徒人なれば
部屋にいたのは二人の若い男だった。生家からの使いとしてはあまりに若く、何かあったのだろうかと一瞬身構えた。
しかし御簾ごしに霞むようになってきた目を凝らせば、一人の男の頭はこの国ではない金色であることが分かった。
ああ、これがユウコの。
娘に強制的に迎えさせた夫。
当時は表向き娘以外に身分のつりあう者はいないと言っていたが、実際にはただ娘にそういう対象を与えたかっただけだった。
自分が若いころは息子や娘のことなど何一つ気にかけなかった。
ただ生家から毎日のように届く要請に応えることで精一杯で、それを重ねることで周囲の自分に対する評価が変わっていくことが愉快でもあった。しかしそうして揺ぎ無い地位を確保しふと考えれば、自分が何をしたいのか全く分からなかった。そのときには腹を痛めて産んだ子どもたちは既に母の手を必要とせず、侮蔑に満ちた瞳を自分に向けていた。
そんな折にかの国からやってきた皇子が元服を迎え、妻を娶ることになった。
斎宮である娘は純潔であらねばならない。それはこの国の男であれば犯すことが出来ない禁域である。しかし、異国の皇子なら。
誰も自分の言葉に歯向かうことは出来ない。
初めて自分の望みのために立場を利用した。
その皇子が自分の前に頭をたれて畏まっている。粗末に用意された酒盃は歓迎していないことを気付かせているだろうか。
奇妙なこともあるものだな、と思った。
「面を上げよ」
声にゆっくりと反応して二人が顔を上げた。
「お久しゅうございます、皇太后様。私は右大臣家次男の…」
「知っておる。久しいのぅ、榊。妾が家にいたころはまだ幼子であったが…今では政に携わる歳となったか。お父上はご健在か?」
意図して横に控える砂漠の皇子から話題を逸らす。娘に宛がった男を見定めたいという今更な思いがなかったと言えば嘘になる。
「ありがとうございます。父も相変わらずです。それで…」
「そなたもそろそろ北の方を定めなければならない歳。いつまでも噂を流しているのはお父上も感心しないでしょう」
「ご心配痛み入ります。それで…」
「お初にお目にかかります、皇太后様。リュミシャール国皇子、レイシアと申します。
本日は皇太后様のお力をお貸しいただきたく、ご足労願いました」
話に割り込んだとは思えないほど堂々とした声。
御簾ごしにでもはっきりと分かるほど、まっすぐにこちらを見ている。
「天帝!!」
友人の無礼に焦ったように榊が声をかけるが、まったく意に介した様子もない。
当然だ。
この皇子がこの国で気を使わなければならない相手がいるとしたらそれは帝くらいだろう。それほどこの皇子が背負っているものは強大だ。
「天帝…とな。成る程上手い名を付けられたものだ。
聞こう、天帝の君。妾の力を貸すかどうかはその後で決める。よろしいな?」
「勿論です。ですがその前に一つ、よろしいでしょうか」
御簾の奥で影が動いた。
その次の瞬間、小刀が顔の脇をすり抜けて背後の壁に突き刺さり、がたりと人が動く音がした。壊れた御簾の間から、琥珀の目が眇められる様子が見えた。
「…いつから気付いておった?」
背後の壁はそう見せかけているだけで、常に護衛の者が控えて中を伺うことが出来るように紙一枚が張ってあるだけだ。今まで気付いた者は誰もいなかったのだが。
「はじめは小さな違和感でしたが、外から見た様子と中からでは奥行きが僅かに異なっていますから。
決定打は畳の幅です。遠近があるので判断に迷いましたが、奥一列のものだけ幅が狭くなっている。ちょうど…人一人が潜める程度に」
「それだけか?それでは実際に潜んでいるかはわからない。誰もいなかったとき、妾に向けて刀を向けた責任、どう取る心算であった?」
「別に」
「天帝!!」
至って簡潔な答えに、横で見守っていた榊がついに声を荒げた。
「耳元でそんな大声を出すな。老人じゃないんだ、普通に話せば十分聞こえる。
あぁ、それで?皇太后。別に責任なんか取りませんよ。謝りはするでしょうが」
許可なく勝手に足を崩し、窮屈だなんだといって首元をくつろげる。一応の形式ばった挨拶が済んでしまえば、自分はこの皇子にとって敬意を払うべき存在ではないらしい。
「そなたは…野生の獣じゃな」
「褒め言葉として受け取りますよ。飼い犬になって誰彼構わず尾を振る心算はありません」
飄々と嘯く。
面白い、と思った。誰もが自分の機嫌を伺い傅かれることが当たり前になっている中で、この皇子はなんと自由なことか。
この皇子、何も知らぬような顔をしてどれほどの修羅場を潜り抜けてきたのか。無意識に建物の構造を把握し、巧妙に隠された違和感に気付かずにはいられないほどの。
「ですので、コレも頂くことはできません」
そういって皇子は用意された酒を無造作に床に溢した。強い空気に触れて強い異臭を放つそれは、木目を溶かし緑色の染みを広げていく。
流石にこれには驚愕した。皇子が気付いたことではなく、こんなことがされていたということに。榊は顔色をなくしている。
「これほどあからさまであれば飲みは致しませんが、流石に私でも死にますよ。この毒は」
「……このことは妾の指示ではない」
「存じております。これほどわかりやすい手を使うほど、影の権力者が愚かとは思いません」
それは屋敷の者を管理し切れていないことへの皮肉なのか。しかしそんな表情はうかがうことが出来ない。ただ単に事実を伝えているかのような、そっけなさ。
「榊。傍にいるのも一筋縄ではいかんな」
「……こいつに首輪を付けることが出来るのは、お一人だけですから」
「ユウコが内裏にいることはご存知ですね?」
内裏にいるかでもどこにいるか知らないかでもなく、居場所を断定したうえで疑問を投げかける。
そこに政治的な駆け引きなど存在しない。いっそ愚かしいばかりの清々しさ。
「…いたとしても不思議はないな。アレは斎宮だ。必要があれば帝のそばにおろう」
「そうではなく……、ユウコの意思ではないはずだ。
私はユウコを助け出したい。力を貸してください」
「おい…っ」
あまりに直球な物言いに、流石に榊が肩を揺すった。
それを意に介さず、皇子は思うところを話した。それらの多くはおおよその事実と合っているが、一つだけ皇子にも自分にも判断できないことがある。
「妾には、ユウコの思いはわからぬ。
それにそなたの言う通りのことをすれば、妾はもう一人のわが子を傷つけることになろう」
この言葉に皇子の顔がわかりやすく歪んだ。
成る程美しい顔は歪んでも美しいものか。しかしその口から吐き出された言葉は顔に全く不似合いだ。
「貴女の事情は知ったこっちゃない。貴女の優先順位も同様に。
僕はユウコさえ十全なら後の瑣末はどうでもいいんですよ」
「そなた…数々の浮名を流しておきながら、どの口が」
「僕に厄介な縛りをかけたのはどこの国のどこのお偉方でしょうね?
それに先程から貴女はなにか勘違いしているようです。僕は貴女に『お願い』をしているわけではないんですよ」
一旦言葉を切って、酷薄な表情を浮かべた顔を上げる。
その時初めて先程までは単刀直入が過ぎるとさえ思っていた若造を、恐ろしいと思った。飾らない言葉は、その必要がないから。
「貴女に力を貸せと言っているんです。手荒な真似は趣味じゃない…特に女性に対しては。
いかがですか?皇太后様」
「ほぅ。その身一つで何が出来る。自惚れるでないぞ、砂漠の皇子」
「自惚れ…ね」
場にそぐわぬ面白くてたまらない、といった声で呟きが漏れた。
「そういえば、先程投げた刀、取っていただいてもよろしいでしょうか?女性の側にあるべきものではございませんから」
急に変わった話題には、何か裏があるとも思えなかった。
「僕が中に入ることは出来ません。申し訳ありませんが、お願いいたします」
多少訝しがりながらも壁に深々と突き刺さった小刀を引き抜き、御簾の下から差し出した。
視界に鮮やかな金色。
そう認識したときには既に強く腕を引かれ囚われていた。御簾の内から引きずり出され無様に床に這う。
当然、小刀は相手の手の中にある。
「天帝っ!何をっ」
「来るなっ!!」
腰を浮かしかけた榊を一喝し、砂漠の皇子はゆっくりと視線を上げた。
「ご無礼をお許しください、皇太后様」
「……いけ図々しいわ。手荒な真似は好まぬのではなかったか?」
「勿論、貴女にはそんな真似はしませんよ。貴女が傷つけばユウコが悲しむかもしれない」
そう言って先程奪ったばかりの小刀を、己の首筋にゆっくりと押し当てた。
紅い玉が浮き上がり、筋となって零れ落ちる。
「…気が狂ったかっ!何を!!」
咄嗟に刀を奪い取り、叫んだ。
あっさりと刀を手放した皇子は、嫣然と微笑む。
「さて、人を呼びましょうか?」
「……何?」
傷口を押さえることもなく、鮮血が衣を染めていくのを気にもせず。
「刀は今、貴女の手にある。人が来たら、どう思うでしょうね?」




