誰も傷つけぬ者たちへ【その1】
前章から随分間隔が空いてしまいました。
今章は少し重め&終章に向けての「転」話で、長めの構成です。
「あっ、フェフさ~ん! お待たせしましたーーっ」
兵営に続く道を駆けてくる、元気な人影。そしてその後を追いかける白茶の犬。兵営で飼っている牛や山羊たちの様子を伺いながら彼を待っていたフェフ副長は、その声に応じて手を振り柔らかい笑顔を見せた。
恵みの麦祭りが終わり、農家は麦刈りの後始末に勤しみ、牧羊家は牧草の刈り取りに勤しむ日々が続く。決して暇とは言えない時機ではあるが、ここしばらくの間コール少年は、兵営と町の詰め所の間で二日おきの連絡係を買って出ている。どうせ放牧地の羊たちの様子を見に行くついででもあるし、何より彼自身がフェフを始めとする兵営の皆の役に立ちたいと、父兄や隊長に願い出て勝ち取った“お仕事”だ。
「やあ、コール。今日もありがとう。急がなくてもいいよ」
「はぁはぁ。でも羊を見に行くのがちょっと遅れてるんで、実は焦ってるんです~」
ようやく兵営敷地を区切る牧柵までたどり着いたコール少年は、いつものように柵に手をかけてうつむき息を整える。その背を柔らかい手が労い、目の前に木椀に入った水が差し出された。受け取って勢いよく飲み干した少年は、フェフ副長に礼を言おうとして顔を上げ――固まった。
「えっ……っと、あの、その……補佐官さんだったの……? えっと……お水、ありがとうございます……」
「――コール君。何ですか、その態度。私はまだ何もしていませんし、何も言っていませんよ?」
てっきりフェフ副長だけだと思い込んでいた牧柵周辺だったが、彼を労り水を手渡してくれたのは、なんとソーン補佐官さんだった。『あははは……』と乾いた笑いと多少引きつった表情で後退りながら、コール少年は補佐官さんに礼を告げる。
「なんていうか、もうこれは条件反射みたいなものなんです~。ごめんなさいーーっ」
「だから何故そんなに怯えられなければならないのですか、私は。失敬な」
至極真面目な表情で不本意さを告げる補佐官さんと、さらに乾いた笑いを返すコール少年の様子を見て、フェフも思わず苦笑する。大部分が“自業自得”と呼べるものであるとはいえ、少年が補佐官さんから「柔やかな微笑みを伴うお説教」を受けた回数は枚挙に暇がない。怯えられるのも仕方が無いというものだ。
“条件反射”で多少涙目になるコール少年の足元で、カンバイの白茶の尾がふさふさと揺れる。急に挙動不審になった飼い主を気にして、彼の周りをくるくると回りながらその身体をすり寄せていた。
「コール、カンバイに心配されているよ? 君は何もしていないどころか、今の君は僕たちの大事な“仕事相手”なんだから、そんなに動揺しないで。早く放牧地に行かなきゃいけなんだろう?」
「――あ、そうだった。そういえば、補佐官さんに直接渡さなきゃいけない物もあったんだった」
「私に?」
不毛な緊張感を作り出す二人を宥めるかのように、フェフはコール少年を促した。少年も気を取り直して本来の“お仕事”である、詰め所からの届け物をフェフとソーン補佐官に渡す。
「こっちが『定例連絡』だそうです。それで補佐官さんへの袋には――えっと何だったっけ。あ、そうだ。『本部から隊長宛の、シンテン』だって。ねえ、シンテンって何?」
「『親展』は、本人しか確認してはならない書面のことです。了解しました」
「でもストライフ兵営長さんが『フェフさんには預けるな、隊長に直接渡すのも駄目だって。絶対に補佐官さんに渡せって』 でも何でかな? 『シンテン』だったら隊長に渡さなきゃ駄目なんでしょ?」
コール少年の問はもっともであったが、その問いかけにフェフは苦笑するしかない。さすがストライフ兵営長、よく分かっていらっしゃる。
「フェフを経由してからであろうと無かろうと、隊長の手に渡ったらちゃんと開封されないからですよ。私が隊長の目の前で開封させなければ処理されないと、兵営長は判断したということですね。ありがとう、コール君。確かに受け取りました」
――自分たちに向けられたもので無いことは分かっているものの、柔やかな笑みで『隊長宛の親展書類』の存在を確認している補佐官さんに、思わず表情が引きつるフェフとコール。何を思いだしているのか、補佐官さんの表情はふつふつとした怒りさえ感じられる“いつもの”笑顔だった。
「ねえ、コール。ストライフ兵営長は――どんな様子だった?」
そんな補佐官さんから逃げるかのように、とりあえずの役目を終えて戻り支度に入ろうとするコール少年だったが、フェフからの問いかけに少し真面目な表情で向き直る。フェフが問う内容はいつも同じ。心からの心配と、どこか少しだけの怖れと怯えを秘めたもの。返すコールの口調も、軽快さを欠く。
「ん……ストライフさん自身は変わりなさそうでしたよ。でも、やっぱり元気はないです。昨日は奥さんとも会ったけど、やっぱりちょっとやつれてて。ボクもそうだけど、町のみんなも心配してるから、ストライフさんはそれをかえって気にしているみたい。――ティンネちゃんは……相変わらず」
「そっか……」
――ストライフ兵営長は、現在兵営に居ない。
恵みの麦祭りを前にして、隊長から『ウリヤンド所長との勤務交替』を命じられ、もう一月になる。原因は、彼の愛する次女ティンネの病状が予断を許さないものになっているからだ。
夏に体調を崩した際は、単なる夏風邪程度だと思われていた。だが高熱がひいた後も断続的に微熱が続き、身体の痛みや気怠さを訴えるようになり、現在ではほぼ一日中を寝たままで過ごしている状態だ。町の医者、そして先日にはディングル市の医者にまで診せたそうだが、原因は分からず終い。それまで大きな病気も怪我もすることなく元気に過ごしてきた愛娘の思わぬ病に、ストライフ兵営長もその細君もすっかり消沈している。
家族愛に溢れかえり、家族からは時として鬱陶しがられ、町衆には揶揄されるほどの彼であったが、しかし第25隊の兵営長としての勤務を疎かにしようとはしなかった。ティンネが病床を離れられない状態になってなお、毎日の兵営通勤を辞めようとしなかった彼に、隊長は珍しく怒りを見せて彼を町勤務の“所長”に配置換えしたのだ。
* * *
「お前さんにとって大事なものは何だ? 意地を張ってる場合か!」
「いいえ、隊長。当然娘が大事です。ですが、俺は第25隊の“兵営長”です。示しがつきません!」
「ああ分かったよ! そこまで言うなら、“兵営長”で無くしてやる。お前さんは明日から“所長”に降格だ。ウリヤンドを代理の兵営長に据える。文句は受け付けん、いいな?
おい、ソーン。指示書、作っとけ! 期間はとりあえず秋分までだ」
あの夏の終わりの日。兵営執務室で交わされた激論を、フェフは今でも覚えている。涙ながらに自分の職務を果たそうとするストライフ兵営長を、隊長は許さなかった。幾度か繰り返された不毛なやり取りのあげく、隊長は『隊長命令』としてストライフ兵営長の職務を解いたのだ。
「いいか、お前さんが手を握っていてやらにゃいかんのは、ティンネだ。そしてお前さんの家族だ。愛娘を、愛妹を、ただ見守ってやるしかなくて自分の手を見つめ続けるお前さんの妻と娘。そして愛し愛されている家族の哀しみを幼い身体で受け止めて苛まれるティンネ。お前さんが抱き留めてやらにゃいかんのは、まず彼女たちだろう!?
いいか、ここは国境守備隊第25隊だ。お前さんは第25隊の兵だ。守るべきものは、この地の平穏な暮らしだ。哀しみのない毎日だ。自分の間近にあるものを守れなくて、何が兵営長だ、馬鹿者。ちょっとは反省しろ!」
隊長らしい、ぞんざいでありながら心に響く言葉。厳しい声色ではあったが、そこにあるものは限りないまでの愛情だ。それが分かるだけに、ストライフも意地になる。だが彼の反論を制するかのように、それまでは口を挟まず傍らで黙って議論を見守っていたソーン補佐官がとどめとなる言葉を紡ぐ。
「ストライフ兵営長。先の監査においてもそうでしたが“兵営長”の不在は、隊にとって大きな不安要因となります。隊の職務を“最優先事項”と出来ない第三位は困ります。
何しろ、我が隊の第一位はぼんくら頭、第二位はまだ若年、いずれも戦力外です。“兵営長”は隊の要なのですよ? ――責任を果たせないならば、素直に退いて下さい。迷惑です」
普段は兵営長の経験や職位を慮って示されることのない、冷厳なソーン補佐官の態度。その慇懃無礼さを隠すことなく前面に押し出して、彼はストライフの反論を封じた。半ばとばっちりで戦力外扱いを受けてしまった第二位であるフェフ副長だが、言葉通りの意味でないこと位は分かる。これも補佐官さんなりの兵営長への配慮だ。第25隊の最年長者、生粋の第25隊の兵として、彼が退かねばならない正当な理由。それを、補佐官さんは“責任”の名の下に与えたのだ。
「……ソーン補佐官。今の俺は、隊にとって“不安定”だと言うのだな……?」
「はい、その通りです。よって私は今回の隊長の命を支持します。今日の帰宅までに指示書を作成いたしますので、お持ち帰り下さい。ウリヤンド所長とケーン事務官への指示書もお預けします。明日からは兵営への出勤は不要――いえ、禁止です。
――ストライフ兵営長。貴方はこの隊の要です。その責を果たすために、選択するものを誤らないで下さい。もう誰も失いたくないのは、貴方だけではない。町の皆も同じなのです」
今回の件でフェフは初めて知ったが、ストライフ兵営長には愛娘二人の他に息子が二人いたそうだ。だが15年ほど前にこの地方を襲った流行病で、若くして二人とも失った。ティンネはその哀しみを乗り越えて得た末娘だ。家族皆から愛されている。
町衆達もストライフの家族を襲った悲劇を知っているだけに、今回のティンネの病状を気遣い心配している。ディングル市から医者を連れてきたのは、叔父であるファゴス町長だ。町の夫人達も、ストライフ不在の間の細君と姉娘を気にかけ何かと世話を焼いている。
何か反論するために言葉を紡ぎ出そうとするストライフだったが、ソーン補佐官の言葉に対抗する言い訳は見つからない。“生粋の第25隊の兵”として、「隊への責任」を押し出されては彼には抗う術がない。グッと言葉に詰まって、ストライフは拳を握り込んだ。
「…………分かった。拝命する。
ですが隊長。俺の所長としての職務は果たさせてもらいますよ!」
「もちろんだ。あっちにはケーンが居るとは言え、手を抜くなよ?」
「誰に向かって言っているのですか、馬鹿にして! 俺はあなたの前の隊長の元では所長だったんですよ、勝手は分かってます!!」
「ならば安心だな。じゃあさっさと日常業務を終わらせて、毎日早く帰ってやれ」
「……言われなくてもそうしますよ!!」
内心の感謝を隠すためか、はたまた照れ隠しなのか。ストライフの口調は喧嘩腰だったが、その声には紛れもない安堵の響きがあった。対する隊長の表情もいつもと同じ、にやついた人の悪い笑顔だ。ソーン補佐官も平静の態度に戻っている。その光景に、何一つ役に立てなかったフェフは心苦しさを覚えながらも、兵営長のために笑顔を向けた。
そんなフェフを目にして、ストライフは若干の後ろめたさを覚える。彼の前でみっともない、また不安な様子を見せてしまったことに、年長者として恥じるところがあるのだ。何より彼の前で「家族」に関わる醜態を見せてしまったことに、情けなさを感じた。
フェフは「本当の家族」を知らない。5歳の時に、遠い西方ヨーラ国から連れられてルーニックにやってきて――王都で置き去りにされた。彼にヨーラ時代の記憶はない。覚えているのは、ルーニック国軍【能力者】管轄部門での生活だけだ。
育ての親となってくれたヤーラは指折りのドルヴィでもあったが、それ以上に人格者としても知られており、彼を慈しみ愛情豊かに育ててくれた。周りのドルヴィ達も、幼い彼を我が子のように可愛がってくれた。フェフの素直な性格は、そうやって育まれてきたものだ。
「家族の愛」は知っている。だが“箱庭”で育まれた愛情は、フェフを人一倍愛情に臆病な人間に育ててしまったようだった。彼はドルヴィ以外から親愛の情を向けられることに慣れていない。またその愛情を受け取ることに慎重だった。
第25隊に赴任し、隊長からのある意味手荒な対応を受け、隊員達からも特に気負わない待遇で過ごし、何よりコール少年との交流を通してようやく“人間らしさ”を増してきたと言える。だが未だ不十分で不安定なのだ。その彼を不安がらせることは、ストライフも望まない。――生きていれば長男とほぼ同じ年の、まだ年若い“ドルヴィの副長”。
「フェフ副長。迷惑かけるな、すまん。兵営のことは任せた。よろしく頼む。補佐官さんと協力して、ウリヤンド所長を助けてやってくれな? 隊長なんて当てにするなよ?」
半ば茶化すように、自然な笑顔でフェフの頭をぽんぽんと叩く。フェフの心を安心させられるように、と願いながら。
――ヨーラ人であるフェフは、大概のルーニック人やオガム人より背が低い。隊長とは14ユンケ(約35cm)以上違うし、フェフの次に背が低いオウンでさえ3ユンケ(約7.5cm)は高い。成長期のコール少年にも、もうすぐ抜かされそうだ。よって彼に触れようとすれば、何となく頭が丁度いい高さなのだ。隊の皆が彼の“頭”を叩くのには、他意はない。
フェフは最初、子ども扱いされているようで嫌だったが、今となっては皆のその行為に嬉しさを感じる自分がいる。何となく「家族」のようで。
「分かりました。及ばずながら、頑張ります。――兵営長が居ないと、隊長のお世話をする補佐官さんの負担が大きいので、早く戻ってきて下さいね」
「ああ、そうだな……補佐官さんだけじゃ、この隊長を御しきれないかもなぁ」
「失礼な。私がどれほど長い間、これの面倒を見てきたと思うのですか。貴方やフェフ副長の手を借りるまでもありません。フェフ、貴方はウリヤンド所長の補佐を全力でお願いいたします。隊長は放っておきなさい」
平常通りに、でもどこかに少しの無理を潜めて。そんな会話を紡ぎながら、ストライフは感謝を、フェフは心配と親愛を乗せて笑顔を交わした。
明日からストライフは兵営には来ない。ウリヤンド所長もアラグレンに妻子がいるから、通いになるのだろうか。念のため、居室を準備しておかないと。班長達には何と説明するのだろう。そういえば、これからは誰が「伝言係」になるのかな……何だったら、コールに頼んでみようか。
そんな算段をしながら、フェフは誰一人望んだわけではない兵営の“変化”を、どこか落ち着かないまま迎えたのだった。
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初出の単位【ユンケ】(ynce:古英語のinch由来)
1ユンケ=約2.5cm、です。




