第21話 天使の放課後
自分の名前が初めは嫌いだった。
当然といえば当然だろう。
天使天。
上から呼んでも天使天。天使で天という組み合わせだけでも。子供にとって格好のからかいの的なのに、更にそんなオマケが付いていれば、子供にからかうなという方が無茶であり無謀だろう。
しかしいつからかその声は次第と周りからなくなり、私の名前はむしろ私という存在の象徴のようになった。
曰く、地上に舞い降りた天使。それが私の恥ずかしいあだ名だ。
「――天」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
私の目の前に見慣れた、いつもの顔があった。
「何?」
ぼっとしていた事を誤魔化すように、私はそう何食わぬ顔で華に尋ねる。
素朴な顔付きの少女だった。決して目立つ容姿はしていないが、一つ一つのパーツは整っており、桜の花のように可愛らしい。髪はセミロング。身長は小柄で、百六十以上ある私と並ぶとその小ささはより際立つ。
今は下校中。一緒に住宅街を歩いている最中だった。
「大丈夫? 今日なんか、疲れてるみたいだったけど」
「え? あー、うん。昨日ちょっとね」
まさか香野先輩からの言葉攻めを思い出して、ベッドの上で軽く悶えていたとはいえず、曖昧な言葉を私は華に返す。
「バイト、まだ続けてるんでしょ? 大丈夫なの?」
私のその煮え切れない言葉を別の意味と勘違いしたのか、華が心配そうに私の顔を覗き込みながらそんな事を聞いてくる。
「大丈夫。大丈夫だって。続けてるって言っても週に三日だけだし、平日は短時間だから」
私のバイトのシフトは現在、月曜と木曜と日曜の三日のみにしてもらっている。更に平日は十九時から二十二時までの三時間で、それ自体にそこまでの負担はない。
「今年は受験生だし、もうバイト辞めればいいのに」
「うーん。夏休みからは補習も本格的に始まるし、そこまでは頑張ろうかなって」
「天って意外と責任感強いよね」
「ははは」
私がバイトを続ける理由は当然、華の言うような責任感からではない。
ただ単純にバイトを辞めてしまうと、香野先輩との接点がほぼほぼなくなってしまうからだ。
もちろん、連絡先は知っているので、連絡を取る事自体は可能だが、そのきっかけを見つけるのは今よりもっと遥かに難しくなるだろう。
受験生である私が使える手札は精々勉強と息抜きくらいで、それも何度も連発は出来ない。
それに、あくまでも勘だが、そろそろなんらかのアクションを起こさないと、非常に不味い事になるような気がする。
……あくまでも勘なので、そこになんの根拠もありはしないのだけど。
「まぁ、そんな事言って、私の方が天よりよっぽど頑張らないといけないんだけど」
「華は頑張ってるでしょ。塾にも行って勉強してるし」
「だけど、結果が伴ってないから……」
そう言うと華は、声を沈ませ、俯いてしまう。
確かに、華の成績や模試の結果は決していい方だとは言えない。だからと言って、彼女の頑張りが足りないかというと、私は決してそうではないと思う。
華は頑張っている。けれど、それだけではダメなのもまた事実だ。
結局、最後は結果が物を言う。それが受験だ。
「ねぇ、もし第一志望の大学に受かったらさ、どうやって行く?」
だからこそ私は、極力明るい声を心掛け、そう未来について語る。
「何急に?」
「やっぱ自転車かな。原付で大学に行く子も少なくないみたいだけど」
私の家から第一志望の大学まではそれなりに近く、自転車でも計算上は二十分もあれば着いてしまう。電車やバスを使うという手もあるが、それは少し距離的に勿体ない気がする。
「でも私、受かるか分かんないし」
「そんなの私も同じよ。けど、下ばかり見てても何も始まらないし。ほら、笑う門には福が来るって言うじゃない? 登下校中くらい前向きな発言していこうよ」
どうせ家に帰ったら、嫌でも現実を思い知る事になるんだから、こういう時くらいは明るい話題で盛り上がりたい。
「自転車かー。私、最近まともに漕いでないかも」
そんな私の気持ちに触発されたのか、華がようやく話題に乗ってくる。
「じゃあ、練習しなきゃ」
「それは受験に受かってからじゃない?」
とまた、華が現実志向な意見を口にする。
「なら、受験に受かったら、お祝いも兼ねて遠出しよう」
それに対し私は、再び未来の話をする。
「もう、天はすぐそうやって……」
「ん?」
怒ったように頬を膨らませる華に私は、あえて何も分からないようなポーズをとる。
「分かった。分かりました。受験終わったら、二人で自転車漕いで遠出ね」
「うん。どこ行こっか。華も行きたいとこリサーチしといてね」
「はいはい。たく、結局最後は天のペースなんだから」
「嫌?」
「ぜんぜん。嫌じゃないよ。だって、私は天の事大好きだからね」
私と華は違う。
雰囲気も性格も、下手をしたら何もかも。
だけど私と華は親友だ。
いや、違うからこそ、なのかもしれない。
私は私、華は華。
どちらが優れているとかそういうんじゃなくて、お互いがお互いの事を尊重し合い好き合っている、そんな関係だ。
「ただいまー」
扉を開け、家に入る。
出迎える声は特にない。
当たり前だ。両親は共働きで平日はいつも帰りが遅く、後一人いる家族はわざわざ声を張り上げてまで返事をしたりはしない。
というか、されても困るのでしなくていい。むしろ、するなと言いたい。
洗面所で手洗い・うがいを済まし、リビングに顔を出すと、案の定それはそこにいた。
一瞥だけ視線をくれ、すぐに戻す。
「お帰り」
「ただいま」
横から聞こえてきた声に、視線はそのまま、目を合わせず挨拶を返す。
別に嫌っているわけではないが、もはや特別興味を抱くような間柄でもない。
他の家の事情までは知らないが、きっと年頃の兄と妹なんてどこもそんなものだろう。
ソファに座りテレビを見る兄を尻目に、私はキッチンに向かう。
食器置き場からコップを手に取り、それに冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぐ。
牛乳は好きだ。飲むと落ち着くから。
……カルシウムは多分関係ない。プラシーボ効果というやつだろう。
牛乳を注いだコップを手に、兄の座るソファの横を通り過ぎ、リビングを後にする。
そのまま階段を登り、二階に。そして角を右に曲がり、自室へ向かう。
最初この部屋は、私と兄の部屋だった。
だけど、私が中学に上がってすぐ、兄は隣の父が書庫代わりに使っていた部屋に移った。というか、私がわがままを言って移させた。
なので実は、私の部屋の方が兄の部屋よりやや大きい。
扉を開け、室内に入る。
私の部屋は比較的シンプルだ。
あるのはベッド、勉強机、テーブル、後はテレビ台に乗ったテレビ。主に漫画しか入っていない本棚。それとぬいぐるみがいくつか。
華には天らしいと言われるが、おそらくそれは彼女が私の事をよく知っているからこそ言える台詞だろう。私の表面的な部分しか知らない人達からすれば、抱く感想はむしろ真逆で、意外という声が上がるはずだ。
私は大半の人から、変なイメージを持たれている。
曰くどこぞのご令嬢。曰く住む家は大豪邸。曰く寝具は天蓋付きの巨大ベッド。曰く本好きで何やら小難しい本を読んでいる、等。
その全てが見当外れなのだが、一つだけ気に入っているイメージというか噂があった。
それは――天使天には大学生の彼氏がいるというものだ。
私から何かその手の事について話した記憶はないが、どうも香野先輩と一緒にいるところを誰かに見られたらしい。まったく、油断も隙もあったものではない。
とはいえ、私もはっきりと否定をしていないので、人の事は言えないが。
制服を脱ぎ、部屋着に着替える。
トップスとボトムスが繋がったオールインタイプのルームウェアで、上は半袖、下はショートパンツスタイルになっており、夏でも使える涼しげなデザインとなっている。
制服はハンガーに掛け、私はベッドにうつ伏せで倒れ込む。
「彼氏か……」
香野先輩と初めて会ったのは、バイト先で、だった。
もしかしたら、校内ですれ違った事くらいはあったかもしれないが、私が香野先輩を認識したのはそこが初めてで、最初の印象は優しそうで話しやすそうな先輩という非常に単純なものだった。
それが会う内に次第に変化していき、憧れとなり恋になった。
しかし香野先輩は、私の事を全然そういう対象としては見てくれず、なんの進展もないまま、およそ二年の月日が経過した。
その間に二人で出掛けた事も何度かあったが、それでもいい雰囲気には全くならず、絶望感すら味わった。だが、そんな事くらいでめげる私ではないし、そんな事くらいでめげていては香野先輩の隣には一生並べない。
まずは香野先輩に恋愛対象として見てもらう事、それが最初の目標であり、最上の難関だ。
ここは思い切って、色気で攻めちゃう? 胸元開けたり、足をギリギリまで出しちゃったりして……。うん。多分、香野先輩はそういうの、あまり好きじゃないだろうな。むしろ、苦手かも。だったら、どうすれば……。
「よし」
そう声を出し、ベッドから立ち上がる。
考えて分からない時は、参考文献から学ぶに限る。
回転式の本棚から適当な漫画を取り出し、再びベッドに今度は仰向けに寝転がる。
手に取ったのは、少年向けの恋愛漫画だ。
勘違いから始まる恋。そして、当然のように主人公の周りに集まってくる美少女達。
どうしてこの手の主人公の周りには、自然と可愛い子が寄ってくるのだろう?
謎だ。ホント、謎だ。
お世辞にも主人公は格好いいとは言えない容姿をしているし、何か特技や才能があるわけでもない。至って普通の一般人。
やはり、ポイントは人柄、性格だろうか。
うーん……。
……それにしても、この作品は何度読んでもいい。特に一見メインヒロインぽくない子が、最後までやっぱりメインヒロインを続けるところがいい。
結局私は、ヒントを探る事を忘れて、いつの間にか作品に没頭してしまい、気が付くと夕食を作り始めなければいけない時間帯に時刻はなってしまっていた。




