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第3話 失っても困らないもの

目を覚ましたとき、夢の内容を思い出せなかった。


 正確には――

 思い出そうとしなかった。


 それが、今までとの違いだった。


 胸の奥で、静かな点灯。


 ――眠る前に、記憶をひとつ選べ。


 昨夜、俺は選んだはずだ。

 「失っても困らない」と思った記憶を。


 それなのに、喪失感はない。

 抜け落ちた感覚も、ほとんど残っていない。


「……」


 寝台から起き上がると、体が軽い。

 軽すぎる。


 ミメルが足元にいた。

 こちらを見上げる瞳が、昨日より澄んでいる。


 ――気のせい、だろ。


 そう判断してしまえるほど、

 今の俺は“整理されすぎて”いた。



 ギルドの朝は騒がしい。


 掲示板の前に人が集まり、

 依頼の紙が重なり合っている。


 俺はその前に立ち、無意識に目を走らせた。


 読む、という感覚がない。

 選別している。


 これは非効率。

 これは割に合う。

 これは不要。


 思考が速い。

 速すぎて、引っかかりがない。


「トオル」


 声をかけてきたのは、カイだった。


「倉庫整理、行くか。

 楽だし、今日中に終わる」


 俺は即座に頷いた。


「問題ない」


 その即答に、

 カイが一瞬だけ目を瞬かせたのを、俺は見逃した。



 倉庫は街の外れにあった。


 壊れた箱、使われなくなった道具、

 誰のものだったか分からない荷物。


 分類して、運び出す。

 作業としては単純だ。


 俺の動きは、やはり早い。


 迷わない。

 立ち止まらない。


「ほんと、無駄がねえな」


 カイが言う。


「考えなくていいって、楽だろ?」


 楽。


 その言葉に、胸が反応しない。


「……楽だな」


 そう答えた自分の声が、少し低かった。


 作業の途中、

 カイがぽつりと話し始めた。


「俺さ、昔はもっと必死だったんだ」


 手を止めずに言う。


「評価されなくても、続けててさ。

 意味があるって、信じたかった」


 俺の手が、一瞬だけ止まった。


 けれど、その理由が分からない。


「でもな、

 続けても何も変わらないって分かると……

 不思議と、楽になる」


 ――誰にも評価されなかった努力。


 昨日捨てた記憶の“ラベル”だけが、

 胸の奥で擦れた。


 中身は、見えない。


「……そうか」


 それしか言えなかった。


 倉庫の奥で、古い日記帳が見つかる。


 破れかけた革表紙。

 中身は、ほとんど白紙。


「これ、どうする?」


 カイが聞く。


 俺は、即座に答えた。


「処分で。

 使い道がありません」


 正しい。

 合理的。


 カイは頷き、

 日記帳を不要物の箱に放り込んだ。


 その瞬間――

 胸の奥が、ほんの一拍だけ遅れて軋んだ。


 理由は分からない。

 困ることもない。


 失っても、困らないはずなのに。



 夕方、ギルドに戻る。


 レイナが記録を取っていた。

 俺を見ると、ペンを止める。


「倉庫整理、完了ですね」


「はい。問題なく」


「……そうですか」


 その“間”が、少し長い。


「トオル」


 名前を呼ばれる。


「今日は……

 少し、怖かったです」


 予想外の言葉だった。


「怖い、ですか」


「ええ」


 レイナは、視線を逸らさずに言う。


「必要なものと、不要なものを、

 あまりに迷わず分けていたので」


 胸が、わずかに痛んだ。


「正しい判断でした」


「ええ。

 だからこそ、です」


 その続きを、彼女は言わなかった。



 夜。


 部屋に戻ると、

 胸の奥が、静かに点灯する。


 ――眠る前に、記憶をひとつ選べ。


 今日は、もう選んだ。

 選んだはずだ。


 なのに、

 “失った実感”がない。


 それが、何より怖い。


 ミメルが、俺の膝に前脚を置いた。

 体温が、昨日より少しだけはっきりしている。


「……なあ」


 俺は、ミメルに話しかける。


「失っても困らないものって、

 本当に、あるのか?」


 答えは返らない。


 ただ、ミメルは動かない。

 否定も、肯定もしない。


 布団に横になり、目を閉じる。


 今日、俺は何かを失った。

 でも、それが何だったのか分からない。


 そして、分からないままでも――

 俺は、普通に生きられてしまう。


 それが、この力の一番の罠だと、

 ようやく理解し始めていた。


 翌日、掲示板には、

 “少し変わった依頼”が貼られていた。


 ――「思い出の品の回収」。


 俺は、まだ知らない。


 “余った思い出”ほど、

 一番重いことを。


(第3話・了)

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― 新着の感想 ―
「失った実感すらない喪失」を描いたことで、能力の本質的な恐怖がはっきりしたと思います。派手な後悔や崩壊がない分、読者だけが「これは取り返しがつかない」と気づく構造が秀逸です。
倉庫整理という地味な舞台で、記憶喪失の怖さを描く手腕が見事。 「処分で」と即答できてしまう主人公に、読者の心も一瞬止まります。 困らないはずなのに、何かが確実に欠けていく感覚が強烈でした。
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