)の発動条件━━━愛する者を魔人に殺されること。


私たちは【勇者】なんて言われているが、ただの復讐者だ。


他の人間に復讐を渡したくないというエゴ。


そのために、他人に利用されるなどもっての外。


誰かに邪魔されるくらいなら一人で成し遂げる。


先代も、先々代も同じ気持ちだったのだろう。


あの王女がこの力のことを説明しなかった理由は今なら分かる。


いずれ、私たちが身を持って知る運命にあると最初から分かっていたのだ。


「……生き残りは、もういないわね」


ミリーと視線を交わすと、彼女もまた同じ結論に至っていた。罠を警戒しながら、ミリーがふと、牢の中に視線を向けた。


そして━━━


「……そこの貴方、起きてたら返事をしてください」


ミリーの声が響く。だが、返事はなかった。


「寝ているのかしら?」


ミリーの声は魔人であれば必中である。それを聞いて何も返事をしないということは本当に意識がないのだろう。


「仕方ないですねぇ、鍵を開けて……って、アレスティ先輩?どうかしました?」


「アレスティ……?」


日誌に目を通していたアレスティの顔から血の気が引いていた。


そのまま幽鬼のようにふらふらと私にぶつかるとそのまま日誌を押し付けて、檻を掴んで座り込んだ。


「読んで……くれ……」


私とミリーは顔を見合わせた。


さっきの魔人が落としたあの日誌を開く。


誤って裏表から開いたページから開いてしまった。


「……さっきの男は【焔滅】━━━【自爆人形】の看守だったようね」


人類が恐れ、破壊の象徴とされていた【焔滅】は牢に囚われ、飼われていたという事実は少しだけ興味が引いた。


私は裏表を直して、一から読み直す。


そこに記されていた名前を見て、目が開かれた━━━マイス=ウォント。


この男は、マイスの拷問官でもあったらしい。


「そうですか。こいつが……ッ」


「━━━もっと苦しませればよかったかしら……」


ミリーが前噛みし、さっきまで魔人がいた床を力任せに踏みつけた。


拷問。拷問。拷問━━━


くり返される絶望の日々。ページのすべてが、マイスの地獄だった。


それでも情報を漏らすまいと必死に戦っていたのが伝わって、拳に力が入った。


けれど、そんな我慢の日々も限界を迎えていた。


私たちが死んだということをマイスが知ってしまったらしい。


その日から、命乞いをするようになったようだ。


この拷問官からしたら、やっと玩具が完成したのだろう。


ここら辺から拷問官としての癖が出てきている。


「胸糞悪い……」


ページを捲る手のスピードが早くなる。


見たくないし、苦しんでいる姿が想像できて辛かった。


途端にページを捲る手が止まる。


『あのお方』━━━


そう記されていた存在が、マイスを連れ去った。


だが、それから数日後、マイスは元の場所に戻されたという。


けれど、そんなことよりも気になる記述があった。


「……不死(・・)?」


違和感が喉奥に引っかかる。


妙だ。可笑しい。普通ではありえない。


続きを読み進めると、そこに綴られていたのは”手加減をしなくなった”魔人たちの狂気だった。


不死となったマイスに対して、拷問官たちがあらゆる苦痛と実験を試し始めた。


「……そ、そんな……」


ミリーがよろめきながら、無意識に檻の方へと、視線を向けた。


私は、ページをめくる手を止まらなかった。止めらなかった。


そのとき、違和感が形になってくる。


この拷問日誌はマイスの観察日記でもある。


ならば、なぜマイスの記述と、あの禁忌の魔人━━━【焔滅】の記述が、同じ日誌に記されている?


一つの、最悪の仮説が脳裏に浮かぶ。


「まさか……」


足元がふらつく。視界が滲む。





「いつか二人で薬屋を経営しよう」


━━━私の夢ができたあの日。






よろよろと鉄格子へと向かう。


まるで夢遊病患者のように。


青白い光に照らされて、項垂れる影。


全身、傷を刻まれ、老人のように白くなった髪とやせ衰えたその姿。


見違えるほど変わり果てていた。


面影なんて少しもない。


だが、それでも。


私たちの眼は、真実を拒めなかった。





「さよなら、幸せにな」


━━━何もできずに連れてかれたあの日。








死んだと思っていた。


私たちを守って。命を燃やして。


それでも今、ここにいる。









【焔滅】の正体は━━━マイスだ。









「マイス!?」


理由なんて、どうだってよかった。


視界の先、鎖に繫がれたままうずくまるその男は、紛れもなくマイスだった。


「先輩!返事してください!」


「おい、マイス!起きろ……!返事をしろ!」


「どきなさいッ!」


叫びとともに、音も無くドロドロに檻が崩れ落ちる。


勇者(・・)の力が発動している私にとって、こんな檻など障害ですらなかった。


中へと足を踏み入れた瞬間、私たちの足が止まった。


眼に飛び込んできたのは背けたくなるほどの凄絶な姿だった。


マイスの身体は全身火傷のように爛れ、水膨れと痣が折り重なり、皮膚のどこにも正常な箇所がなかった、両手両足の指は何本も欠け━━━いや、この場合はむしろ四肢が残っていること自体が奇跡と思えるほどだ。


「サナリー先輩ッ!」


「……うるさいッ!集中、させて……ッ!」


私は膝をつき、マイスの胸に手を当てる。


鼓動を探す。体温を感じる。魂の痕跡を確かめる。


そして━━━


「生きてる……ッ、生きてるよぉ……ッ!」


嗚咽のような声と一緒に、涙が零れ落ちた。


「マイス……ッ!お前ってやつは……ッ!」


「まさか……本当に……」


アレスティも、ミリーもそれぞれ顔を覆い、嗚咽をこらえきれずにいた。


【焔滅】の正体がどうとか、そんなことはどうでも良かった。


ただ、マイスが生きていた。


その奇跡だけで、すべては報われたと思えた。


私は涙を拭いながら、微笑もうとした。


「ごめなさい。マイス。助けに来るのが遅れちゃって……信じてあげられなくて……







━━━え?」




マイスを見つけた瞬間から、ずっと胸の奥で何かが疼いていた。


喜びに混じって、混沌とした何かが胸の中で暴れているのを感じていた。


けれど、私はその感情に無意識に蓋をしていた。


そんな感情はあり得ないと。


だが、その”感情”が私の身体を無意識に動かしていた。


視線を下ろす。


そこにあったのは私の手。



私の右手がマイスの(・・・・・・・・・)心臓を貫いていた(・・・・・・・・)







「サナリー……先輩……?」


「お前……何を……ッ!?」


心臓からどろりとした血が噴き出す。


私の腕を、掌を、温かく、粘ついた液体が濡らしていく。


自分の意志に反して、私の手はマイスの心臓を握り潰そうとした。


「やだ……嘘……何をッ……?」


言葉にならない声を漏らしながら、視線を落とす。


貫いていない方の逆の左手の甲の紋様━━━【勇者解放】が灼けるように青紫に輝いていた。


━━━殺せ。


そう言っているようだった。


「何これ……ナニコレ……ッ?先輩なのに……!何で……ッ!」


「ぐう、うううう!?」


隣では、ミリーが自分の腕を抑えてうずくまっていた。


アレスティも、奥歯を食いしばりながら、震える手を抑えていた。


彼女たちの腕にも同じく紋様が浮かび上がっていた。


「何で、何でマイスを魔人(・・)だと……ッ!」


抗えない。


理性が、記憶が、すべて”殺意”に塗りつぶされていく。


”マイスを殺せ”という衝動が、全身を支配していく。


私の中で何かが壊れていく。


涙が止まらないのに、殺意が止まらない。


ミリーもアレスティも、殺意に操られた人形のように一歩一歩、近付いてくる。


まるで魂を失ったかのように。


まるで自分が自分ではないかのように。


そして、ミリーの手が、マイスの枷を繋ぐ鎖に触れた。


光が。


空間が。


時間さえも。


すべてが止まった。





次の瞬間━━━世界が爆ぜた。







地鳴りのような爆音が塔の奥底から空間ごと震わせた。


白く焼き尽くす閃光と灼熱━━━それらが一瞬にして、私たちの視界と鼓膜、皮膚の感覚を奪った。


塔は内部から吹き飛び、石の壁がひしゃげて、生き埋めになりかけた。


【勇者解放】(デスペーロ)による魔力の防御がなければ、間違いなく私たちは死んでいた。


「……ケホ……ゴホッ……」


「ッく……あ……」


「う……痛……ッ……」


瓦礫と煤に埋もれながら、私たちは呻いた。


焼け爛れるような痛みが、全身を苛む。


皮膚の感覚が薄れ、焼けた顔に張り付き、煙が肺を刺した。


不幸中の幸いが、痛みによって【勇者解放】による殺意が薄れていった。


理性が、じわりじわりと取り戻されて行く。


地獄のような熱と、命を削る破壊の嵐の中で、私たちはようやく人の形を思い出していた。


「マイス……は……」


顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは━━━私の腕に貫かれたマイスの胸だった。


その奥から、赤黒い血と焦げた肉の匂いが立ち上っている。


それでも、マイスは叫ばなかった。


苦悶の呻きも、断末魔の叫びも、何一つ。


ただ、黙って燃えていた。


ただ、静かに━━━静かに、自らの肉を焦がしながら、私の腕を受け入れていた。


「酷、い……」


【自爆人形】━━━マイスのことを魔人共はそう呼ぶらしい。


滑稽で、皮肉で━━━なんて的を射た名前だ。


自爆は国や家族のために命をかけて敵を巻き込む命を賭した最期の技。


自分のすべてを犠牲に発動させるもの。


では、不死身ならどうだ?


何度も何度も、自爆を使えたらどうだ?


けれど、その痛みは誰が引き受ける?


そんな生き地獄を誰が引き受ける?


その問いに答えるように、私の手の中で、その心臓はまだ、微かに動いていた。


━━━瞬間


マイスを縛る枷が再び黒く発光する。


「くっ、その、枷か……ッ!」


アレスティが咆哮と共に、デヴォラーを引き抜いた。


地を這うような気迫で踏み込み、一気にその鎖を砕き割る。


金属の音が短く響き、鎖が破片となって、砕け散った。


両手。両足。


枷の黒い光は霧散し、マイスが自爆しそうな気配はなかった。


枷から解放されたマイスの身体が力を失って崩れ落ちて私へと崩れかかってきた。


すると、より深く、私の腕が彼の胸へと沈んでいく。


肉の奥から、ぐちゅぐちゅ、と。


内蔵が押しつぶされるような音が響いた。


次いで、口と胸の傷口から大量の血が溢れだし、私の身体を濡らした。


それでもマイスの身体は抵抗しなかった。


自らの重みを私に預けてきた。


「早く……」


茫然としながら、手を引き抜こうとしたその時だった。


微かに微かに━━━本当に微かに。


耳元に、呼気が触れた。


弱々しい、息遣い。


風穴が開いたような音とともに、マイスの喉から漏れる微かな音。


コヒューと肺に空いた傷か、焼けた気道のせいか。


それでも、確かにマイスは何かを伝えようとしていた。






「ころ……ち…へ…くれ……へ、あり……がと……う」






音にならない、ひび割れた呼吸のような声。それでも、私たちの耳には確かに届いた。


「殺してくれてありがとう」と。


どれほど、壊されれば、こんな声になるのだろう。


あの日誌に書かれていた拷問を、延々と繰り返されて。


心を壊され、肉を裂かれ、魂ごと擦り潰されながら。


それでも、生きていて、今、この地獄の中で、感謝を伝えている。


「マイス……ッ」


けれど、私は……彼の心臓を貫いたままだった。


力を込めていないのに、手は動かない。


【勇者解放】(デスペーロ)が終わりを与えることを望んでいるようだった。


それでも━━━私は、震える指先に、理性をかき集めて、動かした。


マイスの身体の中に残っている右手が心臓を撫でる。


微かな鼓動。


ただの肉塊とは思えない、不思議な意志すら感じる鼓動。


『あんしんして たすける』


何度も何度も、震える指で心臓を撫でる。


止まらないで、と祈るように━━━


心を引き裂かれそうになりながら、それでも。


すると、マイスの腕が微かに、ゆっくり、まるで夢遊病患者のように、私の背へと回された。


焼け爛れた指先が、ぎこちなく、私の背に回される。


焼け焦げた皮膚が、私の背中に触れるたび、ひりつくような痛みが全身に走った。


そして、マイスの指先が、私の背で文字をなぞった。


『だれ?』


掠れ切った喉からは、コヒューと空気の音が漏れるだけで言葉にならない。


喉が潰れているのだろう。


体温も、力も、まるで命の最後のひとかけらを削っているかのような━━━そんな触れ方だった。


サナリーと言ってしまいたかった。


ミリーだと言いたかっただろう。


アレスティとも。


けれど、私は━━━


『ゆうしゃ』


四文字を、彼の中に刻んだ。


誰も救えないと知りながら、それでも祈り続ける者。


ただ、それだけの存在として。


「『いきて』」


声が震える。


指が震える。


想いが震える。


心臓に指で、何度も━━━何度も。


願いのすべてをそこに込めて。


今にも潰えそうな命を抱きしめるように。


けれど、その返事はあまりにも残酷だった。


『しなせて』


「うっ……う」


何かに心臓を刺し貫かれたような痛みが、胸の奥を襲った。


死が彼にとっての救いだというのなら。


生きていることが罰だというのなら。


どうすればマイスを救えるのだろう。


「先輩ッ……!」


「マイス……ッ!」


すると、ミリーとアレスティが私たちを覆うように抱き着いてきた。


崩れ落ちるように、泣きながら、叫びながら。


「【イキテ】、【イキテ】、【イキテ】、生きてよッ!お願いだから……ッ!」


「生きてくれ……マイス……頼むッ……!」


私たちはただこの世に縋りつくように、マイスに”生きろ”と繰り返した。


もう、二度と置いていかないと誓うように。


必死に祈りのような言葉をマイスの胸に刻み続けた。


『いきて いきて ━━━ いきて』


何度も。何度も。


息が詰まるほど切実に。


ただ、それだけを願って。


しかし、その祈りを押しつぶすように、痛みによって消えていた【勇者解放】(デスペーロ)が再び脳を支配する。


殺意が限界を迎える。


そして、





━━━掌が、マイスの心臓を握りつぶした。





血が、熱が、命が━━━私の手の中で音を立てて破裂した。


次の瞬間、マイスの身体は解放されたかのように、私の腕の中で力を失い、仰向けに倒れた。



「はぁ、はぁ、はぁ」


「ふぅ、ふぅ」


「ぐっ……」


私たちは荒い呼吸の中、地に膝をついた。


倒れたマイスを見て、【勇者解放】(デスペーロ)の光はゆっくりと空気の中に消えていった。


すると、崩れ落ちた塔の天井の隙間から、陽光が差し込んだ。


そこに照らされたのは━━━マイスの全身だった。


暗闇ではよく見えなかった無数の傷━━━それが、彼の苦しみのすべてを語っていた。


焼け爛れ、無数の傷に覆われた肉体。


その中にかつての彼の”微笑み”のようなものが、かすかに宿っていた。


だが、それでも━━━それでも、呪いがマイスを生かす。


「━━━先輩、生きてましたね~」


ミリーが掠れる声で呟く。


安堵とも絶望ともつかぬ、壊れかけた祈りの残骸だった。


「生きてた……生きてましたよッ……だけどさぁッ!」


そこから一拍、声にならない沈黙があった。


「……だけどッ、こんなんじゃ……なんにも喜べないじゃないですかぁ……ッ!」


地に崩れ落ち、声を上げて泣いた。


「━━━」


あの女の予知を超えて、マイスは生きていた。


”死んだ方がマシ”と願うほどの絶望を抱えながら。


それでも━━━


「それでも、私たちは……喜ばなきゃいけないわ……ッ」


私は、自分に言い聞かせるように二人に告げる。


「この傷は、私が……絶対に治す……からッ!」


悲しみも、怒りも、悔しさも、そして━━━どうしようもない愛しさも。


すべてが一つになって、感情は混ざり合ってとっくに原型を失っていた。


今、私はどんな表情をしているのだろう。


醜いのかもしれない。


みっともないのかもしれない。


「だから……」


でも。


それでも。


たとえ、私が【死】を与える勇者であったとしても。








━━━信じて(・・・)

『重要なお願い』

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