消えない轍を刻む道【その1】 ~ 二つの名前の物語
【外伝】(別物語)作品です。
【本編】を読了されてから、お読みいただくことをお勧めいたします。(本編のネタバレを前提としています)
また、本編には僅かながら存在した“ほのぼの感”がない、完全シリアス作品です。ご了承下さい。
冴え渡る蒼穹を映した水面は、鏡のように周囲を映し出していた。色付いた葉はすでに落ち、梢の間を冬の弱い光が通ってゆく。
冬至まではまだしばらくあるとはいえ、大気は澄んだ冷たさをたたえ大地は眠りにつく支度を調えている。
街道を外れた泉の側。時折、北からの渡り鳥が水面に影を落とす他は、静まりかえったその水面に映るものは、その畔に立つ人物の姿ばかり。
誰かを待つ風情で佇み、目を伏せて風の声を聞く。長い睫が作る影が、その白皙の肌に落ちる。冷たい風にあてられながら赤らむこともない頬は、すでに新しく降り積もった北の葱領の雪渓を思わせた。
一陣の風が吹き付ける。やがて開かれた瞳は、水面に映る蒼穹の青。厳しい視線は、一度空を見上げた後、波だって揺らめく投影の我が身に向けられた。
――ずっと変わらない、その姿が自分を見つめ返す。
現在ソーンが居るのは、オガム地方から南西に向かったルーニック本領グレンヴェー地方を通る街道だ。国内を行き交う数ある街道の一つ。もっとも近い都市グウィドーからは、南部国境地帯へと続く街道が延び、北西に向かえばやがて王都に至る。その都公路を半日ほど進んだ先の、なんでもないような森の外れだ。別にこの場所そのものに用があるわけではない。ただ、待っているだけのことだ。
公式には『先に王都に居る』ことになっているソーンはともかく、アンスーズは“第25隊の隊長”としての職務が残されていた。還元の火祭りを過ぎ、正式に辞令が明らかとなってからの引き継ぎ処理を終えるまでは、アラグレンの兵営を離れることはできない。
自分たちの時とは違い、慣例通りに一足先に赴任した“新しい隊長の補佐官”との間で、有能な部下達――兵営長や所長、事務官たちの為すがままに、なんとか引き継ぎ処理を終えたはずの前隊長”との合流を待っている。
多分、所属こそ違え同じ南部戦線に異動となったイースやラーグ、そしてティールの三人組とは、途中グウィドーまで共にやってきたであろう。……彼らが素直に隊長から離れるとは思えなかった。
そこから別れ、南に向かわざるを得ない彼らを、アンスーズは上手く撒いてきているのか。否、撒こうとする気があるのかどうか。そこが心配ではあるが、いざとなればどうとでもなる。また班長二人はともかく、ティールは薄々“自分たちに関わること”の危うさに気付いているはずだ。
『知るには、まだ、早い』という事実を。
ここで、長く息づいてきた。そして“種”を蒔いてきた。ルーニック国の上層部のそこかしこには、“彼ら”のことを知る人物がいる。現在の軍団司令もその一人――かつて共に軍団を率いた彼のように、離れてやがてこの国を導く者となる時、知ることになるのだ。
ソーンは遠く空を見上げる。冴える蒼穹の青。自分と同じ瞳の色から、髪の色と同じ薄い金色に輝く陽光が降り注ぎ、水面に反射させる。
水面に映るのは、変わらない彼の姿。
自分の容姿が、客観的に優れているものとされることは知っている。それ故に、凄惨とも言える生を歩み、やがてそれを利用する術を覚えた。彼にとって、容姿は武器の一つに過ぎない。自分が生きるための、自分の望みを叶えるための、単なる道具。
あの時まで、ずっとそうだった。
秀麗、玲瓏、さまざまに褒めそやされて、ある時には怖れられてきたその容貌は、変わらないまま。
あの時から、ずっと。
あの色を与えられてきてから、ずっと。
初めて意味を持つものとして感じられるようになってから、ずっと。
ザァっと風が水面を揺らす。さざめく波に、映し身の姿が歪む。遠く、渡り鳥の声。水面の煌めきが、虹色に光る。
やがて水面は再び鏡のように凪ぎ、再び秀麗な彼の姿を映し出す。そこに映る色は、乳白色の中に虹の遊色を秘めた蛋白石と、太古の闇の中に揺らめく黒の遊色。容貌はそのままに、色だけが人に非ざる気配を纏う。
その姿を泉の鏡面に映しだし、ソーンは満足げに微笑んだ。
――忘れることも、手放すこともない、この色を。
この色を与えられ、この名を与えられ。
いつまでも消えない轍をこの大地に刻みながら、いつまでも。
『――手放さない。私は永久に、御方の“茨の鎖”だ』
遠い日の誓約。
まだ果たされない願いと、この姿と色を纏い、ずっと側にあり続けるもの。
思い直すことも、振り返ることも、後悔することもない。その遠き日を、ソーンは水面の影に問いかけた――。
* * *
「あちらの状況は?」
「少なくとも五軍団、万を超える規模との報告です。20日ほどでドニゴールを抜け、エリガルの野に至るかと」
「――未だ“国”とすら呼べぬ勢力に対し、大層なことだ。それほどの兵力をこちらに回せば、これ幸いと足元を掬われるだろうに」
斥候部隊からの報告を受けながら、軍装の男達が急ごしらえの城塞を歩んでいた。報告内容に苦笑いを浮かべる強靭な肢体の壮年の男は、幾つかの指示を共に歩んでいた配下の者に与え、それぞれを部隊に散らしてゆく。長く軍籍にあり、多くの戦場で生き抜き、指揮官として優れた能力を示してきた彼にしてみれば、いささか複雑な心境となる現状だ。
「……全体で見れば愚かしく、こちらにとっては有難い限りだが……当面は楽ではないな」
「――その心配は不要です。これは何の意義も無い戦い。大義も権益もあるとは言えません。あるとすれば、《使国》としての矜持と、愚かな女の妄執だけです。怖れることはないでしょう……“力”を示されれば、容易に瓦解するはずです」
付き従っていた前線指揮官たちが男の指示に従い退去した後も、ただ一人残っていた青年は冷厳な声で答えを返す。その長躯には弱さを感じさせるものはないが、場に見合わぬ典雅な軍用合羽とその容姿の秀麗さが、一際目立つ。
「ラエト将軍……いえ、ラエト殿。私のことは気にする必要はありません。我々がいま成すべきことは、この大地を守り抜くこと。貴方が一番ご存じのように、ウェネティは使国としても、もはや力はありません。国を維持することは出来ないでしょう。ここで我々に退けられることになれば、後はファリスクが勝手に滅ぼしてくれます。
我々の国は、そうなって初めて建つことが叶います。今は、ここ“ルーン”の大地に根を下ろし、人々が帰属する場所を作り上げることに勝る仕事はないのです。
――そのためならば、私はどのようなことでも成しましょう」
「……スーリザス。我らはあなたを道具にはしたくないのだ」
顔色一つ変えること無く言葉を紡ぐ青年を、ラエトと呼ばれた男は苦渋に満ちた表情と声で遮った。だがそれに構うこと無く、秀麗な青年――スーリザスは彼を見据えながら言葉を続ける。その表情は、誰か遠くを見返す酷薄な笑みを浮かべているが、だからこそ怖ろしいまでに冴え渡った美貌だった。
「ラエト殿。いい加減にお分かり下さい。……“私”は貴方がたの“武器”です。グレンヴェー君侯のクマエ殿を王と仰ぎ、この地に“人間の国”を作り出すための、単なる道具です。もう、その名で私を呼ぶこともなりません」
「違う、あなたは……」
「違いませんよ。私は、過去にも“人”として扱われたためしなどありません。
あの愚王とその取り巻き共は、私というお気に入りの“生き人形”を取り戻すためならば、どれほど周囲が止めようとも軍を出してくることでしょう……この身体一つで容易く誘い込めるほどに愚かな支配者達などに、もはや誰も従いません――貴方のように。ウェネティ使国は滅びます。私はその武器となるために、ここに居るのです」
揺るぎない強い意志が、刃のように言葉に載せられる。ラエトは、彼の瞳に込められた冴え凍る憎悪と忌諱に、たじろいだ。
レト・クレス・ラエトは、ウェネティ使国の将軍であった身であり、国の中枢にも近かった。それ故、スーリザスが置かれてきた立場を知っている。その生き様も知っている。
だからこそ、如何ともしがたい過去と現状を悔いることはあれども、今の彼を止めることなど出来はしない。
グッと言葉に詰まって複雑な表情を浮かべるラエトに、スーリザスは人形のように感情のない瞳のままで、ほの昏い微笑みを向けた。
「エリガルの野に敵を集めて下さい。その後はこの私……《茨の怪物》の役目です」
見惚れるような動作で礼をとり、スーリザスは踵を返してラエトの元を辞そうとした。その背に、苦渋に満ちた声がかかる。
「……スーリザス。諦めることばかりを、上手くなる必要はないのだぞ」
ラエトもまた成すべき目的を持ち、築き上げてきたものを捨て、全てを賭けて現状に臨んでいる。その為には、《茨の怪物》をという強大な力を行使しない、という選択肢はない。その“武器”を使わねばならない。
だが、その為に踏みにじってよいものもないはずだ。目の前の彼を、その尊厳を、人としての生を――。
「――ラエト殿。あの地での私が、貴方の目にどのように映っていたのか知りませんが。
私は一度たりとも、何かを諦めたことはありませんよ」
振り返ることもなく告げられたスーリザスの言葉は、その瞳と同じ蒼穹の青に吸い込まれて消えていった。
『2つの名前の物語』編、突然ですがスタートです。
ある意味、本作の全体構想である【異人の書】の《始まりの物語》でもあります。
本編『隊長さん』とは大きく趣が異なりますが、お楽しみいただければ幸いです。




