第3話 失っても困らないもの
目を覚ましたとき、夢の内容を思い出せなかった。
正確には――
思い出そうとしなかった。
それが、今までとの違いだった。
胸の奥で、静かな点灯。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
昨夜、俺は選んだはずだ。
「失っても困らない」と思った記憶を。
それなのに、喪失感はない。
抜け落ちた感覚も、ほとんど残っていない。
「……」
寝台から起き上がると、体が軽い。
軽すぎる。
ミメルが足元にいた。
こちらを見上げる瞳が、昨日より澄んでいる。
――気のせい、だろ。
そう判断してしまえるほど、
今の俺は“整理されすぎて”いた。
*
ギルドの朝は騒がしい。
掲示板の前に人が集まり、
依頼の紙が重なり合っている。
俺はその前に立ち、無意識に目を走らせた。
読む、という感覚がない。
選別している。
これは非効率。
これは割に合う。
これは不要。
思考が速い。
速すぎて、引っかかりがない。
「トオル」
声をかけてきたのは、カイだった。
「倉庫整理、行くか。
楽だし、今日中に終わる」
俺は即座に頷いた。
「問題ない」
その即答に、
カイが一瞬だけ目を瞬かせたのを、俺は見逃した。
*
倉庫は街の外れにあった。
壊れた箱、使われなくなった道具、
誰のものだったか分からない荷物。
分類して、運び出す。
作業としては単純だ。
俺の動きは、やはり早い。
迷わない。
立ち止まらない。
「ほんと、無駄がねえな」
カイが言う。
「考えなくていいって、楽だろ?」
楽。
その言葉に、胸が反応しない。
「……楽だな」
そう答えた自分の声が、少し低かった。
作業の途中、
カイがぽつりと話し始めた。
「俺さ、昔はもっと必死だったんだ」
手を止めずに言う。
「評価されなくても、続けててさ。
意味があるって、信じたかった」
俺の手が、一瞬だけ止まった。
けれど、その理由が分からない。
「でもな、
続けても何も変わらないって分かると……
不思議と、楽になる」
――誰にも評価されなかった努力。
昨日捨てた記憶の“ラベル”だけが、
胸の奥で擦れた。
中身は、見えない。
「……そうか」
それしか言えなかった。
倉庫の奥で、古い日記帳が見つかる。
破れかけた革表紙。
中身は、ほとんど白紙。
「これ、どうする?」
カイが聞く。
俺は、即座に答えた。
「処分で。
使い道がありません」
正しい。
合理的。
カイは頷き、
日記帳を不要物の箱に放り込んだ。
その瞬間――
胸の奥が、ほんの一拍だけ遅れて軋んだ。
理由は分からない。
困ることもない。
失っても、困らないはずなのに。
*
夕方、ギルドに戻る。
レイナが記録を取っていた。
俺を見ると、ペンを止める。
「倉庫整理、完了ですね」
「はい。問題なく」
「……そうですか」
その“間”が、少し長い。
「トオル」
名前を呼ばれる。
「今日は……
少し、怖かったです」
予想外の言葉だった。
「怖い、ですか」
「ええ」
レイナは、視線を逸らさずに言う。
「必要なものと、不要なものを、
あまりに迷わず分けていたので」
胸が、わずかに痛んだ。
「正しい判断でした」
「ええ。
だからこそ、です」
その続きを、彼女は言わなかった。
*
夜。
部屋に戻ると、
胸の奥が、静かに点灯する。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
今日は、もう選んだ。
選んだはずだ。
なのに、
“失った実感”がない。
それが、何より怖い。
ミメルが、俺の膝に前脚を置いた。
体温が、昨日より少しだけはっきりしている。
「……なあ」
俺は、ミメルに話しかける。
「失っても困らないものって、
本当に、あるのか?」
答えは返らない。
ただ、ミメルは動かない。
否定も、肯定もしない。
布団に横になり、目を閉じる。
今日、俺は何かを失った。
でも、それが何だったのか分からない。
そして、分からないままでも――
俺は、普通に生きられてしまう。
それが、この力の一番の罠だと、
ようやく理解し始めていた。
翌日、掲示板には、
“少し変わった依頼”が貼られていた。
――「思い出の品の回収」。
俺は、まだ知らない。
“余った思い出”ほど、
一番重いことを。
(第3話・了)




