(3)
柚希はぞわっと全身に鳥肌が立って悲鳴をあげた。
「くそう。あれさえなければ……!」
干物に面倒を見てもらっている幼い頃、やけに写真を取られていたのだ。女の子みたいな服ならまだ分かる。アニメキャラのような服を着て撮られたこともある。寝ている時にフラッシュを浴びたり、風呂に入ってる時に浴びたりもした。後に柚希は気づいたのだ。
……その写真がコレクションされていることに。
今では彼の弱みである。消したい過去だ。
「マニアには高額で売れる」
柚希の脳内を覗き見たかのように、伊織が追い討ちをかけるようなことを言う。
自分で言うのもなんだが確かに売れるかもしれない。想像しただけで体の水分がすべて冷や汗になって流れ出る。
「っつーか、だいったい! なんでこっちに帰ってきてんだよ」
今まで干物は海外にいたのだ。美少年である望の尻を追って海外へ行き、害虫のごとく住み着いていた。おかげでこの瞬間まで柚希に家庭内セクハラの心配はなかったのだ。
「望たんもいないしぃ、外国人の男の子も飽きたけんのぅ」
「望もいない? それどーいうことだよ!?」
柚希は干物の骨っぽい両肩を掴んだ。そのことはとっくに知っていると思っていた干物は、柚希の予想外の反応に首を傾げた。
「望くんならとっくに帰国して日本の高校に通ってるのよ」
「なんだって? とっくに帰って来てるだと!?」
干物の肩を強く掴んだまま、柚希は香織に目を向けた。真顔で突っ立っている伊織もそのことは知っていたのだろう。冷めた目で柚希を見ている。
「なんでそんな大事なこと教えてくれなかったんだよ!」
干物を放り投げて怒気を含んだ声で叫んだ。
「本当に逢いたいならどんな手段を使っても来る。所詮、その程度の友情」
「あんだと?」
伊織が冷淡に言うと柚希の怒りが加速した。
「姉に向かって何です、その言葉遣いは」
「あだ!」
香織に平手打ちされた柚希はそのまま床に転がった。もちろん手加減はなしだ。頬がヒリヒリと痛む。
冷たい床で頭を冷やしながら柚希は思う。言われてみればそうだった。帰って来ているにもかかわらず、家も訪ねない、連絡もよこさない。
長い月日が友情を薄れさせたのか? 新しい友人達との生活で自分のことなんて忘れ去ってしまったのか?
しかしそんなことが頭を過ぎっても、今日見た夢の、過去の、思い出がその不信感を取っ払う。柚希は望を信じていた。きっと何か理由があるに違いない。
床に転がったままピクリとも動かない柚希を見て、香織がため息を漏らす。
「今、柚希はこの家にいないことになってるの」
「いないことに? なんでだ?」
「柚希は女子校に通っている。久しぶりに会う望にその姿を晒す。望、ひく」
伊織は棒読みで言う。今日は珍しくよく喋る。
「それはっ! …………非常にまずい」
望は柚希の女々しい部分を嫌っていた。だからこそ男らしくなるように言われていたのだ。柚希が男らしくなりたい理由には望との約束も含まれている。
「そこは私達が上手く隠しておいたのよ。だから心配はいらないわ」
香織は優しく微笑むと床に這い蹲っている柚希に手を差し出した。
「じゃあ、望は今の俺の状態は知らないんだな? そうなんだな?」
「ええ」
柚希は生まれて初めて自分の姉が女神に見えた。こんなにも美しかったとは。
「連絡はきていた。だが、私達が取り次いでいた。柚希は知らなかった」
ついに棒読みからロボット口調になった。
「そうか、そうかぁ。ならいいんだ」
柚希ははにかんだ笑顔を浮かべる。忘れられていなかった、その事実と日本に帰ってきているという事実が嬉しくて仕方がなかった。
「で。いつ望には逢えるんだ? なっ、いついつ? ねえねえ」
にぱにぱと満面の笑みで姉二人に問う。香織は穏やかな作り笑顔で、
「だから今言ったばっかりでしょう。女子高生の姿のまま、望くんに逢うつもりなのですか?」
と、言うと米神に怒りマークを浮かべる。
「そ、そんなぁ……」
この姿でいる限り望には会えない。ということは、残りの高校生活二年と半年以上は会えないってことなのか……?
柚希は好物を前に待たされている犬のような目で唇を噛み締めた。
「でもよ、望ならなんだかんだでわかってくれると思うんだ」
きっと最初は罵られるだろう。最悪なことに見た目は当時よりも女の子らしく育ってしまっている。それに加えて女装なんて……。
しかし望なら話せばわってくれる。そう信じてやまなかった。花月家についても知っている望のことだ。わってくれるに違いない、と。
「柚希、時間、遅刻」
「あ?」
感傷に浸っている柚希の話を逸らすようにロボットが突っ込んだ。もはやロボットというより伸びきったカセットテープの音である。
柚希は時計を見て仰天した。
「ギャ―――! 遅刻!」
柚希はムンクの叫びのような顔で絶叫すると慌てて着替え、部屋を飛び出た。嵐のように部屋の主が去った後、柚希の部屋には姉二人の姿と干物が一つ。
「なんじゃいな、また弟いじめじゃろが」
「いじめとは言葉が悪いです、お祖母さん。躾ですよ」
「またを調教」
伊織が言うとリアルで怖い。真顔で鞭打ちしそうである。
「おまえらも相変わらずじゃの」
「主犯者は詩織と沙織ですよ。私達は協力してあげたまでです」
「台詞、難しい」
伊織はもう喋るのも嫌そうだった。かすかに眉が動く。そしてまた分厚い本に目を落とした。
「柚希にとって、今日一日はきっと忘れられない日になるでしょう」
さっきまであんなにも押し寄せていた眠気はすっかり覚めていた。結局、望のことを詳しく追求出来ぬまま学校へ走った柚希は、なんとか遅刻を免れる。
「あ、柚希ちゃーん。おっはよー! 今日もギリギリだね」
廊下で声をかけてきたのは、優だ。朝から元気がいい。
「……お、おはよう」
「なんかゲッソリしてない?」
「あはは……気のせいさ、木の精さ……」
飲まず食わずで、全力で走ってきたせいか胃の中で胃液がぐるんぐるん踊っているようだった。吐き気を伴う。精気の抜けた柚希はふらふらしながら廊下を前進した。
「ちょっと柚希ちゃん! 大丈夫?」
優は尋常ならざる様子の柚希を心配し、後を付いていった。
ああ、腹減った……どうして自分は遅刻と朝食を天秤にかけた時、朝食を選ばなかったんだろう。柚希は心底後悔する。
空腹を少しでも満たす為、教室に行く前に日課である牛乳を買おうと自動販売機へ向かった。
「柚希ちゃんっ」
おいおい、今度はなんだよ……?
柚希はもう放っておいて欲しかった。この真夏の暑い中を空腹で走ってきたのだ。喋るのもだるい。
しかしその声の主を無視することは出来ず、腹を擦りながら振り返る。
「おはようっ」
「ああ、おは……よよっ!?」
柚希は鞄を床に落とした。
「おま、おまっ!」
言葉にならない言葉を放って、目の前の陽菜を指差す。陽菜は純真無垢な顔をほのかに赤く色付かせて、
「へ、変だったかなっ?」
短くなった毛先を指で弄びながら言った。
「あ、かっわいー! ねえ、あの子って朝日羽菜ちゃんの方? 陽菜ちゃんの方?」
突っ立ったままの柚希に優が問う。が、柚希は答えない。
陽菜の長かった髪はバッサリ切り落とされ、ボブぐらいの長さになっていた。『髪は女の命よ』と香織が言っていたのを柚希は思い出す。その命に匹敵する背中まであった髪をバッサリ切ってしまうなんて、よほどの覚悟か勇気が必要だったのではないだろうか。
「なんでまた急に……」
「えっと、そのっ、柚希ちゃんが……柚希ちゃんが『短い方がいい』って言ってくれたから」
俺、そんなこと言ったっけ?
無責任な柚希は腕を組むと重々しい顔で唸り出す。
「ああっ! あれか!」
昨日、屋上で確かに言ったことを思い出した。それは自分が長いのが面倒で嫌だから『短い方がいい』と言っただけであって、決して陽菜に切るように勧めたわけではなかった。しかしながら陽菜は意味を履き違えているようだ。撤回するのも気がひける。
「……やっぱり変だった、かな?」
あまり良い反応を示さない柚希を見て陽菜は不安になったらしく、今にも泣きそうな顔をしていた。
「いやいや、変もなにも似合ってるって」
それは紛れもない本音である。柚希は純粋に短い髪の陽菜は可愛いと思った。髪がすっきりした分、表情も見やすい。清楚で優等生なイメージに元気を付け加えたような感じだ。
陽菜は柚希に褒められ、嬉しそうに微笑んでいる。柚希はそんな陽菜を眺めていると制服を着ているはずの陽菜が浴衣姿に見えてきた。頬と同じ色の浴衣に、短くなった髪もよく似合っている。浴衣姿の陽菜はいつもの陽菜と違って大胆だった。
その乱れた浴衣の胸元から見える豊満な膨らみへと自分を抱き寄せ、押し倒し、そして――
「柚希ちゃん?」
「違う違う、ちがーう! 俺の意思じゃなーい!」
「なにが?」
「へ?」
「とっくに行ったよー?」
優が陽菜の後姿を指差して教えた。
「あり?」
柚希は自分で自分に驚いた。さっきの浴衣姿のは何だったんだろう。自分は一体何を考えている。とうとう空腹で現実と夢の区別が付かなくなったのだろうか。
柚希は頬を自分でつねっておいた。
「柚希ちゃん。顔赤いけどやっぱ具合悪いの? 大丈夫?」
「ひぇっ!? あ、いや、大丈夫大丈夫」
不意に問われて柚希は焦った。笑ってごまかす。顔まで赤くして自分は一体どうしたというんだ。干物達が言っていたように『芽生えた』んだろうか。いやそんなまさか。女なんて怖い生き物に? 興味のない自分が? 芽生える? 興奮? 発情?
柚希は抱いたことのない感情に戸惑った。
全部あの夢のせいなんだよ。なんであんな夢を見たんだか……。
柚希は廊下のど真ん中をズカズカと歩き出す。と、同時にぎゅるるると音が鳴った。エネルギー源を補給していないのに脳を使いすぎたらしい。柚希の腹の虫が鳴く。
「とりあえず牛乳……みるく……水分でいいから補給をぉ……」
「本当に大丈夫ぅ?」
柚希の可愛い顔が狂気顔になっていくのを目の当たりにして、優は本気で心配していた。
自動販売機まではすぐだった。教室も近い。時間も牛乳を買うぐらいの余裕は残されている。
しかしあるはずの自動販売機が見当たらなかった。柚希は怪訝な顔で廊下の先を見つめる。そこには柚希の行く手を阻む、邪魔者が数え切れないぐらいいた。
「なんだよ、あれ」
人だかりが自動販売機の前……ではなく、その横の掲示板に集っている。
「そんなに俺に牛乳を買わせたくねえってのか」
「違う違うっ」
真顔で言う柚希に優が笑いながら突っ込んだ。




