第31話 絶対自我がもたらすルール
『時の揺り籠』。
奈落の時計塔の最深部、直径百メートルを超える巨大なドーム状の空間は、静寂と轟音が同居する異様な聖域だった。
中央に鎮座する巨大な砂時計。その台座に幾重にもとぐろを巻き、侵入者を冷徹な眼光で射抜く巨躯。
『時を喰らう大蛇』。
白い骨格と黄金の歯車が噛み合い、動くたびに「ギチチ……」と空間を削るような駆動音を響かせる。
その胸部、半透明のミスリル装甲の奥では、脈動する星のような青い輝き──『界渡りの羅針盤』が、この塔の全機能を司る心臓として収まっていた。
「……ッ、これが、伝説の……」
イリスディーナが剣を構えたまま、一歩後ずさる。
立ち込める魔力のプレッシャーが、物理的な質量となって肌を刺す。レベル30に満たない彼女たちにとって、レベル90の守護者は、直視するだけで精神を削られる絶望そのものだった。
「気圧されるな」
ラギウスの声が、凍り付いた空気の中を静かに、だが絶対的な確信を持って通った。
彼は懐中時計を高く掲げ、自分たちを包む「正常な時間」の結界を維持しながら、全員を見渡す。
「これより『外科手術』を開始する。戦おうとするな。俺が指定した『作業』を、指定した『タイミング』で、正確に遂行しろ。……それだけで、この怪物は鉄屑に変わる」
その冷静さが、少女たちの心に「勝機」という名の楔を打ち込んだ。
★
最初の一手は、マリアベルだった。
「──『認識改竄』ッ!」
大蛇が口を開き、すべてを風化させる『腐食の吐息』を放とうとした瞬間、マリアベルの魔眼から高密度の精神干渉波が放たれた。
相手は機械と生物のキメラ。心はないが、高度な「演算回路」がある。マリアベルはその中枢に、強烈な「偽の安らぎ」を叩き込んだ。
(貴方は今、とても心地よい微睡みの中にいますの……。牙を剥く必要なんて、どこにもありませんわ……♡)
ギ……ギギ……。大蛇の動きが目に見えて鈍る。敵対認識のラグ。
攻撃を受けているという信号が処理されないため、不死身の権能である『永劫回帰』のトリガーが引かれない。
「今だ! シライシッ!」
弾かれたようにシライシが地を蹴った。大蛇の下顎に肩を入れ、上顎を両手で掴み取る。
「ぬん……ッ!」
バギィィィィィンッ!!
数トンの圧力を誇る機械の顎を、シライシは自らの筋肉と骨を軋ませながら、物理的な怪力だけで封じ込めた。
「分かっている。イリス、行け!」
イリスディーナは大蛇の胴体を駆け上がり、露出した胸部装甲の前に躍り出る。
「斬るのではない。……『溶かす』ッ!」
『青き王火』。本来なら周囲一帯を蒸発させるその熱量を、彼女は一点の針先ほどの極小範囲にまで圧縮し、装甲の継ぎ目に押し当てた。
ジュウウウウッ……!
ダメージ判定を出さない、精密な溶断。
攻撃と認識されれば即座に巻き戻される時間を、彼女の魔力制御が欺いていく。やがて、ミスリルの肋骨が音もなく溶け落ちた。
「ミリア! 手を突っ込め!」
「はいぃぃぃっ!」
ミリアが大蛇の胸の、超高速で回転する歯車の隙間へと手を伸ばす。
ラギウスから教え込まれた「歯車の回転周期」と「魔力接続の接点」。彼女の指先は、迷いなく死の隙間を縫った。
(三番、八番、十二番を同時解除! 今!)
パチン、パチンと、接続が切れる火花が散る。大蛇が痙攣するが、拘束は解けない。
ラギウスは懐中時計を握りしめ、自らの心拍をメトロノームにして、全員のタイミングを同調させ続ける。
「今だ、引き抜けッ!!」
ガシュンッ!!
ミリアの手には、星の海を閉じ込めたような蒼い結晶──『界渡りの羅針盤』が収まっていた。
瞬間、大蛇の全身から光が消え、回転していた歯車が断末魔のような音を立てて停止した。レベル90の守護者は、ただの巨大な鉄の残骸へと成り果て、地面へと崩れ落ちた。
★
「……はぁ、はぁ……っ、取れました、ラギウス様!」
ミリアが結晶を抱え、叫んだ。
全員の身体が震えていた。レベル90を、一人の死者も出さずに「解体」したのだ。
「……あり得ませんわ」
マリアベルが座り込む。
「羽虫が竜を倒せないように、格下は格上に触れることすら叶わないのがこの世界の掟……なのに、どうして」
ラギウスはミリアから羅針盤を受け取り、それを冷淡に見つめた。
彼は知っている。マリアベルの言う「理」の正体を。
(……レベルとは、所詮この世界の表面に張り付いた『アプリケーション』に過ぎない)
ラギウスは、自身の『絶対自我』が捉える世界の構造を反芻する。
(本来、雑魚であるスライムを倒し続けたところで、拳が鋼鉄を砕くようになるなど、物理的にはあり得ない。だが、この世界では『レベルというフラグ』が立つことで、システム側から物理法則を無視した補正が強制付与される。それがこの世界の「強さ」の正体だ)
ならば、逆もまた然り。
レベル差があるからダメージが通らない。という判定もまた、システムが後付けで出力している計算結果に過ぎない。
(だが、どれほど強固なソフトであっても、それを動かしているハードを無視することはできない。熱を与えれば物質は溶け、信号を遮断すれば機械は止まる)
ゲームの世界だ。
しかし、現実だ。
現実には、現実の法則がある。
(俺が『絶対自我』によってシステムの干渉をノイズとして弾き、目の前の事象を『単なる物理現象』として定義し直せば──残るのは、脆弱なハードウェアの理だけだ)
ラギウスが行ったのは戦闘ではない。
世界の運営が敷いた「レベル」という名のフィルターを外し、生身の現実を直接操作するデバッグ作業だ。
(……まぁ、そんな小難しい理屈をこねなくても、要するに『バグを利用したハメ技』だがな)
内心で少しだけ苦笑し、ラギウスは現実に戻った。
「勝ったのは、お前たちが役割を果たしたからだ。それ以外に理由はない」
彼は短く答え、仲間に背を向けた。
「運や奇跡ではない。……『正しい手順』を踏めば、どんな巨像も崩れる。ただそれだけのことだ」
その言葉に、イリスディーナが複雑な表情で笑った。
「貴方は……本当に、この世界を『攻略』しているのですね」
「……買い被りだ。俺はただ、効率を求めているに過ぎない」
ラギウスは一歩、暗闇へと踏み出した。彼の手には、ついに手に入れた『羅針盤』。
「行くぞ。……長居する場所じゃない。俺たちの『事業』を始める時間だ」
奈落の時計塔に、新たな時代の刻みが響き始めた。




