第1話 捨ててもいいと思った記憶
それは、夢だと思えたら、どれほど楽だっただろう。
そのとき、胸の奥で――何かが、静かに点灯した。
光ではない。
熱でもない。
ただ、「そこにある」と分かる気配だった。
目を閉じているのに、瞼の裏が明るい。
視界が照らされたのではなく、思考そのものを誰かに触れられている感覚。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
声は聞こえない。
音として存在しない。
けれど意味だけが、胸の中心に正確に落ちてきた。
夢だと思った。
ただ、夢にしては、あまりに現実の手触りが揃いすぎていた。
自分の呼吸。
布団の重み。
窓の外で揺れる街灯の光。
そして――胸の上に乗る、柔らかい重み。
「……?」
目を開けると、小さな生き物がいた。
掌に収まるほどの体。淡い灰色の毛並み。丸く深い瞳。
ウサギに似ているが、耳は少し短く、先端がわずかに尖っている。尻尾はふわりと丸い。
生き物は逃げない。
鳴かない。
最初から、そこにいるのが当然みたいに、こちらを見ていた。
「……誰だ、お前」
声が乾く。
生き物は首を傾げただけだった。
――彼は、君の相棒だ。
今度は、説明文のように意味が届いた。
胸の奥に、静かに理解だけが置かれる。
「相棒……?」
半信半疑のまま、そっと手を伸ばす。
触れた毛並みは温かい。体温がある。重さもある。
けれど、その内側にあるはずの鼓動が、どこか“作られた規則”を刻んでいた。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
通知は繰り返される。拒否はできない。
だが、急かしてもいない。
俺は目を閉じる。
すると、いくつもの情景が浮かび上がった。
子どもの頃の部屋。
学校の廊下。
夜のオフィス。
帰り道のコンビニの灯り。
その中で、ひとつだけ妙に輪郭の薄い記憶があった。
――誰にも評価されなかった努力。
何をしていたのか、はっきり思い出せない。
ただ、「続けていた」という感覚だけが残っている。
褒められなかった。
結果が出なかった。
誰の記憶にも残らなかった。
だから軽い。
捨ててもいい。
合理的にそう判断できてしまう自分が、少しだけ怖かった。
「……これでいいか」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷えた。
痛みはない。
ただ、引き出しの中身が一枚、音もなく抜き取られる感覚。
相棒は、俺の胸元に前脚を置いた。
押すでもなく、止めるでもなく。
――明日、君は力を得る。
最後の通知が届いたところで、視界が裏返った。
*
目を開けると、知らない天井があった。
石造りの部屋。木の梁。
空気が違う。乾いていて、土と焚き木の匂いが混じっている。
布団ではなく寝台。
体を支える硬さ。
部屋の隅には、相棒がいた。
昨夜と同じ目で、こちらを見ている。
「……夢じゃないな」
ゆっくり起き上がる。
体は問題なく動く。むしろ、頭が冴えていた。
扉が開き、女が入ってくる。
「起きましたか」
落ち着いた声。
こちらを驚いた目で見ていない。
「ここは?」
「冒険者ギルドの宿舎です。保護のための部屋」
説明が自然に頭に入る。
理解が早い。いつもより、少しだけ。
「あなたの名前を」
名前――。
朝倉湊。
すぐに出るはずのそれが、喉で止まった。
ここが異世界なら。
本名を名乗る理由が、急に曖昧になる。
「……」
迷う時間が、いつもより長い。
「……トオル」
気づけば、そう答えていた。
女――レイナは、ほんの一拍だけ間を置いた。
その一瞬の沈黙が、妙に胸に残る。
「……分かりました。私はレイナ。記録係です」
ミメルが、小さく体を起こした。
「あなたは、行方不明になっていた人に似ています」
胸が小さく跳ねる。
「ノア、という人です」
知らないはずの名前なのに、胸の奥に引っかかる。
「ですが――」
レイナは言葉を飲み込んだ。
「……今は、いいですね」
“今は”という言い方が、妙に刺さった。
*
ギルドは、生活の匂いに満ちていた。
掲示板。革鎧。紙束。薬草。汗。
勇者も魔王もいない代わりに、今日を回すための仕事が並んでいる。
受付のリナは手際がよかった。
「仮登録。仕事は雑務から。嫌なら帰っていい」
俺は頷く。
理解した、というより、前に進めた。
荷運び、整理、掃除。
カイという男と組んで作業する。
やってみて、すぐ分かった。
動きが、やけに合理的だ。
無駄な往復をしない。
順番を自然に組み替えられる。
迷いが、ほとんどない。
便利だ。
確かに、便利だった。
「トオル、仕事早いな」
褒められても、嬉しさが一拍遅れる。
感情より先に、「評価された」という処理が走る。
俺は笑おうとして、少し遅れた。
その遅れに、カイは気づかない。
けれど俺は、はっきり自覚した。
――便利になる代わりに、何かが薄くなる。
夕方、作業は滞りなく終わった。
「助かりました」
レイナが言う。
「……ありがとうございます」
言葉は出た。
だが、“ありがとう”が胸に届くまで、少し時間がかかった。
夜。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろす。
胸の奥が、また点灯する。
――眠る前に、記憶をひとつ選べ。
今日の出来事が浮かぶ。
便利だった自分。
遅れた感情。
捨てれば、また便利になる。
この世界では、それが生きやすさだ。
でも――。
「……今日は、選ばない」
点灯は、弱まった。
消えないが、強制もされない。
ミメルが、声にならない鳴き方をした。
それが肯定に聞こえたのは、俺の都合だろう。
横になり、天井を見る。
捨てた記憶の中身は分からない。
でも、捨てた事実だけは、確かに残っている。
そして、もっと怖いのは。
それでも明日、また捨ててしまう自分がいる気がすることだった。
目を閉じる直前、遠くで紙が貼られる音がした。
ギルドの掲示板だ。
新しい依頼が、張り出された音。
――明日、何かが始まる。
その夜、掲示板に貼られた一枚の依頼が、
俺に「次に捨てるもの」を選ばせることになるとは、
まだ知らなかった。
(第1話・了)
ーーー
※第1話を読んでくださり、ありがとうございます。
この物語では、
「何を得るか」より
「何を軽く見積もってしまうか」を大切に描いていきます。
次話では、“便利であること”が、
はじめて誰かを傷つけます。




