人の間の、引力の虹【その10】
「ここ、オガムはさ。蛮地とも言われてきたけど、古いんだよ。盟約の神々が闊歩していた頃の伝統とか伝承とかも一杯残ってるしさ」
「フサルク神が人を守って下さるのは有難いけど、でも神様はともかく、神殿からは特に何もされないしなー。ルーニックは『人間の国』なんだよ、国是が。だから、どんな神様の力でも別に何とも思わないかなー?」
「とか言って、エイリム。お前、最初はフェフ副長の力にすっごい怯えてたじゃないか」
「そりゃ、デューアさん。知らないものは誰だって怖いでしょう! でも副長は『知らない』相手じゃなくなったし、別に悪さするわけじゃないし。第一、ドルヴィの力なんて、基本的に人には何も影響しないじゃないか。もう怖くないさ!」
「へー? ご本人を前にして言うねえ。格好つけちゃって!」
案の定、最も積極的に話しかけ会話を主導していったのはエイリムだった。彼は好奇心が旺盛で、真面目さもあるが、ほどほどに“不真面目さ”を楽しむ性格だ。自分から最初の一歩を踏み出すことは少ないが、何かきっかけがあればすぐに便乗して場を乗っ取る。幼馴染みであるオウンは暴走しがちで、それにいつも便乗してきたのがエイリムだった。
それでもナウディーザに必要以上に気負わせないように、フェフとネテルが話題を調整しながらその場は和んでゆく。時折ウリヤンド所長とデューアが補足的な説明を入れ、ナウディーザが話題から取り残されることがないよう、また圧倒されないように引き戻していた。
「ルーニックがある大地は、もともとオガムと並列する蛮地なんだよ。盟約の神々の眠る地、とされる太古の大地。使国からすれば悪の大地。だからこそ、今も悪意は絶えないってこと」
最初は自己紹介から、そしてそれぞれの出身地の特徴や家族の話などで始まった話は、やがてルーニック国とオガム地方に関する伝承に移っていった。古人の末裔であるナウディーザに『特異さ』を感じさせないように、穏やかに。
「ルーニックが建国されたのは、100年ほど前です。現在の王で六代目の、まだまだ若い国ですよ。建国王とその協力者達は、使国同士の壮絶な支配権争いと、それに派生する圧政からようよう逃れ得た人々を導き、使国の支配下になかったこのルーンの大地に根を下ろしました。だからこそ、神ではなく『人』を尊ぶ国なのです」
ウリヤンドが丁寧にナウディーザに建国伝承を語る。ルーニックの民なら誰でも知っている伝承。おとぎ話にも似たその話に、ナウディーザは興味深く聞き入った。
「この地に使国の手が及ばなかったのは、『怪物』が居たからだと言われています。それを建国王達は排除した。その際に力を貸したのが、異能の力を持つが故に隠れ潜んでいた能力者だったと言います。建国後、王は彼ら異能者を『国民』として受け入れました。それがフェフ副長達【能力者】の最初ですよ」
「……怪物?」
「ええ、伝承でしか伝わらないものですが、ルーニックでは『茨の怪物』と呼ばれています。圧倒的な力を持ち、何もかもを消し去る、大いなる力を持っていた怪物。それがルーンの大地にありました。ルーニックの建国者達を追い、この地に侵攻した1万もの使国の兵達を、一瞬のうちに消し去ったとも伝わっています」
「そんな、怪物が、どうして、使国の兵を?」
「それを成し遂げたのが、異能者だと。恐るべき怪物の力を、彼は自らの力として振るったそうです。しかしその代償として、使国兵のみならず多くの民と大地も傷ついた。故に、怪物は封ぜられた。もう二度と行使できない『怪物の力』の代わりに、『異能者の力』を国の力としたのが【ドルヴィ】です」
じっと耳を傾ける彼女の横顔を見つめながら、フェフも耳を傾ける。他者の口から語られる“自分たち”の祖の話。血のつながりはないが、全てのドルヴィ達は「家族」として扱われてきた。その思いを胸に、フェフはただナウディーザを気遣いながら一緒に話を聞く。だが、その穏やかで幸せな心境を揺るがせたのは――ある一言だった。
「オガムにも『茨の怪物』の伝承は残ってるんだよ? ルーニックという国ができる際の、その化け物による惨劇は、こっちにも伝わっているんだ」
「子どもの頃には、結構脅かされたよねー? 悪いことすると『怪物が起きてくるぞーっ』って」
「そんな叱られ方するの、クワートだけじゃないか? お前、本当に怖がりだよな」
「ほっといて下さい! オレにとって『茨の怪物スリザス』の伝承は、幼い頃からの恐怖心の塊なんです!」
「っ!! ……クワート、今、なんて?!」
急に立ち上がって声を発したフェフ副長に、ナウディーザも皆も驚いて目を剥いた。その表情には、信じられないものを見聞きしたような激しい動揺が浮かんでいる。
「なにって? どうしたんです、フェフ副長? 別に当たり前のことじゃないんですか?」
「そうじゃなくて、名前っ 『茨の怪物』を、なんて呼んだ?」
ルーニック国では、ある種の畏敬もあったのだろう。彼の怪物は『茨の怪物』としか呼ばれてこなかった。それが名付いていたなんて知らない。
「え……『茨の怪物』ですか? オガムでは普通に呼ばれてますよ?」
切羽詰まった表情で視線を向けるフェフに、同意するように他の皆も肯く。ウリヤンドですら肯定したのを見て、フェフは脱力したように座り込んだ。表情が青ざめている。
「……フェフ、どうしたの?」
その手に、そっとナウディーザが触れた。その微かに震える感触に少しだけ動揺が収まるが、フェフの心境は嵐のようだった。
――分かった。全てが繋がった。
伝承には歪みも生じるだろう。だから今まで気付かなかった。
でも、その名が示す真実は……きっとフェフが今思い描いているものと、それほど変わらないに違いない。
やっと分かった。あの人の、嘆きの言葉の意味が。
「フェフ副長? 気分が悪いのですか?」
「……すみません、ウリヤンドさん。みっともない姿を見せました。――ちょっと、思いがけないことに思い当たったので。ごめん、みんな。ごめん、ナディ。びっくりさせたね。――話を続けて下さい。大丈夫です」
無理をしている風に見えないよう、フェフは必死で表情を作った。訝しげな所長は眉根を寄せたが、他の四人は腑に落ちないものを感じながらも、ナウディーザを囲む会話を再開させる。フェフは作った笑顔を見せて座り直し、膝の上でギュッと手を握りしめる。拳の中で爪が突き刺さる。
そんな固い拳に、そっと隣から手が伸びる。優しい感触。卓の下で重ねられる、わずかな温もり。そこから得られる熱はフェフの心を和らげてくれた。それでも泣きたかった。
同じ名で呼ばれる、伝承の怪物。
『自分のようには、なるな』という慟哭。
『人でなくなったもの』という自嘲。
あの日に聞いた『茨の鎖』という呼称。
それらから導き出された一つの考えは――真実とするにはあまりに残酷で、あまりに哀しすぎた。自分は、自分たちは、どれほどの責をあの人に負わせてきたのだろう、負わされてきたのだろう。
ナウディーザを囲む団欒は続く。だが、彼女は自分の手の下にある哀しみを感じ取っていた。そして――目に付かないところで彼らを見守っていたアンスーズ隊長の瞳には、小昏い漆黒の闇が浮かんでいた。
明日の夜、還元の火祭りが訪れる。
全てを変容させ、還元する宵が――。
* * *
「来る朝に、よい変容を」
「過ぎる夜に、全てを還さんことを」
ルーニックやオガムで還元の火祭りの宵に交わされる挨拶は、独特だ。サムハインの夜には、全てが新しくなると考えられている。還元と変容。人として、常に変わりゆくことが出来る者としての喜びを、この夜に讃えるのだ。
アラグレンの町では夜祭りが開かれる。夜通しかがり火を焚き、歌い、踊り、来たるべき新しい朝を迎えるのだ。
当然、町はいつになく喧噪を極める。よって、この夜に合わせて隊員達は町の詰め所に増派される。一日前倒しで交替の班が先に町に入り、サムハインの翌日までは二つの班で町を警護するのだ。
ナウディーザと団欒を共にしたエイリムとクワートを含む第一班は、会が終わった後にすぐ町へと向かった。またウリヤンド所長も、この日から本来の「所長職」に戻る為、今日は出勤しない。今夜兵営に滞在するのは、隊長とフェフ副長とナウディーザ、そしてアラグレンに家族の居ない第二班の兵4名だけだ。
「いつもと違って、食事の支度が楽ですねー」
「その分、手が足りないけどな。おい、ウルツ! そっち、吹きこぼれてる!」
「わっとっと。うーん、班は違うがこういう時には、エイリムが欲しい」
「確かにあいつが一番料理は上手いが、それ以上にあいつはうるさい。いらん」
必然的に軍団兵が居残ることになる兵営では、それでも残された者達なりに祭を楽しもうと、夕食作成に力を入れる。だが今回居残った第二班の面々は、料理が得意でない。結局、いつもとはそれほど変わらない品揃えになった夕食だった。
それでもいつもよりは品の良い酒がだされ、食卓を照らす灯りにも香りの良い蜜蝋燭が使われる。その“団欒”の光景に、勇気を振り絞って彼らと夕食を共にすることを選択したナウディーザは、自分の覚悟が報われたことを感じた。
「ナディ、本当に大丈夫?」
「ええ……フェフこそ、もう大丈夫なの……?」
昨日、多少の支障はあったものの何とか無事に地元兵たちとの交流を果たせたナウディーザだったが、続いての軍団兵との食事となると、本当のところ心が挫けそうだった。何しろ、彼女が最も畏れる“隊長”も同席し、別の意味で怖い“班長さん”まで一緒だ。ネテルさんが居るのがせめてもの救いだろう。
それでも彼女が夕食の席に現れたのは、フェフを気遣ったからだ。
昨日の会合の終盤、彼は明らかに様子が変だった。蒼白になった、固く握り込まれた手。そこから伝わる微かな震え。会合が終わった後も、彼の冴えない顔色は戻らなかった。
深夜、何とも無しに目が覚めたナウディーザは、窓の隙間から差し込む月光に惹かれて扉を開いた。そうして、ぼんやりと佇むフェフの姿を外に見出した。じっと月を見上げ、ただ立ち尽くしていた。白道を行く乳白色の月光が、彼の姿を浮かび上がらせる。その目尻に光るものを見たのは間違いではないと思う。
翌朝、明らかに寝ていない風情の彼に、ナウディーザは何も言わなかった。何も言えなかった、の方が正しい。
「……ねえ、ナディ。君たちの伝承のことを尋ねてもいい……?」
人手の足りない今日は、フェフもさすがにナウディーザに付きっきりとはいかなかった。外回りの仕事を他の人たちに任せ、フェフとナウディーザは一緒に掃除をする。箒で掃き、卓を清拭する中、彼は躊躇いがちに口を開いた。
「君たちには……『盟約の神々』に関する伝承が数多く伝わっているんだよね、きっと。その神の御名も。……神の“愛し子”以外の――その“神の力を駆る者たち”についても知ってる?」
「…………? 『巫覡』のこと?」
「かんなぎ、っていうの?」
「ええ。男性なら『覡』、女性なら『巫』。でも愛し子とは違う。愛し子の【力】は“神が授ける”ものだけど、巫覡の【力】は“神から奪う”ものだと、伝承では教わったわ。奪うと言っても、神が望んで奪われるものらしいけれど。『神々の盟約』が結ばれる前の、神話の話よ」
ナウディーザが一族の伝承として受け継いだものは多くある。特に、失われた『盟約以前』の伝承が数多く残る。通常は限られた大人だけが受け継いでいったものだが、ナウディーザは『血族の異能者』として幼い頃からそれらに馴染まされてきた。今でも空で説明することが出来る。
「……“神から、奪う”もの、か……そうか」
「フェフ? また顔色が悪いわ……わたし、何か……」
「ううん、違うよ、ナディ。ごめん、心配かけたね。――ちょっと、ね。色々と分かったことがあったんだ」
「それは、昨日の?」
「うん……ねえ、ナディ。やっぱり語り継いでゆくことって、大切だね。忘れちゃいけないことだってある。忘れ去った方がいいことだってある。でも……最初から知ろうとしないことはダメなんだよね、きっと」
「フェフ?」
「ごめん、訳分からないよね……僕も、まだちょっと分かってないと思う」
痛々しいほどの微笑を返すフェフに、ナウディーザは胸が締め付けられるようだった。この人は、何かに傷ついている。それを、怖れてはいないが、畏れを抱いている。それが何であるかまでは分からないが、その異能の力に関するものであることは間違いなさそうだ。
そんな彼の側を離れることが心苦しく、ナウディーザは勇気を振り絞って夕食の宴に参加したのだった。
彼女とは初日以来の顔合わせとなった“隊長さん”と“班長さん”だったが、彼らは嫌な顔一つせず鷹揚に彼女を迎えてくれた。さすがに昨日のように、ナウディーザが会話に参加できるところまで緊張を解くことは出来なかったが、相づちを打つのが精一杯の彼女を気負わせないように、彼らは柔らかい会話を交わしながら還元の火祭りの晩餐を共にしてくれた。
だが、フェフの態度もぎこちない。隊長と上手く会話が出来ない。そんな彼の態度がラーグには気にかかったが、先に垣間見た彼の“強さ”を信じて見守るだけに留めた。
食事は終わり、酒が中心となる段階で、ナウディーザは中座した。さすがに緊張が限界に近かったし、彼女は酒を嗜まない。フェフも一緒に退席し、二人は外を彩る兵営のかがり火の様子を確認する為、外に出た。
夜通し焚かれる松明の炎が、満ちた月光の輝きと共に、全てを元に戻し変容させてゆくのだという。薪を足して少し離れ、はぜる火の音を聞きながら、二人はただ揃って月を見上げた。寒さ強まった月光は白金に輝き、フェフの心に突き刺さる。その輝きは、見知った髪の色にも似て……その煌めきは、忘れ得ぬ蛋白石色の髪の色にも似て。
「フェフ……誰を思っているの?」
隣に立つ彼女が、そっとフェフの腕に触れて気遣う瞳で見上げてくる。隊の皆からは、身長差のため見下ろされることが多かった。その視線の向きが珍しくて慣れない。
「……僕に、生き方をくれた人たちのことを」
フェフは月を見上げたまま言った。
生命の親、育ての親。同じ異能者たち。そしてここで出会った、多くの人たち。
自分は――彼らに生かされてきた。そして、彼ら人間のために生きて行きたいと考える。自分のためだけじゃない、皆と支え合い、手を取り合い、笑い合い、慰め合って、許し合って。
「――――おい、フェフ」
突然、夜の静寂に隊長の声がした。振り向く先に、隊長が立っている。その長身が、かがり火を背負って浮かび上がる。影になった表情はよく見えないが、その口調は平坦で、いつもの軽快さもなかったが剣呑さもなかった。
「隊長……皆と飲まないんですか?」
「ああ。それよりも、やらにゃならんことがあるんでな。
フェフ、そしてナウディーザ。ちょっと来い」
隊長が二人に声をかけながら近づく。フェフはともかく、自分にまで声がかかると思っていなかったナウディーザは、無意識のうちに『結界』を張ってしまった。だが――彼は何も無いかのように歩みを進め、二人の肩をそれぞれ掴んだ。
ふっ、と身体が揺らめいた気がした。そして、瞬きのうちに周囲の風景が変わる。かがり火の明かりは消え失せ、月光だけが周囲を照らす開けた丘。崩れた石組みが残るそこは、フェフの記憶が確かならばアラグレンの町衆が『遺跡の丘』と呼んでいる場所だ。『盟約』以前からあったという太古の遺跡。そこは、兵営からは遠くないとは言え、当然数歩数秒でたどり着くようなものではない。その証拠に、遠くに兵営の灯りが見える。
「えっ……? フェフ、ここ、どこなの……」
「……『転移』? でも、そんな……」
フェフとナウディーザは、何の前触れも無く、また何の衝撃も感覚ないままに行われた『転移』に狼狽える。その前の『結界』も、何の感覚も無いままに無効化されていた。一体何が起きているのか、彼女にも分からない。
おたおたと周囲を振り返る彼らを、少し離れた所から隊長が静かに見守っていた。
「隊長……なんですね? 一体、どうやって……?」
フェフは掠れた声で、隊長に向き直った。心のどこかでは分かっている、不測の事態。それでも隊長自身の口から聞くのが怖く、耳をふさぎたかった。
「まあ、それはどうでもいい。フェフ、お前に託された言葉を告げよう。それを聞いてどうするかは、お前次第だ」
隊長の声は、大きくも小さくもなかったが、どこか夢の中で聞いているかのような感覚をもたらした。フェフは浮かされたかのように、ただ隊長を見上げる。
「お前をここ第25隊に引き取ったのは、ヤーラが望んだからだ。お前の“母”は、最後の最後まで、お前のことを心配していた」
「……ヤーラ師? それを、どうして、隊長が……」
「ヤーラを【軍の能力者】で無くしたのは、俺とソーンだ。
お前から、お前の“母”を奪ったのは我らだ、フェフ。
最後の決断をする時も、彼女はお前のことを気にかけ、請うていた。『私はどうなってもいい。でもあの子には、自分で選ばせてやって欲しい』と、な」
耳に届く言葉は鮮明で、何一つ聞き逃すことはないのに、フェフの頭の中ではぼんやりとした姿にしかならない。ヤーラ師の穏やかでいつも少し哀しげな表情が、記憶の中から浮かび上がる。優しく気高い、ルーニック人のドルヴィ。『人間の国』ルーニックにあって、『能力者』としてしか生きられなかった異能の者。
「最後、の……? ……ヤーラ師は……どんな決断を……」
「どうする? お前は何を選ぶ?
能力者としての生か、只人としての生か――異人か。
――今宵、還元と変容の時。盟約のくびきは、その為事を果たさん。
選ぶがよい、人の子よ。汝、連環の繋ぎ目なれば。
捕らえるも、放つも、その手の内に」
ザアッと、風が通った。隊長の謎めいた声が、月光に溶け入ってゆく。その姿が、いつか見た乳白色の陽炎のような淡い極光に包まれる。
そこに“隊長”は、もう居なかった。
あるのは……人に在らざる残酷な、運命の姿だった。
次回で完結です。
なお『巫覡』に“かんなぎ”とルビをあてましたが、日本語の熟語としての読みは“ふげき”です。ATOKですら変換してくれませんでしたが……。




