第6話「誰も困らなかった」
その日の依頼は、紙切れ一枚だった。
掲示板の隅に、少し斜めに貼られている。
討伐でも護衛でもない。
金額も安く、期限も短い。
「倉庫の整理。人手不足のため、至急」
文字を読んだ瞬間、胸の奥が静かだった。
良くも悪くも、波立たない。
「……これなら、いけるな」
自分に言い聞かせるように呟く。
剣も魔法もいらない。
判断も、勇気も、ほとんど必要ない。
ギルド受付のリナは、手元の書類から目を離さずに言った。
「雑務だけど、効率よく終わらせてくれれば助かるわ」
効率。
その言葉に、違和感はなかった。
むしろ、安心した。
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倉庫は、町の外れにあった。
木箱が積まれ、埃が溜まり、何年も手が付けられていない様子だ。
作業は単純だった。
壊れた箱を分け、使えるものを並べ、記録を取る。
迷う必要はなかった。
体が自然に動く。
どこに何を置けばいいか、考えなくても分かる。
——昨日、捨てた記憶が、静かに作用している。
「初めてのアルバイト」の思い出。
覚えていたのは、疲れと、時給と、終わった後の解放感だけ。
大した記憶じゃない。
そう思って、切り離した。
その結果、作業は驚くほど早く終わった。
誰にも叱られず、誰にも感謝されず、
でも確実に「役に立った」。
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途中、雑務仲間のカイが顔を出した。
「もう終わったのか? 早いな」
「ああ。まあ、やることが分かってたから」
言葉が、少し軽かった気がする。
カイは一瞬、何か言いかけて、やめた。
「……そうか。助かった」
それだけ言って、去っていった。
背中を見送ったはずなのに、
なぜか、その後の記憶が薄い。
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報告は問題なく受理された。
追加の確認も、修正もいらない。
「助かったわ。誰も困らなかった」
リナは事務的にそう言った。
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
成功だ。
正しい選択だった。
——そう、思った。
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夕方、ギルドの奥でレイナに会った。
彼女は記録帳を閉じ、こちらを見た。
視線が、少し遅れる。
「今日は……静かだったね」
「効率よく終わっただけだよ。問題もなかった」
レイナは、すぐに頷かなかった。
「……誰も、困らなかった?」
「ああ。そうだと思う」
間があった。
否定も、肯定もない間。
「そっか」
それだけ言って、視線を落とす。
その仕草が、なぜか引っかかった。
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夜。
部屋に戻ると、ミメルが机の上にいた。
何も言わない。
鳴きもしない。
ただ、こちらを見ている。
今日は、捨てるかどうか、迷わなかった。
捨てた記憶は軽く、得たものは便利だった。
問題は、どこにもない。
それなのに——
日記を開こうとして、手が止まる。
書くことが、思いつかなかった。
「倉庫を整理した」
それ以上の言葉が、出てこない。
誰も困らなかった。
誰も怒らなかった。
誰も感謝しなかった。
それでいいはずなのに。
ミメルが、小さく瞬きをした。
進化の兆しは、ない。
その夜、眠りに落ちる直前、
胸の奥に、静かな空白だけが残っていた。




