人の間の、引力の虹【その9】
「ナディ、入るね?」
「……どうぞ」
夕食の盆をそれぞれに掲げて、フェフとネテルがナウディーザの部屋に入ってくる。いつものように窓辺に立って彼女は待っていた。そのまま残って食事を共にするフェフは、卓におかれた食事盆からパンや果物などを取り分けていく。単なる運び係でしかないネテルは、彼女に『今日も美味しく出来てるよ』と一声かけて朝と同じようにさっさと退室しようとした。
「あ、あの…………」
だがそのネテルの足を止めたのは、勇気を振り絞ったであろうことがありありと分かるナウディーザの震える声だった。思わず驚いて振り返る。そこには、怯えと躊躇いの中にも決意を秘めた瞳で、必死に彼に視線を合わせようとする少女の姿があった。
「……あ、ありがとう、ございます……」
「!! や、とんでもない! いいって、いいって!!」
フェフ以外に彼女が話しかけた相手は、これが初だ。フェフも驚きと喜びの表情で彼女を振り返る。ネテルは思いがけないナウディーザの態度に、いつもの平静さや実直さも忘れておたおたと両手をばたつかせた。
「あー、なんか感動。ありがとう、話しかけてくれて。でも無理はしないで?」
何となく赤面しながらネテルはナウディーザに笑いかけた。彼の容貌評価は中よりやや上、という所だが、誠実で働き者な所がフェフと同じく歳上受けする青年だ。アラグレンのお嬢さん方からの人気はイース曰く第6位だが、実は『娘婿に迎えたい』とする親世代からは、最も人気がある地元兵だったりもする。安心して娘を託せると評価されるような実直さが、ネテルの魅力だ。
「いえ……ずっと、お礼、言いたくて……。それで、あの、その……」
いつになくナウディーザは勇気を振り絞っていた。
午前の外出時に、同じ異能者の彼が語ってくれた熱意。掌を包み込んで心に届けてくれたそれを、少しでも信じてみたくなった。
ずっと、“自分から、離れて”きた。一族の皆も自分を遠巻きにして近づこうとしなかったけれど、自分自身もそうだった。自分で線を引き、自分から遠ざかってきた。そういう対応しか知らなかったし、それ以外の方法を知らなかった。誰も教えてくれなかった。
自分が“閉じこもっていた”建物の窓から見える光景に、憧れを抱いていた。名を呼び合い、気軽に触れ合い、笑顔をかわし、時には涙する、当たり前の光景。彼女には与えられてこなかった『普通』の暮らし。手を伸ばそうとしたことが皆無だったわけじゃ無い。でも一度として、その伸ばされた手の先に触れるものはなかった。
切望してきたそれが、わずかでも手に入るとしたら……? 自分がもう一度勇気を出して手を伸ばせば、触れることが出来るとしたら?
一族の者はもう誰もいない。生き残っている者や村を離れて生活していた血族は、少しは残っているかも知れない。でも、もう自分の『一族』は無いのだ。古人の末裔として伝承を受け継ぎ、神々と同じくいずれ消え失せるためだけに繋いでゆく血脈は、その役目を終えたのだと感じていた。
ナウディーザは、自分が『一族、最後の者』なのだと、自然に感じ取っていた。
ならば、自分の行く末は? 『ナウディーザ』は、この先をどう生きていくのか。
あの日、あの時。
皆の怨嗟を全身に受けながら、そのまま生を終えるのだと思っていた。しかし運命はそんな安易な終焉を準備してくれなかった。
あの時感じたものは――温かい、慈愛の力。自分のものではない、だけれども親しい『力』の感触。それに呼ばれ、引き寄せられる様に『彼』を見つけた。同じ色彩を持ち、同じ『力』の波長を持つ青年。幻の中、初めて彼女に伸ばされた手。
虹が架かるように、二人は引き合わされた。
その導きを、畏れながらも信じてみたくなった。『彼』が信じるものを、自分も信じてみたくなった。単なる孤独からの依存かも知れない。初めて会った『同じ異能者』への妄信なのかも知れない。それでも――ナウディーザにとって、初めて欲した自分の気持ちだった。
「ナディ? ネテルさんに何か言いたいことがあるの?」
「え? おれに? 何かな? いいよ。ゆっくり、落ち着いて。おれ、待ってるから」
何か言いたそうに口元を振るわせるナウディーザの様子に、フェフは柔らかく微笑んで彼女を力付ける。対するネテルも実直な態度に親しみを載せて、何とか口を開こうとする彼女を優しく迎えた。
「…………あの、明日……よかったら、他の、皆さんと……その……お話を、させて、もらえます、か……?」
部屋に花が咲いたようだった。
精一杯の気持ちを奮い立たせて、ナウディーザが何とか紡いだ言葉が彼らに届いた後、二瞬ほど遅れてまずフェフが、そして続いてネテルが、花咲くような笑顔を浮かべた。男に使う表現じゃないと思いつつ、お互いがそう考えるほどに、二人に浮かんだその笑顔は小春日和の温かさと輝きをもったものだった。
「もちろん! ありがとう!! 光栄だな、おれ、ツイてる! 皆に自慢できる!!」
「ネテルさん、ナディは『皆さん』って言ってますよ? ネテルさんだけじゃないですよ??」
「そんなの分かってますって! でも、副長伝えじゃなくって、彼女が直接おれに打診してきてくれたのが自慢なの! わ~い、今日、おれ、眠れないかも!」
「ネテルさんっ、さすがにはしゃぎ過ぎですってば」
そのらしくない態度が、わざとであることくらいフェフにも分かった。彼女からの自発的な接触を、心から喜んでいることを疑わせないように、戸惑いの欠片すら見せず、大仰に、邪心無く。案の定、思ってもいなかったであろう大仰な歓迎に、ナディは呆気にとられたような表情を浮かべている。彼女の決死の覚悟は報われたはずだ。それが一番嬉しいし、それをきちんと受け止めてくれるネテルさんにも頭が下がる。
「じゃあ、さっそく下で皆に伝えてくるよ!」
「あっ、ネテルさん。さすがに全員だと……」
「それくらいは配慮するよ! あはは、今夜はきっと、その光栄な『団欒会』への出席権を賭けた壮絶な争いになりそう。あ、おれは不戦勝でいいですよね、副長? じゃ、ナウディーザさん。明日楽しみにしていますね!」
返事を聞くつもりも無く、ネテルは軽やかに二人に手を振って部屋を出て行った。ナウディーザにすら返事をさせない。それは一見無遠慮な態度のようだが、自分が示した意志への彼らの反応を疑わせない為の態度でもある。やり直しや撤回、言い訳や疑念を示す余地を与えない強硬さも時には必要だ。それを上手く行使できるだけの才覚を、ネテルもまた備えていた。
「あ……、行っちゃった。ネテルさんらしくないや。でも、それだけ嬉しかったんだと思うよ、ナディ? ありがとう、僕のお願いを聞いてくれて」
「ち、違う……わたしが、願って……」
「そうだとしても、僕の願いが叶ったことに変わりはないよ、ナディ。君はすごいね。僕はそんなに早く素直になれなかったよ。君は素敵だよ、ナディ」
「……っ」
真正面からぶつけられる賛辞と好意に、ナウディーザの頬と耳が真っ赤に染まる。耳が熱くてジンジンする。鼓動も高まって、音が聞こえそうだ。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、フェフは溶けそうな笑顔を浮かべてナウディーザに近づいた。赤く染まった頬を見られまいと顔を伏せる彼女の手を、フェフは再びとって掌で包み込む。手も熱くなる。全身から熱が感じられる。
「ナディ……君は強いよ。ずっと孤独に耐えてきて、そして勇気を持って新しい一歩を踏み出すことが出来る。君の『結界』は、自分を閉じ込めるためのものじゃないよね? 君の側に居る人たちを守る為のものだ。誰も傷つけないために、君は守ることができるよ。君に近づく人たちを、『結界』の“外”に追い出すんじゃなくって、その“内”で守ってあげて。僕も手伝うから」
あの惨劇を目にしたばかりの彼女には、酷なお願いだろうとフェフは考えながらも、言葉を止めなかった。大切なのは結果ではなく、『守りたい』と思う気持ちだ。
彼女の血族達を守れなかったことを、彼女はどう考えているのだろう。その本心は彼女にしか分からない。でも、忘れ得ぬ失敗を経たとしても、守りたい気持ちを捨てないで欲しかった。
自分のように、『捕まえたい』誰かを、なりふり構わず捕まえればいい。
ナウディーザに『捕まった』日、本当に“呼びたかった”相手は捕まらなかった――拒絶された。でも、自分が『捕まえたい』と感じた心は、もう挫けない。
何度失敗したって、何度拒絶されたって、もう一度『彼』に会うのだ。
そして――笑ってみせよう、彼の前で。
ありったけの感謝を込めて、あの人に誇ってもらえるように。
そしてあの人が、自分を手放せるように。
真っ赤になったまま俯くナウディーザを、フェフは若干の余裕をもって見つめる。今度はみっともなく慌てたりしない。彼女が示した勇気を、今度は自分が。
「ナディ……ありがとう、僕の所に来てくれて。僕に勇気をくれて。僕の決意に自信をくれて。君のおかげで、僕はまた強くなれるよ。だって、守りたいものが、捕まえておきたいものが増えたんだもの。だから、君にも同じように思って貰いたいよ」
恋情と呼ぶには朧気すぎる、本能的な気持ち。こういうのを“一目惚れ”っていうのかな、なんてフェフは頭の片隅で考える。明後日の還元の火祭りを過ぎれば22歳になる、遅すぎる初恋だとからかわれてもいい。これからは、その手に縋る相手を求めるのではなく、守りたい相手を求めるのだ。自分の力を、自分と怖れずに向き合って。受け入れられなかったとしても、それを怖れて最初から逃げたりしない。臆していても道は出来ない。どんなことでも、その一歩を踏み出せば道となるのだ。
「ナディ……ごめんね、びっくりさせて。でも、僕の素直な気持ちだよ。
あ……冷めちゃったね、夕食。一緒に食べてくれる?」
髪の色と変わらないほどに真っ赤に色付いたままの耳を覗かせた彼女の頭が、一回横に振れて、その後慌てたように肯きの動作を示す。ずっと握ったままだった手を離して、フェフは先に席に着いた。じっと彼女がやってくるのを待つ。やがて、まだ赤い頬のままナウディーザが、顔を上げて潤んだ瞳でフェフに視線を合わせた。ニコッとフェフは微笑む。愛情を込めて。
再び音が出そうなほど赤面を強くした彼女に、優しい苦笑を見せてフェフは立ち上がった。戸惑う彼女の手を引いて、向かい合わせの席に着かせる。ナウディーザは何度か顔を上げては、自分を見つめるフェフの表情に貫かれて顔を伏せ直す。何度も繰り返されるそれを見ながら、フェフは『今日の夕食はお預けかも……』と、穏やかな笑顔をたたえて幸福を感じていた。
* * *
「ということで、この面子になりました!」
翌日、ネテル達は親しげな好意と好奇心を隠さない満面の笑みと態度で、ナウディーザを食堂で出迎えた。おっかなびっくり足を踏み入れた彼女が、それでも頑張って挨拶をすると、うおーーっという野太い歓声が上がる。身体をビクッと震わせるナウディーザを見て、フェフは思わず庇うようにその前に立った。
「ちょっと皆さん、落ち着いて下さい! 彼女が怖がってるじゃないですか!」
「あ、すみません、副長」
「でも、俺等だって嬉しくって!」
「何よりも、他の奴らに対しての優越感が……っ」
人の悪い笑みを浮かべる者も居るにはいるが、悪意のないその態度にナウディーザは身体の力を抜こうと意識する。やっぱりまだ知らない人は怖い。でも、向こうから近づいてきてくれる人を拒絶したくないと思う程度に、自分は孤独だったのだ。それがよく自覚できた。
「隊長は一体どういう人選を……」
「選ばれたオレ等にも分かりませーん、副長。でも一喝でしたので、皆素直に引いてくれましたよ!」
案の定、ネテルが食後の団欒で今日の『ナウディーザとの会合』を伝えた後、兵営の皆は大騒ぎだったそうだ。補佐官さんも居なければ、ウリヤンド所長もアラグレンの家に戻った後だったのが、全ての敗因だ。ネテルは所長の帰宅を待って説明する辺り、この騒ぎを楽しもうとする企みが透けて見えていた。
全員は無理なので、どうやって参加者を決めるか。その方法を検討するだけで大騒ぎになり、業を煮やしたのか珍しく隊長が口を挟んで決定されたようだった。
「軍団兵の皆さんにはお引き取り願って地元兵だけ、というのは分かるのですが、正直、なんでオレが選ばれたのか分かってません」
「デューアさんは物知りだからじゃないですか? オレは多分、彼女が最初に来た時を知っているからでしょうけれど」
「何故かオレが入って、オウンが外れたので、奴が大層拗ねてます。副長、どうしてくれるんですか」
「僕に言わないでよ、エイリム。隊長に言ってよ」
“参加者”に選ばれたのは、第一班のエイリムとクワート、第二班のネテルとデューアの4人。加えて監督者だろうウリヤンド所長だ。これくらいの人数が限界だろうと思っていたフェフもとりあえずは安堵して、戸惑うナウディーザを用意された席に座らせた。その横に彼も着席する。
「副長~、当然のように隣りに座らないで下さいよ~」
「あれ、ダメだった?」
キョトンとするフェフに、参加者達は苦笑にも似た笑みを浮かべる。本人はどこまで自覚しているのか知らないが、彼女が現れてからの彼はこれまでとは比べものにならないほどに“いい感じ”になっている。気負わない、退かない、自然な態度。
自分の立場も、職位も、年齢も、今まで彼が常に抱いていた後ろ向きの感情が、ほとんど表に現れてこない。だからといって心の奥に隠されている訳でもない。やっと、自然に振る舞っているように皆が感じ取れる彼だった。補佐官さんがいなくなって再び出てきていた不安定さが、落ち着いている。
「さ、急かすつもりはありませんが、無駄話はその程度にして。
ようこそ、第25隊へ。ようこそ、オガムの大地へ。貴女にとって、よい変容が訪れますように」
かつては新年であった還元の火祭りの季節に良く交わされるウリヤンド所長の挨拶で、その会は始まった。
以前から各シーンに登場はしつつも、名前だけだったり名前すら呼ばれてなかった兵隊さん達を、登場させてます。
作品設定資料には最初っから名前付きで準備してあったのに、個人としては登場できなかった彼ら。ごめん。別に“記念出場”ではないのですが、それっぽい雰囲気……。
<第6章、ほぼ初登場組>
★名前はあれど、個人シーンは初登場組
【ネテル】(第4章「ウサギ狩り」で登場し、2行程度の描写でとっととイースに拘束された人)
【ゴート】(名前は第1章から出ていました。隊長の次にガタイが良い人。力仕事担当)
★名前、初登場組
<地元兵組>
【エイリム】
:第25隊第一班所属の地元兵。好奇心旺盛で物見高い。オウン・ゴート・エイリムの三人は同い年の幼馴染み。
-----※“幼馴染み三人組”として初稿から居たにも関わらず、名前は最後の登場。野次馬筆頭、そういう場にはいつでも居る人。
【デューア】
:第25隊第二班所属の地元兵。実家はディングル市で家塾を営んでいる。物知り。
-----※良識派だが、意外と上昇志向が強い人。いつか第25隊の兵営長になるのが目標。
<軍団派遣兵組>
【ウルツ】
:第25隊第二班所属の軍団兵。傷痍復帰組。残留3年目。
-----※【その3】でハーガルが異動するメンバーとして名前だけ挙げていた人。賭けには必ず参加して、たいてい負ける。
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