第5話 効率のいい一日
朝、目を覚ましたとき。
胸の奥は、静かだった。
点灯はない。
あの、無言の促しもない。
――能力は、出ない。
分かっていた。
昨夜、俺は選ばないと決めたのだから。
身体を起こす。
重い。
昨日まで感じていた、
説明のつかない軽さがない。
頭の中に、
小さな引っかかりが残る。
考えが、
言葉になるまで、ほんの一拍遅れる。
「……不便だな」
それだけのことなのに、
胸の奥がざわついた。
ミメルは、寝台の端で丸くなっている。
昨日と同じ場所。
けれど、
今朝は少し遠く感じた。
距離がある、というより――
頼れない。
*
ギルドへ向かう道。
人の流れが、やけに多い。
避ける判断が、遅れる。
肩がぶつかった。
「あ、すみません」
謝った声が、
思ったより小さかった。
掲示板の前に立つ。
依頼は、昨日と同じように並んでいる。
危険度、報酬、期限。
なのに。
どれを選ぶべきか、即座に分からない。
視線が、迷う。
昨日までなら、
一瞬で整理できていた。
それが、できない。
――能力が、ない。
その事実が、
はっきりと胸に落ちる。
「トオル?」
声をかけてきたのは、リナだった。
「今日は、まだ決まらないんですか」
「……少し」
そう答えながら、
俺は紙を一枚、剥がした。
街中の荷運び。
危険なし。
報酬、低。
昨日の俺なら、
確実に選ばなかった依頼。
でも今日は、
これ以上、迷えなかった。
*
荷運びは、単純だった。
箱を持ち、
指定された場所に置く。
それだけ。
なのに、
時間がかかる。
順番を考え、
置き場を確認し、
一つ一つ判断する。
汗が滲む。
呼吸が、少し荒れる。
「……遅いな」
背後で、誰かが言った。
振り返ると、
同じ依頼を受けた冒険者が、
もう半分以上を終えている。
迷いのない動き。
無駄のない判断。
昨日までの俺は、
きっと、あちら側だった。
胸が、
はっきりと痛んだ。
――効率のいい一日。
それは、
能力がある日のことだ。
昼。
一人で、パンを齧る。
昨日、捨てたはずの記憶と、
よく似た光景。
それなのに、
今日はやけに長く感じる。
周囲の会話が、
そのまま耳に入ってくる。
誰かの笑い声。
誰かの愚痴。
昨日までは、
雑音として切り捨てられたもの。
今は、切れない。
全部が、引っかかる。
「……面倒だな」
そう思った瞬間、
自分に驚いた。
面倒だと感じたのは、
人の声だった。
能力がないと、
世界はうるさい。
午後。
依頼は、ようやく終わった。
報酬を受け取り、
ギルドに戻る。
レイナが、記録を取っていた。
「……今日は、どうでしたか」
問いは、柔らかい。
「……遅かったです」
正直に答えた。
レイナは、ペンを止める。
「不便でしたか」
「……はい」
即答だった。
それから、少し間を置いて。
「でも」
言葉を探す。
「……残りました」
レイナは、何も言わない。
ただ、待っている。
「効率が悪いと、
周りが見えます」
声が、少し震えた。
「昨日までなら、
見なくてよかったものが……」
言葉が詰まる。
「今日は、
見えました」
レイナは、ゆっくり頷いた。
「それは、
弱さですか」
答えは、すぐに出なかった。
夜。
部屋に戻る。
胸の奥は、
今日も静かなままだ。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
その声が来ないことに、
少しだけ、安心する。
ミメルが、足元に来て座る。
今日は、胸元には来ない。
距離がある。
でも、
視線は外さない。
「……なあ」
ミメルに話しかける。
「能力がないと、
俺は弱いな」
返事はない。
それでも、
ミメルは動かなかった。
今日を振り返る。
遅くて、
疲れて、
効率が悪くて。
でも。
人にぶつかって、謝った。
誰かの声を聞いた。
一人で食べた昼を、長く感じた。
全部、昨日までなら削っていた一日だ。
ベッドに横になる。
今日は、能力がなかった。
そのせいで、
俺は弱かった。
でも。
能力がなければ、
今日という一日は、
最初から存在しなかった気がする。
ミメルが、
ほんの少しだけ距離を詰める。
触れない。
でも、離れない。
俺は、はっきりと自覚した。
効率がいいだけの日は、
俺が生きた日じゃない。
(第5話・了)




