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第1話

「スマホ修理のビッグアップル新宿店」は、築50年の雑居ビル、新宿ラッキービルディングの4階にある。リンゴを擬人化したキャラクターの看板が目印で、呑気なビル名にふさわしい、普段は静かな俺の職場だ。だが俺はここで今、文字通り追い詰められている。

「そのスマホをよこせ」

 いかついスーツの男が、接客カウンター越しに太い腕をねじ込んでくる。男の怒声に返事をする代わりに、俺は店の奥へと逃げた。わずか7坪の狭い店内は、あっという間にベランダに突き当たる。普段は締め切っているカーテンを真横に開いた。初夏の宵の口で、まだ外は薄明るい。俺は迷うことなく、ベランダに躍り出る。男も負けじと追いかけてくる。

 こんなことになっているのは、俺が右手に握っている、見知らぬ他人のiPhoneのせいだ。状況はかなり悪い。だがこれを男に渡すわけにはいかなかった。

 俺はエアコンの室外機に上った。さらに、ベランダのふちに足を掛ける。

「てめえ、何するつもりだ!」

 何するも何も、ここまできたら、やることはひとつしかない。幸か不幸か、隣のビルは3階建てで、ビルとビルの間は1mくらい。中高とサッカー部だったから、脚力にはそれなりに自信がある。それでも、下を見るとクラッとした。野良猫の通り道に挟まって死ぬのは、いくらなんでも割に合わない。

 みらいの馬鹿野郎め。

 俺は声に出さずに、元凶となった人物に悪態をついた。「私は東京の女の子になりたい」という言葉を残して、俺の前から消えた、みらい。

 覚悟を決め、iPhoneをデニムの尻ポケットにねじこんだ。

 そういえばみらいは陸上部だった。あいつならこの虚空もきれいに跳ぶだろうな――。思いっきりジャンプしながら、俺はそんなことを考えていた。



 話は30分ほど前にさかのぼる。

 いつものように早めの夕飯を食べ終わった俺は、Air Podsで音楽を聴きながら、店へと戻るところだった。火曜と金曜の夕飯は、近所の喫茶店のチキンカレー定食と決めている。ここの定食は、サラダとみそ汁がついていて、さらにカレーに揚げ玉を無料トッピングできる。初めて食べたときは、カレーに揚げ玉?と驚いたが、これが意外とクセになる。毎回オーダーしていたら、黙っていてもトッピングしてもらえるようになった。

 靖国通りを内側に入り、路地を抜けると、「スマホ修理のビッグアップル新宿店 この先20m」という看板が見える。このあたりは新宿といっても東の端の端、市ヶ谷か四谷と言ったほうがまだ正確で、どの駅からも距離が離れている。昔ながらのこじんまりとした個人ビルや住宅が多く、新宿という繁華街のイメージからは程遠い。地元から東京に出てきた翌日、求人広告の「新宿」という文字を見て面接に来た俺は、降車した新宿駅から30分近く歩かされることになった。

 こんな辺鄙な場所に店を構えたのは、オーナーが物件探しをしているときに、「新宿ラッキービルディング」というビル名をいたく気に入ったからだそうだ。オーナーは俺の履歴書にざっと目を通すと、職歴などの質問もそこそこに、不動産にまつわる持論を語り出した。

「駅から近いのにテナントがすぐ潰れる場所もあれば、多少不便でも長続きする場所もある。不思議だと思わない? 俺はさ、ビルの名前って案外関係あると思うのよ。うちに来るお客さんは、必要に迫られて、住所を見て来るわけじゃん。今どきはなんでもネットで調べるから、余計にだよ。ちなみにこのビル、なんでラッキーって名前だと思う? 大家が荒木さんだから。不動産屋から聞いたとき、俺は秒で決めたね、ここにすると。商売っていうのは、そういうことにこだわるのが大事なんだよ」

 そうですか、と答えた俺に、オーナーは「君、返事が短くていいね。採用!」と告げた。こうして俺はかれこれ1年ほど、スマートフォンの修理をして生計を立てている。


 ビルの1階は介護事業者の事務所、2階と3階はそれぞれ違う足裏マッサージの店、そして4階に俺の職場がある。

 ロビーに据え付けられた郵便受けに、デリバリーや不用品回収のチラシが大量に入っていた。抜き出して共用のゴミ箱に捨てていると、ふと視線を感じる。落としたチラシを拾うふりをして視線の方向に目をやると、少し離れた自動販売機の陰に、スーツ姿の大柄な男が立っているのが見えた。足元に大量の煙草の吸殻が落ちている。小学生も通る道なのになと思いながら、関わり合いにならないように背を向けて、俺はビルの階段をゆっくりとのぼった。

 4階にたどりつき、店のドアのプレートを「外出中 すぐ戻ります」から「OPEN」に架け替えた。店員は俺ひとりなのだが、昼飯時と夕飯時は1時間ずつ出かけていいことになっている。ついでに、黒のキャップにピアス、チャムスのパーカーと古着のデニム、アディダスのスーパースターという普段着のままで接客することが許される、服装規定のゆるさもこの店の悪くないところだ。

 店は、入口の目の前に受付カウンターがあり、売り物のスマホケースやイヤホンなどのアクセサリー類が並べてある。カウンター横にはカーテンがかかっていて、奥に作業場と事務所という間取りになっている。俺はカウンターに入り、自分のiPhoneを充電器に差した。BluetoothをつないでSpotifyのウィークリーヒットプレイリストを流し始める。21時までの夜シフトのスタートだ。


 うちは小さな店だが、持ち込まれる依頼は多岐にわたる。一番多いのは割れたフロントパネルの交換。これは早ければ15分程度、機種にもよるが5500円から受けている。バッテリー交換、カメラ修理、水没修理、ホームボタン修理……スマートフォンにまつわるあらゆる修理を引き受けている。

 ついでに、表には出してないが、ジェイルブレイク――いわゆる、公式が推奨していない改造もやっている。常連客からの紹介でのみひっそりと受け付けているが、どこの世界にも素人のマニアというのはいるもので、独自のコミュニティや人脈をたどってコンスタントにやってくる。辺鄙な場所に店を構えていても、こういう商売が成り立つということ。新宿区という住所そのものより、その事実に、俺は東京で働いている実感を抱いたりする。

 鍵のかかった引き出しから、客のiPhone13を取り出した。午前中に預かった物だ。水没したiPhoneを、データを消さずに復旧させてほしいという依頼だった。アップルストアに頼むと時間がかかるうえに初期化されてデータが飛ぶので、それを厭う客は、うちのような修理屋に持ってくる。

「絶対にデータは消さないでください」

 駆け込んできたのは、小綺麗な見た目の女性だった。若そうだが髪の毛や肌の手入れが行き届いていた。彼女は何度も念押しし、今日の20時に取りに来ると言って帰って行った。

 約束の時間まで、あと1時間半。すでに修理は終わっているので、ケースを付け直し、電源を入れて動作を再確認する。動作確認のために、客には申込用紙にパスコードを記入してもらっている。

 何かのキャラクターを待ち受けにしたホーム画面が現れると、わずか半日の間に溜まっていたLINEやSNSの通知が大量に押し寄せた。通知バッジの数字が、あっという間に3桁に増えていくのを眺めながら、画面を磨くためにクリーナーを手に取ったときだった。

 LINE通話が着信し、俺の指先が止まった。


 着信欄の「みらい」という名前。そして見覚えのある整った顔。

 おそらく、いや間違いなく、それは俺がかつて知っていた人だった。「私は東京の女の子になりたい」という言葉を残して、ある日姿を消したのがみらいだった。


 電話は鳴り続けている。だが、あと数秒もしたら不在着信に切り替わるだろう。俺は呆然と画面を見つめている。アプリ加工された写真のみらいが、こちらに向かって微笑んでいる。

 店側が客のプライバシー情報を見ることは、越権行為だ。電話に出るなんてありえない。場末の店で働いていても、そのくらいの矜持は持ち合わせている。だが今、俺は正常な判断ができなくなっているらしい。

 この着信が絶えたら、みらいには二度と繋がれないかもしれない。気づくと、俺は通話ボタンを押していた。

「もしもし?」

 記憶の中の声より少し高く聞こえたが、まぎれもなく、俺の知っているみらいの声だった。

「何度も連絡してごめん。こないだの件、香苗さんから聞いたよ。あんた何やってんの。香苗さんも怒ってるよ。てか、それ以上に心配してる」

 あれ、電波悪い? 聞こえてる? と声が続いたが、俺は一言も発せずにいた。

「とにかく、あの動画を売るとか取引に使うとかは、絶対やめといたほうがいい」

 思いがけない言葉が飛び込んできた。

「悪いこと言わないから、今すぐ荷物まとめて、しばらく実家に帰りな。東京でうろうろしてたら、下手したら、殺されるよ」

 もしもーし、聞こえてる? これから仕事だから、じゃあね! 話していた内容とは裏腹に明るい声で挨拶すると、みらいは電話を切った。


 ホーム画面を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。

 チリン、とドアが開く音がした。ハッとして立ち上がる。手元のiPhoneをロック画面に戻し、慌ててカウンターに顔を出した。

「いらっしゃいませ」

 だがそこにいたのは、先ほどビルの入り口で見かけたスーツ姿の男だった。

「修理ですか?」

「預けたiPhoneを引き取りたい」

 男は、俺が今持っているiPhoneを預けた女性客の名前を口にした。

「引換証はお持ちでしょうか?」

「ない」

 男は慇懃に言った。

「ご本人様ではないですよね」

「代理で来てるんだ、早くしてくれ」

「すみませんが、引換証がないと、お渡しできません」

「代理だと言っているだろう。本人に頼まれたんだ」

 男はイライラし始めていた。俺は男の格好を見る。恰幅のいい身体に、剃り忘れたような髭、長め丈のジャケット、分厚いシルバーの腕時計。鞄は持っていない。スーツ姿ではあるが、普通の勤め人ではなさそうだ。

「何かご確認できるものは……」

「何度も言わせるな。ないと言ってるだろう。お前が戻ってくるまで、ずいぶん待ったんだ。早くしろ」

 男はめざとく、俺が握っているiPhoneを見つけた。

「その黄色のケース、あの女のiPhoneだな」

 これを渡してはいけない。直感でそう思った。警察に電話するか? みらいの言葉を思い出し、躊躇する。何故男がこのiPhoneを奪いに来たのか、持ち主が何をやってるのか、みらいがどう関わっているのか知らないが、ロクでもない案件であることだけは確かだ。

 そもそもこの店自体、割とグレーゾーンの上に成り立っている。向こうだって、それをわかって強硬な手段に出ているのだろう。やはり警察のお世話にはなれない。


 以上が、俺がビルとビルの間を“翔んだ”理由だった。

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