(4)
「あっそってなんなんだよ! あっそって!」
あまりの自己中心的発言に柚希は痛みも忘れ、苛立ちから怒鳴り声をあげる。
「だからトイレに! 行きてえんだよ! おい、てめえら聞いて……」
と、言いかけて柚希は一瞬で宙を舞った。それはもう放物線を描いて可憐に。
「うっさいなぁ、もう!」
最後尾の女子生徒達は整えた眉をひん曲げて、うるさい部外者をぶっ飛ばしたのだった。ぶっ飛ばされた柚希は廊下に大の字に倒れこんでいる。
「俺はただ……トイレに行きたいだけなのに……だけなのに……」
思わず涙が一粒頬を伝った。
「……でも俺は負けねえ。女なんかに負けねえぞ」
男の意地、というやつだった。柚希はもはや痛みを忘れ、目的が変わってしまっている。
目的地、トイレ。命がけのサイバイバルが始まった。柚希はまず四つん這いになり、女子生徒達の足下を這ってトイレに行こうと試みた。しかしあっけなく失敗に終わる。
「おい、大丈夫か?」
「どうした?」
「いや、ここに一反木綿が……」
無残に踏み潰された柚希は平べったくなって倒れこんでいた。ピクリとも動かない柚希を心配した通りがかりの男子生徒二人、AくんとBくんが声をかけている。
「ま、まだまだあああああっ!」
平面だった柚希は立体に戻ると飛び上がって吠えた。
「女なんかに負けてたまるかってんだ。女なんかに、女なんかに、女なんかにぃ……」
呪文のように唱えると柚希は次に強行突破を試みる。柚希は走り出した。女子集団のど真ん中目掛けて全力疾走だ。
柚希の目は本気だった。例え見た目が女であろうと、体までは、魂までは、女ではない。男は捨てていない。その意地、だ。
しかしもやしっ子の柚希一人と女子集団。結末は目に見えている。
「ありゃ、ホームランだなぁ」
「だなぁ」
「あれで生きてたら人間じゃないな」
AくんとBくんは宙を舞う柚希を物珍しそうに眺めていた。驚異的威力を持つ女のパワーで吹っ飛ばされた柚希は、
「ま、まだ、まだぁ……」
床に落下すると傷だらけで這い蹲った。こんなにも必死にトイレに行こうとする人物が今だかつていただろうか。
「人間じゃなかったな」
「ああ」
AくんとBくんは顔を見合わせる。段々楽しくなってきたらしい。二人は柚希の健闘を祈りつつ見守っていた。
「次なる手段は……」
と、考えていると急に女子生徒達が散らばりだした。
「あり?」
どうやらトイレ前での謎のイベントは終わったらしい。あっという間にさっきまでの騒がしい廊下は静けさを取り戻した。安堵感と同時に柚希は腹痛を思い出してしまう。
「ぐわあ。やべえ……は、早く、トイレ……」
柚希は一目散にトイレに駆け込んでいった。もちろん女子トイレである。
「あいつ、トイレに行きたかったんだな」
「よかったよな。ここで漏らさなくて」
AくんとBくんは柚希の目的達成を見届けるとその場を去って行った。
「ふぅ。すっきりしたぜ」
柚希はぽんぽんとお腹を叩くとすっきりした顔で手を洗った。おかげで腹痛からおさらばした柚希は清清しい顔をしている。
「さーて、教室に戻るかなぁん」
洗った手を拭きながら気分爽快で入り口を出る。すると同時に隣の男子トイレから美少年が出てきた。
「あ」
その美少年も柚希と同じくハンカチで手を拭いていた。全く同じ仕草をしながら同時に出てきたのである。柚希は一目で直感する。
なるほどな、さっきの女共はこいつ目当てか。
だとすればトイレの前にいたのも頷ける。しかしながら同時に出てきたとなると……。
美少年はうんこなんてしないんじゃないか、と柚希は嫌味でも言ってやろうかと思った。一瞬、横目で見ただけでも分かるほどの美少年だ。オーラが漂っている。むかつくほど整った顔と高い身長、長い足。
前髪だけ色が違うのはメッシュというやつだ。かっこつけやがって、と柚希は無駄に嫉妬していた。無意識に苦々しい顔をしている。
「なにか?」
柚希の熱い妬みの視線に気づいた美少年は涼しい顔で柚希に尋ねた。ついつい美しさに見惚れつつ、むかむかしていた柚希は、
「別に、なんも
ぶっきらぼうに答えた。顔を逸らす。
どれだけ女子生徒を魅了しているのかはさっきで嫌って程分かっている。モテる男には関わらないのが利口だ。女の嫉妬は狂乱である。
柚希はくるりと体を翻し、そのまま立ち去ろうとして、
「おい、おまえ」
美少年に呼び止められた。今度はなんだ、と柚希は振り返ってあからさまに嫌な顔をする。
「俺を見てなにも思わないのか?」
「は? なにを?」
初対面の相手に向かって変なことを聞く奴だ、と思った柚希は何処かでその台詞を言われたような気がしていた。しかめっ面で首を傾げる。
「俺を一目見て何も言わない女なんて初めてだ。あ、いや、二人目だな」
いくらどんな美少年であろうと柚希にはそっちの趣味は備わっていない。どうでもいいのだ。
あれ、この感じって……?
柚希はこのやり取りに懐かしさを感じていた。思わずここで自分が男だということを明かしたくなってしまう。もちろん明かすことは出来ないが。
柚希は改めて、美少年に目を向ける。
「あ、ああっ! おまえ!」
凝視して約5秒。柚希は美少年の正体に気づいた。一番の成長期である中学時代を知らないせいか、ぱっと見では気づかなかったのだろう。身長は当時よりも伸び、顔つきも大人になっている。しかし整った顔は当時のまま、いやそれ以上で、昔の面影があった。
「!」
望だ。間違いねえ、望だ。
柚希は確信した。王子と呼ばれる人物は望だったのだ。望が王子なら納得せざるを得ない。
「なんだ、急に大声出して」
しかし一方で望の方は柚希に気づいた素振りを全く見せなかった。
「おまえ、名前は?」
「え」
名前まで聞いてくる始末だ。柚希は悲しくなった。やはり自分を忘れてしまったのだろうか。
そうだ。こんなにも女らしく育ってしまった自分なのだ。気づかなくても仕様がないのかもしれない。
柚希は悲観的になっていた。朝、香織や伊織が言っていたことが脳裏を過ぎる。自分が女として、女子高生として、女子校に通っていたなんて、望が知ったら……? 柚希は名乗るのを躊躇った。
「人に名前を聞く時は自分が名乗るのが礼儀ってもんじゃねえのか」
視線を床に落として、小声で言う。
「それもそうだな。俺は蜜弥望だ」
本人の口からその名を聞くと柚希の確信は真実に変わった。
「俺は……」
言ってバレたらどうなるんだろう、と不安が溢れてきた。表情が曇る。しかし隠したところで名前ぐらい、いずれバレるだろう。
「か、かかか、か……」
柚希はどもった。
「蚊? それ苗字か? 痒そうな名前だな」
「違う、違うぅ!」
柚希は綺麗な顔を眺めながら必死に言い訳を考えた。しかし最後に思うことは一つである。望に真実を隠すわけにはいかない。例え罵られようと本当のことを自分の口から話すべきだ。
柚希は隠し事が出来るほど器用ではなかった。相手が大好きな友人なら尚更だ。望なら分かってくれる。そう、柚希は信じている。
親友というものは月日の流れなんて感じさせないものだ。一年後に会った今日が一日ぶりかのように感じられる。そう、柚希は思っている。
「あのさ、のぞ……」「まあいい」
柚希が意を決して真実を言おうとした時、望の声が重なった。柚希は黙って望の言葉に耳を傾ける。
「面白いな」
「面白い? 何が?」
望はくすくすと笑っている。今の流れの何処に笑う場面が? と、柚希は顔をしかめた。
「決めた。俺はおまえを落としてみせる」
「…………はい?」
柚希は耳を疑う。しかし変に思われないよう、努めて平然を装った。本当は目が飛び出てもおかしくないぐらい、望の発言に驚いている。
「お、落とすって? 穴に何か落とすんですの?」
「何を言ってるんだ。男が女を落とすって言ったら、意味は一つだろうが」
男が女を? 男が? 女を? 女?
柚希は今更ながら自分の姿を見下ろした。着ているのはピンクのセーラー服。今日もよく似合っていて、絶好調に可愛い。かわいい、かぁいい、おんなのこ。
ま、ま、まじかよおおおおお!
柚希は叫びたい気持ちを堪えて、心の中で絶叫した。




