消えない轍を刻む道【その3】 ~ 二つの名前の物語
その人は独り、エリガルの中心地に立っていた。清冽な空気を纏う秀麗な姿は、遠目には分からないまでも微笑みさえ浮かべている。
「ここにおられましたか、《茨》殿。ラエト総将より、伝達です」
「ありがとうございます、ロブル殿。陣営は予定通りですか?」
「はい――『後はお任せする』とのことです」
「分かりました……。では、ロブル殿も後衛にお下がりください。後は異人――《人ならぬもの》にお任せを」
柔らかい微笑み。だが短い付き合いではあるが、ロブルはそれが偽りの笑みであることを知っていた。
穏やかなようでいて、優しいようでいて。しかし、何もかもを拒絶する絶対的な壁。心預けること無く、気を許すこと無く、意識的に人と壁を作り、自らを孤立させるための笑み。
その壁はロブル達にも向けられている。異能の力に対する忌避ではなく、“自分と同じ”と思わせないための拒絶。その心がロブルには悲しかった。
「……《茨》殿。わたし達にも、あなたを手伝うことを許してはいただけませんか? あなた一人、全てを背負われることはないはずです」
ロブルは、目の前の青年が与えてくれた、彼ら異能者に対する限りない愛情と気遣いを感じ取っている。自分一人を“怪物”として際立たせ、そのことで自分たち“異能者”への意識を薄めさせる――その配慮を感じていない仲間は誰一人いない。
だからこそ、彼らも青年と共に戦いたかった。だが、ラエトを通し青年が指示するものは、全て後方支援や側面支援。 “血の流れる現場”に彼らが立つことを、決して許さないスーリザスだった。
「ロブル殿。――誤解しないでいただきたい。貴方がたを前線に出さないのは、配慮でも温情でもありません。貴方がたの力は代え難い戦力ですが、容易に頼ってはならない力です。
なにより、貴方がたの力は《誰も傷つけぬ力》――本来、戦場で振るうべき力ではないのです。貴方がたでは、敵を傷つけ、敵の血を流すことは叶わない。今の我々には、そんな悠長な戦いは許されていないのですよ」
冷淡さを極めたスーリザスの言葉に、ロブルはグッと言葉に詰まった。それは事実だ。彼ら異能者に与えられた力は「盟約の神々」によるもの。よって、人を直接傷つけることは不可能な力。目の前に立つ彼、《茨の怪物》が有するものとは、根本的に異なる力なのだ。
《茨の怪物》の力が、何に由縁するものなのかは、誰も知らない。
分かっていることは、目の前の青年が圧倒的な異能の力を発し、人を傷つけることが出来るということだけだ。フサルク神の恩寵者である【神力者】たちですら叶わぬ、人の命さえ奪いうる力。
それ故に、青年は《茨の怪物》と自らを称し、周囲にもそう呼ばせた。……親しい者達は、せめてもの感情の発露として単に《茨》とだけ呼んでいるが。
自分たちの力を凌駕する、本物の“人に非ざる”異能の力。それが目の前に示されたが故に、自分たちの“ささやかな異能”は受け入れられた。
本能的な忌避は仕方ないまでにしても、その力を“役に立つ者”、“自分たちを脅かさぬ者”として、ここルーンの大地に集った人々は受け入れてくれた。この地で初めて、彼ら異能者は「人」として受け入れてもらえたのだ。
「ラエト殿に伝達を。あちらが瓦解した後は早急に兵をまとめ、イニショーウェン川まで退いて下さい。そことラフエスク城塞に兵の半数を残し、ウェネティに対するファリスクの出方を待ちましょう。残りはグレンヴェー領のクマエ殿の元に戻し、ゲルタハトなどの都市の整備にあたらせて下さい。ウェネティが乱れれば、今以上の難民が生じます。受入体勢を早急に整えねば。ここの“後始末”は私が行います」
「我らも――」
「ロブル殿、何度も言わせないで下さい。……貴方がたが成すべきことは、貴方がたを信じルーンの大地に集った民を守り導くこと。愚かな争いに関わってはならないのです」
《茨》の青年の言にはとりつく島も無い。柔らかいようで冷厳さを失わないその言葉に、ロブルは頷くしかなかった。だが素直に退く気はない。確かに“戦闘”には関われない。だが“見守る”ことはできる。彼を独りにしたくない。彼ら異能者は、ずっと迫害され忌避されてきた。だからこそ、“孤独”がもたらすものを知っていた。
唇を噛み締めて気持ちを押し殺し、その他に幾つかの指示を受け取った後、ロブルは《転移》の体勢に入る。それをスーリザスが不意に止めた。内心の思いを気付かれたかと、ロブルは焦る。
「《茨》殿? まだ何か?」
「これを――」
青年が差し出したのは、彼が持っていたわずかな荷。水袋と多少の食料、そして治療に備えた布などが入った軍装品の布袋だった。
「食べることも、眠りにつくことさえ不要な私には、もとより必要の無い物です。あっても邪魔になります、他の者に回して下さい。そして、これも」
荷袋をロブルに抱えさせ、さらに彼はロブルを覆うように、着ていた軍用合羽を脱ぎ捨てその身にかけた。秀麗なその姿に似合った上質で華麗なそれは、スーリザスがウェネティ使国で与えられ、ここに集ってからもずっと着用してきたものだ。フサルク神の黒色とウェネティ王家の銀色を基調にした綾織物に、彼の髪と目と同じ色糸で豪奢な刺繍が施されている。
「もう要らないでしょう。私の目印としては十分役立ちました。誰か欲しい者がいれば、その者に。そうですね、ミッスルトゥにお願いして、袋にでも作り直してもらいましょうか」
あくまで柔やかな声色のまま、口出しも拒絶も許さない強さで、彼は一式をロブルに押しつける。そして微笑んだ。
「では、ロブル殿。皆をお願いいたします」
両手に荷を押しつけられた状態では、《転移》が出来ない。ロブルはその腕を空けるために荷を抱え直した。と、その動きにつられて、被された合羽がその肩から滑り落ちる。上質な生地と華麗な装飾に彩られているが故に見た目より重いそれは、ドサッという音と、カツンという固い音を立てて大地に落ちた。
「……何か壊れ……? あぁ、なんてこと。申し訳ありませんっ」
慌てて拾い上げた合羽そのものは多少土がついただけだったが、肩留めが落ちた拍子に石に当たり、はめ込まれた最も大きな貴石がひび割れていた。見事に虹色の遊色が輝く、握り込めるほどの大きさの石の縁を、青の貴石と金細工の茨が取り囲む意匠の留め具。その中央にあった “火”が輝く乳白色の蛋白石が無残に壊れていた。
思わぬ失態に動揺するロブルだったが、スーリザスは何も気にすることがない態度で、壊れた留め具を合羽から外してその手に取った。
「この石は元々弱いもの……気にすることはありませんよ。いつか壊れてしかるべきものです。すみません、ロブル殿。多くの荷を負わせてしまいましたね。それでは、後はお任せ下さい。お気をつけて」
その手に壊れた石を握りしめながら、スーリザスは平静の“穏やかな笑み”でもってロブルを送り出した。軽く礼を返し、彼の姿は一陣の風と共に消え失せる。自らの身を抱き込む際にロブルが見せた、何かを決意した表情を、スーリザスは見ることがなかった。
誰もいなくなった野に立ち、スーリザスはじっと空を見上げた。高く、蒼穹を雲が流れてゆく。“目印”ともなっていた軍用合羽無き今、彼を包むのは簡素な衣服だけだ。革鎧さえ着けぬ麻の上着と脚衣、目立つ色も飾りもないその服装は、虜囚を思わせるものだった。
やがて彼は視線を戻し、手に握り込んだ留め具をじっと見つめる。そして、先ほどの落下でひび割れた蛋白石から、取り囲む金の茨を取り去った。そのまま金細工の金具を無造作に大地に投げ捨て、ひび割れながらも美しい遊色を煌めかせるその石を、そっと顔に近づける。
優しく目を細め、形のよい口元に寄せて、愛おしげな笑みをその石に向ける。唇が優しく石に触れた。
――だが次の瞬間、強く握り込んだその石を、彼は力の限り大地に叩きつけた。
キンッと固い音が響く。
足元の岩場にあたって、今度こそ石は割れた。数個に分かたれた欠片が、陽光を映して煌めく。
凍り付いた無表情に変わった白皙の美貌は、ただ静かに大地に散らばるその欠片を見つめていた。
しばらくして、彼は大地に膝をつき、その欠片を拾い集めはじめた。かけがえのない大切なものを手にする仕草で、至極丁寧に。再び白く滑らかな手のひらに石が戻る。砕けた石の欠片は、茨の棘のような鋭い突起を閃かせていた。
そんな欠片を片方の手のひらに載せ――スーリザスは、そのまま手を強く、固く、握りしめた。
指の間から、赤いものが流れ出る。鮮やかな生命の色。
白い腕を伝い、色の無い袖を染めていく赤い流れに構うこと無く、スーリザスは視線を遠く南に向けた。
進軍の音。馬の嘶きと、武器の金属音。風にはためく旗の音。鋲靴が大地を踏みにじる音と、恐怖と昂揚が混ざり合った人の声。それらが風にのって運ばれてくる。
――やがて惨劇が始まる。
後世、「エリガルの惨劇」もしくは「茨の虐殺」と呼ばれることになる、運命の時。
《始まりの終わり》であり《終わりの始まり》である、その時。
始めと終わりが結ばれ、解き放たれること無き新たな連環をなす、新しい日常がやがて訪れるーー。




