(7)
「奏斗が切るように言ったからだけど」
計画的じゃねえか! 店とグルかよ!
あっけらかんとして言い放つ楓の胸倉を引っ張る手に自然と力がこもる。
「ちょっと待って、またネクタイが緩むってば」
「その緩んだ顔もネクタイと一緒に引き締めてやろうか? あん?」
「攻撃的なメイドさんだね。うんうん、戦うメイドさんも俺は好きだよ」
楓は手を合わせて拝みながら柚希を見つめる。どうやら顔を引き締めてくれるのを待っているようだ。あくまで例えだというのに彼に冗談は通じないらしい。
まともに会話しようと思った自分が馬鹿だった。それに気づいた柚希は楓から手を離そうとして、
「――――や、いやっ!」
右から聞こえた、か細い声を聞き逃さなかった。蚊の鳴くような小さな声。それを聞き逃さなかった自分を褒め称えたくなる。
今までとは違う弱い、女の子の声。
考える間も悩む余地もない。意地なんて張っている暇もない。こんな非常事態にプライドなんてものはとっくに取っ払われている――柚希は考えより先に行動を起こしていた。
「羽菜!?」
柚希は一心不乱で隣のカーテンを勢いよく開ける。カーテンを全開にすると予想通りの光景が目の前に現れた。
……羽菜に覆いかぶさっている、奏斗。
羽菜は下着が見え隠れしている胸元を両手で隠している。その手は小刻みに震えていた。泣き出す一歩手前のような潤んだ瞳で、彼女特有のきつく睨みつけるような目からは元気が失われている。
柚希はその光景を見て思う。これが同意の元なわけがない、と。
「てめえなにしてんだ!」
柚希は目の色を変えて隣のベットに飛び乗り、奏斗の胸倉を掴んだ。
「わーぉ、メイド服かっわいー! もろ楓ちゃんの趣味じゃん、好みじゃーん!」
しかし奏斗は相変わらずの口調と笑顔でおちゃらける。奏斗は柚希の性別を知らない。女に胸倉を掴まれたところで痛くも痒くもないのだろう。いくら睨まれようとも何とも思っていない様子だ。
「んなこたぁ、どうだっていいんだよ!」
柚希はにぱぁと笑う奏斗が憎らしくて仕様がない。自分が怒気をみなぎらせたところで、事態を重く受け止めようとは全くしないからだ。
「なんでそんなに怒ってるのかなーぁ?」
「それはっ!」
……友達が襲われそうになったから、か?
改めて問われ、柚希は言葉を詰まらせてしまった。
自分を奴隷扱いするような女を友達と言えるのか? これは女の友情の範囲、なのか?
疑問が次々と浮かび上がる。男の柚希には女としてのこういう時の対処方法がわからなかった。
「メイド服なんて着ちゃってさーぁ。そっちはそっちで盛り上がってんならいーじゃん。ねっ?」
邪魔をするな、と目で訴えている。そんな気がした。
柚希は上体を起こした羽菜に目を注ぐ。あの羽菜が羞恥の色に頬を染め、瞳を潤ませているのだ。それでもこれが彼女の望んだことなのか。放っておくべきことなのか否。
見てみぬふりをしていいことなのか?
「ねっ、ゆーきちゃん?」
奏斗は念を押すようにもう一度柚希の名前を呼ぶ。隣のベットに戻れ、という警告なのだろう。それは柚希も薄々感じ取っていた。
なにか、なにか言い返さねえと……!
ここで彼を殴ったって解決はしない。最悪な事態に導くだけだ。だからといってこのまま見過ごして隣のベットに戻る気にもなれない。
羽菜のあんな顔を見てしまったら……俺は……俺は……!
柚希は息を飲んだ。そして最高に説得力があると思われる本音をぶちまけることを決意する。
「いいか、よく聞け」
柚希は急に真面目な顔になる。
「はいはーい?」
「おまえは最大のミスを犯している」
「ミス?」
そう言われては自分が犯したミスとやらが何か気になるものである。案の定、奏斗は柚希の言葉に耳を傾けた。そして柚希は小さく息を吸って、
「こんな女に手出そうなんて趣味が悪すぎる!」
奏斗を指差し、ズバリ本音をぶちまけた。言いたくはなかった。こんな本当のこと。
「……へ?」
奏斗は口をぽかんと開けたまま静止。
「いいか、おまえは黙ってれば今風でモテそうな面なんだ。こんな我侭、自己中、性悪(以下省略)女なんか襲わなくても他にも女はいっぱいいるだろ? な?」
柚希は奏斗の肩に手を添える。あまり気の毒そうに言うもんだから、
「う、うん。まあ……」
奏斗も流されて頷いてしまう。
「わかればいいんだ、わかれば」
柚希は満足げに奏斗の肩をぽんぽん叩いた。自分の説得力に惚れ惚れする。よかった、真実を公言して。これで羽菜が襲われることはないだろう。
しかし命がけの説得を終えた柚希は振り返るのが怖かった。本音を本人の前でぶちまけたのだ。そのご本人様はたった今、後ろで鬼へと変貌を遂げ始めている。こん棒で殴り殺されるのか、牙で噛み殺されるのか――柚希は恐る恐る振り返った。
「お、おまえも危なかったな」
振り返り様に取り繕った笑顔で言う柚希。
羽菜は俯いていて表情が見えない。しかし殺気が漂いまくっている。その今にも金髪になって髪の毛を逆立ててしまいそうな彼女を見て、柚希は恐怖に身震いした。
「…………おまえ、も?」
「ひえっ!?」
あまりの怖さに声が裏返った。柚希は今までになく慌てていた。本音のフォローなんて思いつかない。
羽菜はホラーに出てくる化け物のように真っ黒な髪を揺らしながら顔をあげた。そして右手を大きく振り上げ――
「いってぇええええっ!」
柚希の左頬に手形を残す程の強力な平手をかます。バッチィィィン、と痛々しい効果音が響き渡った。
「バッカじゃないの! あんたなんかもう知らない!」
羽菜は凄い見幕でベットの上に立ち上がり、左頬を押さえている柚希を無残にもベットから蹴り落とす。
男二人は女同士の戦いを前に呆然として互いに顔を見合わせていた。
「いってえ……」
柚希は赤く腫れてひりひりする左頬を撫でながら保健室を出た。残り利用時間五分前のことである。四人は揃って保健室を後にしていた。
「楽しかったよん」
何もなかったかのように皮肉な笑みで言う奏斗を羽菜は無言で睨みつけていた。
「柚希ちゃん……きみのメイド服姿は一生忘れないからね! この目に焼き付けておいたからっ!」
「いやいや、すぐにでも忘れてくれ」
消したい過去がまた一つ増えてしまった。黒く塗りつぶしておかないと……。
楓は余韻に浸りながら柚希の両手を握り締めて涙目で言う。なかなか手を離さないので柚希は思いっきり足を踏みつけてやった。
やっと帰れると思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。帰ったら風呂に入って即寝よう、なんて先のことばかり考えていた。既に柚希の頭は帰ることでいっぱいである。
「んまっ、また逢うことになるだろうけどーぉ」
「もうあんた達と関わる気はないわ」
「冷たいなぁ、羽菜ちゃんは。そこが可愛いけど」
奏斗は耳障りなくすくす笑いを漏らす。
また逢う? 連絡先でも交換したのか? まさかな……なんてことを考えながらも目の前の暑苦しい楓の視線に、柚希はうっとうしさを感じていた。
「それじゃーねん。羽菜ちゃん、柚希ちゃん」
奏斗と楓は手を振りながら廊下を先に進み、保健室前での解散になった。柚希達は彼らの後姿が消えるのをあえてその場で待つ。
「で。どうだったの、奏斗」
「どうって? 楽しかったよん?」
「もう! もっと具体的にだよ!」
奏斗と楓は振り返ることなく、長い廊下を直進していく。保健室から離れたところで今日の報告会だ。
「うーん、あの羽菜ちゃんって子。性格きついけど中身は女の子だった、かなっ? 口では強気なこと言ってるけど、実際は大した経験もないと思うなぁ。慣れてない感じ?」
「ほらね。やっぱりツンデレだったでしょ?」
何故、楓が自慢げに言うのか謎である。
「楓ちゃんはどうだったのさーぁ?」
「そりゃあっ! もうっ! あんな二次元な子はいないよっ!」
楓は息を荒くして、柚希のメイド服姿を思い出しながら空気を抱きしめて言う。もちろん彼は空気ではなく柚希を抱きしめているつもりだ。
「柚希ちゃんかぁ……あの子は面白いかも」
「え? ああっ、だめだよ! 俺が目つけてるんだからね!」
「だいじょーぶだぁーって。俺は羽菜ちゃんの方が好みだもん」
奏斗は手を左右に振って否定しながら笑い飛ばした。
「オモチャにしてもだめだからね!」
「わかった、わかったぁ」
空気を抱きしめたまま口を尖らせてぶーぶー言う楓。
「さーて、明日が楽しみだなぁーっと。ねっ、楓ちゃん?」
二人は肩を並べて廊下の角を曲がった。
奏斗と楓の姿が見えなくなって、柚希と羽菜も廊下を歩き出した。一緒に玄関まで行きたくないからである。
「どわぁーから、俺が言っただろーが! こんな胡散くせえとこ危ないってよ」
柚希は憤懣やるかたないといった口調で言う。
「それともなにか? やっぱそーゆーの目的で来たわけ? んで、いざとなったら怖気づいたってか」
羽菜は目を伏せたまま何も言おうとはしない。
羽菜が反論しないのをいいことに柚希は強気に嫌味を連発する。頬を引っ叩かれた怒りもあって口調も自然と荒くなった。
「わ、悪かったわよ。あんたまで巻き込んで」
「え? あ、いや……」
時が一瞬止まる。柚希は我が耳を疑った。羽菜の口から予想だにしない言葉が出てきたのだ。
「まさかあんなことになるなんて思ってなくて。監視カメラもあるって言ってたし、油断した私も悪かったけど……いざとなったら、怖くなって」
柚希は何も言わず、羽菜の言葉に耳を傾けた。羽菜を全面的に責めたことを少しばかり後悔する。危なかったのは羽菜本人なのだ。その気持ちも察さず、一方的に責めて。いくら荒々しくても、羽菜も女の子――もっとかけてやるべき言葉は他にあったはずなのに。
「その……悪かったな」
「なんであんたが謝んのよ」
「え、ああ。なんでだろ」
柚希は苦笑しながら頭を掻く。髪はリボンを取り忘れて、崩れたツインテールのままだった。
「…………がと。助けてくれて」
「へ? なに?」
付けたままだったリボンを取りながら、聞き取れなかった羽菜の言葉を聞き返す。
「も、もうっ、言わない!」
「はぁ? なんだよそれ。聞こえなかったんだってば」
何故、逆ギレされなくてはならないのか。柚希は不満げな顔をする。
「羽菜?」
羽菜は急に立ち止まる。そして両手をぎゅっと握り締め、力んでる様子で、
「あ、ありがとうって言ってんのっ!」
怒った口調で言う。そんな口調では感謝のかの字も感じないだろう。しかしそれが単なる照れ隠しだったとしたら……?
柚希にはそれが照れ隠しのように思えた。真っ赤に染まった顔も、尖らせた唇も、嫌な感じは不思議としなかった。殺気も感じない。




