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誰も傷つけぬ者たちへ【その12】

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再びR15未満の軽微な戦闘描写、流血描写などがあります。

また話が分割しづらく、8000字超と長いです。申し訳ありません。





「……“輪っか付き”が首輪を外していいのかい? 人外の化け物を捕らえ縛る大事なものなんだろう? 壊しては駄目じゃないか」


 異様な光景には違いなかったが、黒の神官ウィアドは別に怖れる風もなく、かえって楽しそうな表情になってフェフを見遣った。ウィアドにとって【ドルヴィの首輪】など、何の意味もなさない。あれは異能者自身を縛るものであって、何かを成すものではない。

 実際、フェフ自身も能力の何かが変わったという感覚はほとんどない。変わったのは自分の気持ちだけだ。【軍の能力者(ドルヴィ)】ではなく、只の異能者として力を振るう――その可能性。

 再びウィアドからの黒い刃がフェフを襲った。【神力】に為すがままであった先ほどまでとは違い、今度は抵抗する“意志”を強く持つ。その所為なのか、切り裂かれる傷は今までとは比べものにならないほど浅く、痛みも出血もほとんどない。単に怒りやその他で感覚が麻痺してきただけかも知れないが。

 フェフは意志の力で攻撃と痛みと、そして精神的な損傷に耐えながら、昏くざわめく自分の心と闘っていた。

 自分も同じように【力】を振るうことが出来るだろうか、やれるだろうか。

 目の前の彼と同じように、【神の力】を“誰かを傷つける”ための力として。

 それは「力の行使の可能性」を思うものではなく、「行使することへの覚悟」を問うもので――。

 次第にその覚悟が高まっていく自分に、フェフは得体の知れない高揚感と歓喜を覚える。心のどこかで警告するようなささやきが聞こえていた気がしたが、やがてその声は奔流のような意志の力に押されていった。


 思ったほどの損傷を与えられなかったことに、ウィアドは不満げな表情を浮かべた。面白くないと、今度は露出した肌だけではなく別の箇所も狙う。フェフの隊服を切り裂いて、上腕や首元に軽い傷が増えてゆく。

 ぷつんっ……と紐が切れた。何度目かの攻撃によってフェフの襟元が切られ、首に提げていた「お守り」の紐が切れた。

 その瞬間。フェフは我に返った。自分が今の今まで考えていたこと、囚われそうになっていた怖ろしい考えに身震いがする。


 『人としての生を――』と書かれた実の親からの愛。

 『ただのフェフに――』と感謝を伝えてくれた兵営長。

 『誰も傷つけない力をもつ、美しく尊い者』と評してくれたラーグ班長。

 そして、至高の笑みと共にかけられた言葉――。

 『必ず戻りなさい――(ただ)の人として』


 フェフは両目をぎゅっと(つぶ)って感情の奔流に耐えた。

 皆が与えてくれたのは、フェフが「人」として生きるための(すべ)だ。

 その為の場所と技術と心の在り方。自分が持つ異能の力は人間に対して与えられたものだ。誰も傷つけぬ神々が、その心のままに「人」に与えた力。

 自分は()にはならない。フサルク神のあふれんばかりの恩寵を受けながら、その意味を、覚悟を知ることのない黒の神官のようにはならない。


 フェフは目を開いた。もうあの得体の知れない高揚感は感じない。冷静に心の中を振り返る。大丈夫、怒りや憎しみに囚われてはいない。

 目の前の神官に向かう感情は、もはや“憐憫(れんびん)”だ。神の恩寵以外を与えられなかった、人からは求められるばかりで何も与えてもらえなかった、可哀想な人。

 フェフは疲弊した身体を鼓舞して、彼らに向き合った。

 本来“誰も傷つけぬ”力ならば、“傷つかない”はずだ。彼が今振るっている【力】は、まがい物の力。神の恩寵じゃない。

 今なら分かる、隊長や補佐官さんがフェフに求めていたものが。彼らがフェフの異能の力を高めるように導くその脇で、彼らはその異能の力に囚われない【力】の本質を教えてくれていたのだ。

 自分のため(・・・・・)にある訳じゃない、誰かのため(・・・・・)に振るう【神の力】。

 それはフサルク神であっても「盟約の神々」であっても変わらない、太古からの決め事。

 再び黒い風がフェフの頬を掠めた。だが今度は痛みはない。切り裂かれる感触も血の流れる感覚もなかった。ただ【力】が通り過ぎていっただけ。優しい風が通り過ぎていっただけ。


「……ん?」


 尊大な優越感を隠そうとしない表情だったウィアドが、怪訝(けげん)な顔に変わった。急に“効かなく”なった自分の力に驚いている。先の“隊長補佐官”とやらと同じ現象が起きていることに、ウィアドはいらだちを露わにした。


「――まったく。どんな小細工で我が神の力を貶めようとするのかな、お前たちは? ああ、今度こそ我が神の恩寵を完全に拒絶しようというのかな? さすが“魔の者”、人外の化け物だよ。

 だったら……そうか、我が神の力をお前ごときにこれ以上与えることもおこがましい、ということなのだろうね」


 どこか見当外れの納得をしたのか、急にウィアドは表情を改めて仮初(かりそ)めの慈悲深さを示す穏やかな笑顔を見せた。視線が側に控えるファーンの方を向く。従順な神殿兵は、即座にその意図を読み取って行動に出た。すでに回収していた自分の剣を構え、白刃をフェフに向ける。


「わたし達はここに居なかった。誰も私の姿を見てはいない。ファーンの姿を見たのは、あの少年だけだけど――でも私たちはすぐにこの地を去るからね? お前は“何処の誰とも知らない無頼の輩”に襲われて命を落とすのだよ。

 ――偉大なる我が神、あなたの恩恵を受け取れぬ哀れな魂を一つ、御許(みもと)にお(かえ)しいたします――」


 荘厳さを感じさせるような蕩々(とうとう)とした声色で、ウィアドは祈りの言葉を口にする。彼が、彼だけが心から信じている“神の恩寵”を、何一つ疑うこと無く与えようとした。

 白刃をきらめかせてファーンがフェフに近づく。フェフの武器は短剣一つ、身体は疲弊している。気力は萎えていないが、逃げることも避けることも反撃することも難しいことくらいは分かる。だがこのまま座して殺されるのを待つ訳にはいかないのだ。彼の帰りを待っている人たちが、大切な「家族」達がいるのだから……っ

 フェフは短剣を構えてファーンの動きを測る。避けられるのはせいぜい数合くらいだろう。刃の間合いが違い過ぎるため、フェフは防戦に回らざるを得ない。

 樹冠の奥に隠れた陽光の欠片が、大地をまばらに彩っていた。それがとても綺麗だと、フェフは場違いなことを考えていた。ファーンの間合いが近づく。上段に構えた剣が、その欠片を虹色にきらめかせた――。



* * * 



 斬撃は来なかった。


 代わりに現れたのは――虹色の輝き。

 蛋白石(オパール)のような虹色の遊色を交える乳白色の大きな輝きが、突然彼らの間に割って現れ――人型をとった。

 背の高い人物。フェフよりは頭一つ分高い、秀麗なその姿。

 その手が、迫り来ていたファーンの前腕を捉え、ねじり上げるように廻す。力が入っているように見えない優美な動作にも関わらず、強靱であるはずのファーンの利き手は軽々と後ろにねじられた。手から剣が取り落とされる。だが無手となってもその力は弱まらず――もう片方の手がファーンの肩を押さえ――鈍い音が響いた。

 グゴッとでも表現するのか、骨が壊される音。ファーンの口から押さえきれなかった苦痛の呻きがこぼれ落ちる。関節をやられた――折られたかもしれない、そんな激痛。

 脂汗の滲む苦痛の表情を確認し、彼の腕を物理的に封じた人物は無言のまま彼の膝を蹴り押さえ、裏から膝を踏みにじる。同じような鈍い音が響いた。ファーンは激痛の中で大地に倒れ込んだ。


「……ほ、補佐官、さ……ん?」


 フェフは目の前の現実が信じられなかった。突然に現れて彼の窮地を救った、ソーン補佐官。その姿を見紛うはずがない。

 だが、どうやって(・・・・・)彼はここに現れた?

 兵営の皆が冗談交じりで言う“神出鬼没”なんてものじゃない、“不可思議な登場”――【転移】を思わせる出現(・・)

 そして何より、その姿が醸し出す雰囲気が、フェフが彼に近づき縋ることを躊躇(ためら)わせていた。今もなお、淡い虹色の光に包まれているかのような立ち姿。それは可視化された激情のように思われた。だが、その顔には何の感情も浮かんでいない

 ――今まで補佐官さんが見せていた“無表情”は、「無表情という名の表情」だったのだと思わせるような、何の感情も心も感じ取れない、硬質な顔。本当の“無表情”だった。


 地にひれ伏すファーンを無情に見下ろしながら、彼は剣を手にとった。だがそれを構えることはなく――スッとその白い手で撫でるように触れると、その剣は何処かへ消え失せた。再びの驚異に、ファーンもフェフも目を瞠る。

 そんな彼らに構う気もないのだろう、ソーン補佐官は黙って自分の(から)の両手を見つめた後、くるりと振り返ってウィアドを見据えた。


「な、なに……お、お前も“魔の者”だったのかい? この化け物!!」


 さくり、と土を踏んでソーン補佐官はウィアドに近づく。ゆっくりと、追い詰めるように。フェフ達に背を向けているため、彼の表情がどうなっているのかは分からないが、ウィアドの怖れの表情を見る限り、きっと変わっていないのだろう。怖ろしいほどの無表情。無謬(むびゅう)の畏怖。


「――どうして……私達(・・)は同じ過ちを繰り返すのでしょうね……」


 ウィアドに後三歩ほどまで近づいて初めて、ソーン補佐官の口から言葉が発せられた。感情を感じさせない硬質で玲瓏な声色だが、何故かフェフには泣き声に聞こえた。


「自分の力だけで、その過ちの入り口から立ち戻る者もあれば――最初から過ちにすら気付かない者もいる。――無知は、無自覚は、罪です。知ろうとしないことは、人が決して侵してはいけない罪なのですよ……」


 ウィアドに手が届く一歩手前まで来て、ソーン補佐官はその歩みを止めた。見下ろすようにウィアドを見据えたその瞳は――全てが闇色に染まり、黒い蛋白石(オパール)と同じ虹色の輝きを秘めていた。


「な、なにを……この化け物がっ!!」

「――そう、“人外の化け物”――それは、この私のようなもの(・・)を指す言葉です」


 耐えようがない畏怖に混乱したのか、ウィアドはとっさに彼に向けて【神力】を放つ。効かないということは忘れていた。だがその行為がもたらしたものは、予想以上にウィアドを絶望させるものだった。ウグッという痛みを堪える声は、ソーン補佐官の後方、まだ大地に倒されたままのファーンの口から漏れる。切り裂かれた身体からは血が滲んでいる。


「えっ? どうして? ファーン?」


 ウィアドの【神力】は相手を特定して行使するものだ。対象と定めた者以外には影響を及ぼさないはず。なのに今彼が放った攻撃の刃は、神殿兵ファーンを切り裂いていた。何が起こっているのかウィアドには想像もつかない。だがともかく、ファーンに向けて今度は癒やしの力を行使する。――だが、彼の傷は癒やされなかった。それどころか、別の場所から血が飛ぶ。


「な、なにが……どうして? 【力】が……思い通りに……ならない……?」

「――神の力が『思い通りになる』と思うことが、そもそもの誤り。貴方がたが振るう力は“神が与えた”力です……神の望みを叶える為のもの。人の“思いのまま”になるものではない。

 私は貴方に言ったはずです。『神の力は無限無謬(むげんむびゅう)ではない』と」


 苦痛に呻くファーン以外誰一人身じろぎもせず、夕闇迫る森の中でただ無情な声に聞き入っていた。ウィアドの顔は蒼白に染まり、ただただ初めて感じる畏怖と絶望感に心を削がれていた。


「お前……お前は、()?」

「――先ほど言いましたよ。私は、単なる“人外の化け物”――“人でなくなった(・・・・・)、化け物”――異人(コトヒト)


 一歩足を進める。ソーン補佐官は呆然と立ち尽くすウィアドの両肩に手をおき、何の感情も感じさせないその闇色の瞳で彼を捉えた。そのしなやかな身体から陽炎のように蛋白石(オパール)色の輝きが生じ、艶やかな灰金色の髪がその色に染まった。輝く白い遊色の髪、闇色の瞳。人に(あら)ざる、何か(・・)がそこに居た。


「――貴方はフサルクのもの(・・)。私は貴方に何もできません……可哀想な子ども。ただ無知の罪は問われるべきです。――【神の力】、還しなさい。何も持たない者となり、再びフサルクの恩寵を受けられるようになるまで……フサルクの願いを、神々の“盟約”の意味を、知ろうとしなさい」


 ヒッと悲鳴にも似た声がウィアドからあがる。とっさに意識した彼の【神力】は、その身体から発せられることはなかった。代わりに乳白色の輝きが彼を一瞬だけ包み、黒と混じり合った光を放って消えた。

 ウィアドを例えようのない喪失感が襲う。何かが自分の中から消え失せた――意識しても【神力】が感じ取れない。幼い頃よりその素質の片鱗をみせ15の時に与えられて以来、ずっと|自分のもの《・・・・・

》であったはずの神の恩寵。それが今、ウィアドから失せていた。


「ち、力が……我が神の力が――」


 両手を震わせ呆然と見つめるウィアドは、迷子になった子どものようだった。ずるずると彼はその大地にへたり込み、力の喪失がもたらした混乱に包まれ、涙の無いまま泣きじゃくる子どものようにただ両手で顔を覆って震え続けた。




「補佐官さんっ! ソーンさんっ!!」


 ――どうしてその瞬間に声をかけたのは、フェフには分からなかった。でも、無意識のうちに声が出ていた。何故なら――彼が泣いているように見えたからだ。硬質で無情な声が、フェフには慟哭にしか聞こえなかった。

 その声に呼ばれ、ソーン補佐官はフェフ達の方に向き直った。変わらない無情の顔、常ならない蛋白石(オパール)色の髪の色と、遊色を秘めた闇色の瞳。ソーン補佐官であってそうではない姿がそこにはあった。


「フェフ……」


 零れるようにフェフの名が呼ばれた。だが続く言葉はない。フェフの方も何を言っていいのか分からないまま、だが身体は思考とは別に行動していた。名を呼ばれた瞬間、フェフは駆けだした。そして飛びつくようにソーン補佐官にしがみついた。


「補佐官さんっ、ソーン補佐官さんっ! 僕は人ですっ 皆のおかげで人のままですっ」


 自分でも何を言っているのか分からなかったが、フェフの口から出たのはそんな言葉だけだった。

 彼が自分に望んでいたこと、唯の人としてのフェフであること。そんな“人”としての自分を見失わなかったのは、実の親の愛と、ヤーラ師が与えてくれた価値観と、居場所を与えてくれたルーニックの軍と、第25隊とオガムの人々が与えてくれた限りない自信のおかげだ。

 愛を受け取り、愛を与えてゆくことができる、唯の人。フェフはもう自分(・・)を怖れはしない。何者でもない、唯の人として生きてゆくことが出来る。

 しがみついたフェフの頭に、ソーン補佐官の優しい手が伸びた。ぽんぽんと、いつものように優しく2回。それが全てだったけれど、それで十分だった。



 * * *



「ソーン――お前は過保護に過ぎると言ったはずだ」


 ウィアドの嘆きとファーンの呻きだけが支配していた空間に、新たな声が響いた。

 重い、心を支配するかのような強い声。

 いつの間にかファーンが転がる大地の近くに、補佐官さんより背の高い人影が現れていた。癖のある灰金髪を揺らし、しっかりとした軍人体型の肢体が大地を踏みしめるように立っている。


「隊長……いつの間に?」


 フェフは安堵よりも驚きをもって彼を見上げた。いつものような軽快な表情は陰を潜め、瞳には何かを確かめ試すような強い輝きを込めて、アンスーズ隊長はじっとフェフ達の方を見ていた。否、ソーン補佐官さんだけを見つめていた。

 それまで“無情”としか言い様の無かった補佐官さんの顔に表情が戻る。それは厳しく硬質で――どこか“憎しみ”さえ感じさせるものだった。


「ソーン、これ(・・)はどういうつもりだ? 何故フサルクのものに手をつける?」

「――私は何もしていない。ただ“還した”だけだ」

「それが“過保護”だと言うのだ。放っておいても、なるようになる。これ(・・)のように自分で戻ってこられる奴がちゃんといる。お前が手出しすることじゃない」


 口調も異なる、二人の口論。「これ」と言った際に、隊長はフェフの方を指さしていたが、それ以外は一切ソーン補佐官から視線を逸らさず、また補佐官さんも厳しい視線を浮かべて隊長を見つめたままだった。


「成すべきことを――守るべきものを守る為ならば、私はなんだってやる。それは御方(あなた)が一番良く知っているはずだ」

「ああ、そうだな……そうやって、其方(そなた)はまた“スーリザス”に戻るのか?

 吾はそれで構わぬ、願い通りであるが――其方(そなた)は誰だ?」


 ――全身から慟哭が聞こえたような気がした。しがみついたままのソーン補佐官の身体が、その隊長の言葉を聞いた瞬間に大きく震え――フェフにまでその動揺を伝えてきた。ギュッと固く唇が噛み締められ、その美しい口許に赤いものが滲む。対するアンスーズ隊長の瞳には、残忍なまでの嘲弄(ちょうろう)の色が浮かんでいた。ソーン補佐官を咎めるというよりは(そそのか)すような、無邪気さすら感じさせる嘲弄。


 こんな隊長は知らない。こんなソーン補佐官さんも知らない。

 フェフは混乱の極みにいた。いつもは軽口をたたき合い、口煩(くちうるさ)く語り合い、気兼ねない行動と共にあった“第25隊の隊長と補佐官さん”は、今どこにも居なかった。

 こんなよそよそしい口調で、こんな憎しみにも似た感情をぶつけ合い、尊厳を伴わない会話を交わす人たちではないはずなのに――彼らは誰? フェフには分からなかった。


「――御方(あなた)は“アンスーズ”、そして私は“ソーン”……御方(あなた)の“茨の鎖”のままだ。“スーリザス”など、もう居ない」

「ならば、それに相応しい振る舞いをするがよい、吾の鎖(ソーン)

「……御方(あなた)が言うのか……それを、御方(あなた)が望むのかっ?!」


 最後は明確な慟哭だった。憎しみと怒りと自嘲と後悔と。あらゆる負の感情が織り混ざったかのような、心からの叫び。フェフが初めて見る、ソーン補佐官の激情。

 目には見えない涙が感じられた。ソーン補佐官が全身全霊で泣いている気がした。


「……これ以上、この子にーーフェフに構うな。これ(・・)其方(そなた)の手の及ぶ者ではない」

「違う、この子は、もう(・・)違う」

「それを決めるのは其方(そなた)ではない、吾でもないがな……」


 ギュッとフェフを抱きしめるソーン補佐官の腕は震えていた。


「――心配しなくても、この子は敏い。お前のようにはならねえよ」


 急に呆れたようないつもの口調に変わり、隊長はフェフに視線を合わせた。先ほどまでの厳しい表情が緩み、フェフの見知ったどこか安心感を与えるいい加減な笑みが浮かんでいる。

 事態の急変について行けず、驚愕と不安の表情を浮かべたままのフェフに、隊長はニヤリと微笑んでいつものように態とらしい動作で両手を拡げた。


 急に“日常”が戻ってくる。

 一変したその雰囲気に押されるように、フェフはしがみついたままだったソーン補佐官さんから離れ、彼を見上げた。その瞳の色はいつもと同じ蒼穹の青。髪は艶やかな灰金髪。先ほどまでの光景が夢のようだった。いつもの補佐官さんの見慣れた姿。

 だが――


「……フェフ……私は貴方の幸せを願っています。忘れないで下さい、貴方は唯の人です。愛し愛されることを知り、愛を返す術を知っている、唯の人――私のようなもの(・・)ではない。

 ――私のようになってはいけない。忘れないで、貴方を繋ぎ止める数多くの人々の思いを、その鎖の存在を」


 ――今まで見た中で、一番哀しく美しい笑顔だった。


 最後の陽光が森の奥に煌めき、辺りが急に闇に包まれる。

 突然ソーン補佐官がフェフを抱きしめた。強く、何かを確認するかのように。優しく、何かを与えるかのように。

 そして――落日の最後の煌めきにも似た乳白色の光と共に、彼の姿は消えた。静寂が再び訪れる。


「……補佐官さん? ソーンさん??」


 急に失われた存在感。一瞬前まで彼を包み込んでいた優しい温もりが奪われた。現れた時と同じく、突然に。彼の人の姿はフェフの前から消え去った。


「た、隊長?! 何が……一体何が?? ソーンさんはっ??」


 フェフは涙ながらに彼に詰め寄った。だが隊長はいつもの飄々とした表情を崩さない。ぽんぽんとフェフの頭を撫でながら、いつもの“隊長”らしい口調でフェフに語りかける。


「心配するな、フェフ。ちょっといじけて逃げ出しただけだ。そのうち戻ってくる。

 あいつは何処にも行かない――行けない。守りたいものがある限り」


 何も分からないフェフは、その言葉に縋るしかなかった。

 だが――結局、彼が“ソーン補佐官”として第25隊に戻ってくることはなかったのだけれども。




                         ――第5章終わり――


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これで第5章は終わりです。4000字程度で2分割しよう考えたのですが、話の進行上分割するのが好ましくないと判断したため、そのまま突っ走りました。


ようやっと、話の本筋に関わるエピソードを回収しました。

この作品では「主人公」は設定せず群像劇風に展開しようと決めていましたが、話の本流にあるのは「異人(コトヒト)」ソーンの物語です。やっとこさ本性現しました。(そしてすぐ逃げた(笑))

主人公では無いけれど、彼がタイトルロール。(でも終章である第6章では彼はあまり登場しません)


そういえば最終盤、すっかり放っておかれている神殿組2名ですが、単に話題に加わっていないだけです。ちゃんと居ます、転がってます。彼らの今後については、次章にてあっさりと語ります。


次の第6章が最終章です。残った伏線(?)を若干回収しつつ「隊長の部下たち」の物語に区切りを付けてゆきたいと思います。

また執筆完了までしばらく日数をいただくと思います。今月末を目標に頑張ります。


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