(5)
部屋で思い出し照れ笑いしたり、枕を抱き締めたままぼーっとしたり、わざわざ朝早く起きて弁当を二つ作ったり。
だからちょっと、なんか悔しくて、意地悪してやろうと思って、対抗してやろうと思って、ただそれだけで髪を結んだりなんかしてみた。それなのに柚希ときたら褒め言葉の一つも言わない。
羽菜は自分に向かって歩いてくる陽菜を横目で見た。
表情を見る限り、何かいいことがあったようだ。髪を切って陽菜にとっていいこと……それは一つしかない。
それが余計にむかついた。何でこんなにイライラするのか自分でも分からない。
みんなそうだった。自分と陽菜は全く同じ顔をしているのに、いつも陽菜ばかりが褒められる。柚希もそうなのかと思うと怒りと切なさが交差した。
昨日助けてくれたことに淡い期待を抱いていたのかもしれない。その期待通りにならなかったから、こんなにもやもやするんだろうか。
「羽菜ちゃん、あの」
「なに?」
羽菜が窓の外を睨み付けたまま耳を傾ける。
「掲示板の張り紙のこと、なんだけどね……」
「それが?」
「共学って……」
はっきり言わない陽菜の求める回答を、羽菜は憤懣やるかたないといった口調で言う。
「知ってたわよ、言わなかっただけ。大体ね、ここには共学になるって聞いたから編入してきたの。あんたが勝手についてきたんでしょ」
「そうだよね、ごめんねっ。私が勝手に羽菜ちゃんについてきたんだもんね……」
陽菜は弱々しい笑みで謝った。
しかし男が苦手だということを知っていながら、共学になることを知っていながら、言わなかった羽菜にも非がある。なのに陽菜は羽菜を全く責めなかった。それは計算でも何でもなく、陽菜はそういう子なのだ。
「……柚希にでも助けてもらったらいいじゃない」
余計な一言だった。口が勝手に動く。羽菜は困った顔をしている陽菜に禍禍しい笑みを向けた。
柚希のことだ。男が苦手なことも知っている。陽菜が困っていたら一番に助けようとするだろう。
自分で言っておいてそんな展開になったら面白くない、と羽菜は思った。考えるだけでやきもきする。
そんな羽菜を前にして何も言わない陽菜もまた、心の中でいつもと少し違う羽菜の様子に違和感を抱いていた。
どんなに悩んでも落ち込んでも、柚希は不思議と腹は減る。
授業と授業の合間の休憩時間に買った牛乳で空腹を紛らわせていたが、腹の足しにもならなかった。
柚希は机に突っ伏して牛乳のストローを噛んでいた。周囲は机を移動したり、鞄から弁当箱を取り出したりしている。
「もう昼休みか」
虚ろな目でやかましい女子生徒達見た。
午後は南山学園との合同集会である。浮かれている女子生徒共のうるささといったら、ピーピーギャーギャー騒音以外の何でもない。早く食事を済ませて化粧直しでもしよう、といった雰囲気だ。弁当箱の横には大きなポーチが置かれてあったりする。
化ける気かよ、なんて思いながらもそんなことはどうでもよかった。
柚希は空腹と共学の事実に授業中も気が気じゃなかったのだ。
腹が減った。共学になった。なのに自分は女装のまま。どうしよう。しかし腹が減った。
そんな感じで柚希の脳内は空腹から始まり空腹で終わった。
「ああ、腹減った……」
かすかに牛乳の味がしていたストローも味がしなくなったので口から離す。
今朝は干物が帰ってきていたり、変な夢を見たり、と朝食をとる暇がない程慌しかったので、昼食を買う暇もなかった。今更、購買部に行く気にもなれない。こんなに腹が減っている時はパンよりも弁当を食べたいと思う柚希である。
女子生徒達の弁当に目を向けた。唾液が口内にやたら溢れてくる。
柚希は見苦しい顔で昼食を楽しむ女子生徒達を眺めた。
「くそう、美味しそうに食いやがって。はぁ、コンビニの弁当でもいい。しかし出来れば手作り弁……ん? 手作り?」
柚希はぼやきながら何か引っかかった。目を瞑って、唸り声をあげて、数十秒後、
「そうだ! すっかり忘れてたぜ! おおっ、俺の女神!」
その引っかかっていた何かの謎が解けたらしい柚希は、声をあげて立ち上がった。続いて、椅子が床にガタンと音を立てて倒れる。
柚希の大声に静まり返った教室。冷めた空気が広がる。
「……柚希ちゃん?」
トイレから戻ってきたらしい優はハンカチで手を拭きながら、静まり返った教室で佇む一人を見た。
ガッツポーズをきめて立っている柚希である。
教室にいる女子生徒達の冷たい視線は柚希に集中している。聞かずとも優には柚希が何かしでかしたのが分かった。
「あ、あはは……いやいやっ。そ、それでは屋上いってきまーす」
柚希は近づいてきた優に敬礼すると逃げるようにして教室を飛び出した。
「あ、あり?」
解けたはずの謎はすぐに迷宮入りする。
屋上に辿りついた柚希は自分の予想に反した光景に首を傾げた――いるはずの陽菜の姿がない。
緑の地面に足をつけ、屋上の隅々まで見渡すが人影すら見当たらなかった。
柚希は頭を掻きながらいつもの陰に腰を下ろす。頭を掻いたせいで、せっかく綺麗に結んでいた髪が乱れた。
屋上は静かだった。浮かれ狂った女子生徒達の黄色い声は聞こえたが、校内放送で流れている音楽も聞こえたが、屋上は静かだった。
『明日も頑張って作ってくるねっ』
あの無垢な笑顔がふと浮かぶ。
自分に弁当を作ってきてくれると笑顔で言ってくれた陽菜。しかし屋上に陽菜の姿はなかった。
柚希はショックだった。屋上には絶対に陽菜がいると思っていた。そんな根拠はないのに何故か思っていたのだ。
弁当を入れた小さなバックを手に笑顔で自分を迎い入れてくれるだろう、と。あの偽りのない笑顔を見てしまったら、そう信じずにはいられなかった。
弁当を期待していたから、期待が外れてこんなにもダメージを受けているのか。それとも陽菜がいなかったことにダメージを受けているのか……。
柚希は前者だと思った。なのに浮かぶのは陽菜の顔だった。
「あー腹減った! 死ぬ!」
渦巻く思案を振り払うように頭を左右に振る。
認めたくなかった。朝からおかしい自分を。考えたくなかった。今までの自分じゃなくなってしまう気がして。
「……柚希ちゃんっ」
その時だった。その声を聞いて何故か安心してしまう自分がいた。
やはり陽菜はやってきたのだ。そうだ、あの笑顔と言葉が嘘なわけがない。裏切るはずがない。
柚希は曇った心が晴れた気がした。
「ったく、来るのおせーから来ないかと思……」「振り返らないでっ」
陽菜らしからぬ強い口調で言われ、柚希は黙って従う。
「お、おい。急にどうしたんだよ」
陽菜は答えない。その代わりに陽菜は地面についている柚希の手の甲に自分の手を重ねた。
「ひ、陽菜?」
すべすべの感触が手の甲から伝わる。横目で見ると白く細い手が自分の手の甲の上に重なっていた。
とくん、と心臓が音を立てる。
また息苦しくなってきた。さっき優に抱きつかれた時とまた違う、それ以上に、呼吸が……。
「振り向かないで聞いて欲しい、の」
背後の気配を感じとりながら柚希は黙って小さく頷いた。
とくん、とくん、とくん――意思とは関係なく高鳴る心臓。何故、こんなにどきどきしているのか自分でもわからなかった。
これから陽菜が何をしようとしているのか、何を言おうとしているのか。
手の甲に伝わる掌の温かさが柚希の思考を鈍らせた。
「あ、あのね……柚希ちゃんに、大事な話があるの」
「は、はな、はなし……?」
無意識に声が震える。柚希はまともに喋れそうになかった。
沈黙が訪れる。静まり返った屋上に校庭の木にでもいるであろう蝉の鳴き声がBGMのように鳴き声を奏でる。
柚希ははっとして大事なことを思い出す。
陽菜は自分に気がある。それは恐らく自意識過剰ではない。となれば、大事な話とやらで思いつくのは一つである。
まずいよな……それは。
気持ちを打ち明けられたところで、どう対応していいか分からない。そんな経験がないのだ。それに陽菜が好意を抱いているのは自分ではなく“女の姿の柚希”だ。
柚希は急に後ろめたい気持ちになった。
「私ね……」「ごめん、今それを聞くわけにはいかない」
柚希は陽菜の言葉を遮った。
今、それを聞いてしまったらすべてが終わる。終わってしまう。単純にそれは嫌だと思った。
今後、手作りの弁当が食えなくなるから? あの最高に美味だった煮物を二度と食えなくなるから? 一緒に屋上で昼休みを過ごす相手がいなくなるから? 教科書借りる奴がいなくなるから?
わからない、わからないけど……嫌だ、と柚希は思ったのだった。




