第38話 答え
スタジアムの座席は通路を挟んで、前方と後方で分かれている。
前方を選ぶ訳は臨場感重視、後方を選ぶ訳は安全重視といったところか。
鈴羽に尋ねたところ、迷いなく「前方」という答えが返ってきたため、俺達は安全より臨場感を求める事となった。
まぁ、折角来たのだから、その方がショーを満喫出来るしいいか。
前方の中央、縦に五つ並んだ長いベンチの五列目に俺達は並んで腰を下ろす。
五列目を選んだのは、俺のせめてもの抵抗だ。意味があるかは分からないが、最前列に座るよりはマシだろう。
「楽しみですね」
「あぁ」
鈴羽の言葉に返事をしながら、何気なく辺りを見渡す。
前方の席にはやはり子連れが多いようだ。子供は純粋で無邪気なので、水に掛かる心配なんてせずにむしろ積極的に水に掛かりたい子が多いのだろう。その後苦労をするのは、保護者なのだが。
それより意外だったのが、前方の席にカップルが多い事だ。デートなら彼女はおめかしして来ているので濡れたくないのかと思ったが、実際はそうでもないらしい。濡れるのも含めて水族館デートと割り切っているのかもしれない。
おめかしと言えば、こいつのこの格好もおめかしなのだろうか。
それとも、罰ゲームの延長戦上?
いや、そもそも休日にこの格好をしている時点で、罰ゲームという話も眉唾ものだ。鈴羽は俺に嘘を吐いたのだろうか。でも、なぜ? なんのために? うーん……。
「どうかしました?」
「なぁ、その格好――」
考えても分からないなら、本人に聞いた方が早い。なら――
「濡れても大丈夫なのか?」
自分でもよく分からないが、口から出る寸前で質問の内容を俺は変えた。
説明の出来ない直感めいたものが、その質問は間違いだと俺に告げてきたのだ。
「一応、タオルは持ってきたので」
そう言うと、鈴羽は足の上に置いたトートバッグを軽く叩く。
なるほど。準備は万端という事か。
会場に音楽が流れる。
いよいよショーが始まるようだ。
プール中央で一頭のイルカがジャンプをし、会場がざわめく。
その後、別の二頭がプールの端をぐるりと一周する。そしてステージに到達すると、先程の一頭と合流し、そこに三頭揃って体を乗っける。
その姿がステージ上部の大型モニターに映されると、会場はイルカの可愛さに再び違う意味でざわめいた。
「見てください、せんぱい。イルカ、イルカが乗ってますよ」
「おぅ。そうだな……」
確かに可愛いが、興奮し過ぎた。後、地味に叩かれている手が痛い。
そこからはイルカの独壇場だった。
飛べば歓声と拍手。回れば歓声と拍手。飛んで回れば大喝采。
案の定、前方の席には水がそれなりに飛んできたが、俺達の場所ではそれも飛沫程度で、濡れ具合もやや濡れといったところだった。
最後は、飼育員の合図で顔や尾びれを高々と掲げ、ショーは大盛況の内に幕を閉じた。
「そんなに濡れなくて良かったな」
「今度来る時は、もっと濡れてもいい格好で来ますね」
そう言うと鈴羽は、バックから取り出したタオルの一つを俺に向けて差し出してきた。
「はい。せんぱい」
「あぁ。ありがとう」
受け取ったタオルで髪や体を拭く。
隣では鈴羽が、もう一つのタオルで同じ事をしていた。
横目でそれをなんともなしに見る。
セミロングとまでは行かないが、鈴羽も入学当初に比べると少し髪が伸びてきた。その髪先をタオルで押さえながら拭く姿からは、どことなく色気のようなものを感じない事もないわけでもない。
色気? 何を言っているんだ、俺は。相手はあの鈴羽だぞ。小動物みたいと女子から可愛がられるあの。そんなものあるわけが……。
頭に浮かんだ有り得ない思考を打ち消すように、俺はタオルで髪を少し激し目に拭く。
「そんなに濡れてたんですか?」
俺の突然の奇行に、鈴羽が僅かに驚いたような声を上げる。
「まぁな。……これ、どうしよう?」
「一緒に貰っちゃいます。せんぱい、鞄ないし」
「悪い」
「いえいえ、なんのこれしき」
少しふざけながら、鈴羽が俺からタオルを受け取る。
「行こうか」
バッグにタオルをしまったのを見届けてから、俺は鈴羽にそう声を掛ける。
「はい」
俺達は立ち上がり、スタジアムを後にする。
「次どこ行きます?」
「そうだな――」
十七時過ぎ。俺達は水族館を出て、駅へと向かう。
結局、当初の予定通り、水族館に俺達が滞在したのは三時間程で、その時間内におおよそ全ての展示を見る事が出来た。
「楽しかったです」
俺の買ってやったペンギンのぬいぐるみを大事そうに抱きながら、鈴羽が本当に楽しそうにそんな事を言う。
「そうか」
口にはしないが、俺も今日の水族館はとても楽しかった。
久しぶりに来た水族館の展示物はどれも新鮮で、童心を思い出させてくれた。
ことりと来た時はあんなにぎくしゃくして楽しめなかったのに、今日はその時の事が嘘のように心から楽しめた。
まぁ、あの時はことりとの関係が壊れ始めていたから、そのせいもあったかもしれないが。しかし、それを差し引いても、今日は鈴羽に釣られてはしゃぎ過ぎた。
遊園地で一度本格的なデートスポットを経験したというのも、今日の俺の振る舞いと無関係ではないだろう。とはいえ、それだけではなさそうだ。やはり、今日俺がはしゃぎ過ぎた理由、それは、一緒にいる相手が鈴羽だから、なのか? ことりでなく、千里でなく、天ちゃんでもなく、相手が鈴羽だから、俺は……。
「せんぱい、ちょっといいですか?」
真剣な鈴羽の声、表情、仕草。俺はこの感じを知っている。他でもない俺自身が最近体験した、あの状況に似ていた。
「あぁ」
だから、俺は何も聞かず鈴羽に言われるがまま、その背中を追いかけた。
駅に向かう順路から外れ、人気のない、中央に街路樹の植えられた歩道を進む。
無言で歩く事およそ三十秒、ふいに鈴羽が足を止め、振り返る。
その顔は真剣で、鈴羽には少し似合わないなと、そういう場合ではないと分かっていながら、思わず口元が綻ぶ。
「え? なんで笑ったんですか」
「いや、なんでもない。で、何?」
突然こんな所に連れ出しておいて、何もありませんと言われた日には、さすがに日頃の温厚な俺でも怒る。
「あー。その……」
言いだしづらそうに、言い淀む鈴羽。
「……」
俺は彼女の言葉を、急かす事なく、ただただひたすらに口を開く事なく待つ。
「すぅー……はー……」
自分を落ち着かせるように、鈴羽が息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
「好きです、せんぱい。初めて会ったあの時から」
深呼吸の後、鈴羽が発した言葉、それはまさに愛の告白だった。
「……」
鈴羽のその言葉は、やけにすんなり、俺の中にまるで染み込むように入ってきた。不思議とそこに、天ちゃんの時のような驚きや戸惑いはなかった。ただそこにあったのは、迷いと恐怖。だけど、それは鈴羽の告白に対してではなく……。
「俺のどこが好きなんだ?」
次に発すべき言葉が見つからず、俺は苦し紛れにそんな質問を口にする。
「え? それは一緒にいて楽しいとことか、意地悪だけど優しいとことか、実は気遣い屋のとことか――」
「いや、いい。ごめん」
止めどなく出てくる理由の数々に、俺は苦笑を浮かべ、慌ててそれを止める。
ただの時間稼ぎのつもりが、とんだ辱めを受ける結果になってしまった。
まぁ、それもこれも俺のせい、完全な自業自得なのだが。
「もちろん、見た目も好きです」
「もういいって言ったろ」
止めたにも関わらず発せられた鈴羽のその追い打ちの言葉に、俺の体温が一気に上がる。
おそらく今、俺の顔は見るからに赤くなっている事だろう。
「すぅー……はー……」
今度は俺が深呼吸をし、息と共に心を整える。
「正直、少し前までお前の事は、ただの後輩としか思ってなかった」
「でしょうね」
俺の言葉に、鈴羽が苦笑を浮かべる。
「でも、遊園地に一緒に行って、大学でも一緒に過ごして、少しずつ、あぁ、こいつもやっぱ女の子なんだなって」
「元から女の子ですよ、私は」
「そうだよな。そう、だったんだよな」
そんな当たり前の事に俺は、最近になってやっと気付いた。
最後の一押しは、やはり格好の変化だろう。いつもと違う服装をする鈴羽に戸惑い、異性として意識もした。
「今日なんて特に、前回の遊園地の時以上に、なんか、デートしてるって感じがして、本当に楽しかった」
「せんぱい……」
「だから――」
意を決して俺は、勿体つけるように引き延ばした、鈴羽の告白への答えをようやく告げる。




