ローマ強襲
島津豊久生存中の話。
流行り病で三女と四男・慈安丸を失った豊久・シャルロット夫妻は
「五男の比律普丸は寺に入れて、色々と祈って貰おうか」
となった。
(息子が僧侶となれば、思う存分敵を殺せる)
騎士もいる修道院に預けた。
しかし、この時期の日本の仏寺、キリスト教教会、明国道教寺院、チベット密教(性的ヨガ)はいずれも腐敗していた。
その修道院では司祭が、豊久似で睫毛が長く、色白で手足のスラっとした比律普丸を手籠にしようとした。
比律普丸は隠し持っていた鉄扇で司祭を滅多打ち。
司祭は鼻の骨を折られ、片方の眼球を潰され、睾丸を破裂させらた挙句、所業を全てバラされて破門された。
そして修道院からは
「すみませんが、うちでは預かり切れません」
と送り返される。
「腐れ坊主奴が!
もう頼まん!!」
豊久は怒り、その修道院を焼き討ちする。
比律普丸はその後は寺に預けられる事も無く、父の下で伸び伸びと育てられる事になる。
――二ヶ月程前。
「島津惟新斎様でごわはりもすな。
お初にお目にかかりもす。
俺いはアルプス修験道の平太と申す者ごわす」
「おお、おはんが案内人か」
「はっ。
我等アルプス修験道、この日を待ち望んでおりもした。
道々には我等が長、恩慈が命にて兵糧を蓄えておりもす。
皆様は重い荷物は置いて、身軽な恰好で山道をお進み下され」
アルプスの恩慈は、一見通行不能なこの山脈だが、幾つも抜け道が在る事を知り、その全てを徹底的に調べた。
そして新当主の家久に報告していた。
今回、家久はダルマチア島津軍を正面から進め、搦め手としてアルプス越えを考えた。
それを恩慈に下令、恩慈は配下の者たちに兵站拠点構築と、物資を運ぶ動物の手配をさせた。
こうして、二千五百の島津義弘軍は滑落者をごく少数出しただけで、あっさりとアルプスを抜けて、フランス南部アヴィニョンまで到達したのであった。
家久は他にも手を打つ。
東郷重位を呼び出す。
貿易の責任者でもあり、剣では達人を超え、剣聖の域に達した東郷は、もう暗殺剣を振るう事は無い。
正々堂々とした戦以外で、太刀を抜く事も無いだろう。
(修行中だって木剣で戦っていたが)
家久が頼むのは、イスパニアで猛威を振るう「エル・シド剣士団」対応である。
示現流の始祖と高弟たち以外に、何時襲って来るか分からない剣戟の町を任せられる者はいない。
東郷は黙って一礼して拝命する。
家久は副帝となって以降、鹿児島やアテナイに滞在する事が増え、帝都コンスタンティノープルは正帝コンスタンティノス12世と元老院に任せている。
無論、直属の工作員は残してあるので、裏切り行為があった場合容赦しない。
しかし、莫大な金銀を持つ家久は東ローマ帝国のパトロン的存在であり、筋目を立てて成人したパレオロゴス家の者に政権を返し、政治に口出しせず、予算面で支援してくれる家久と島津家を排除したい者はもう居ない。
東ローマ帝国は、皇帝親衛隊と帝国海軍を軍備として持つが、遠征軍も属州警備軍も全て薩摩に依存出来るので、「軍隊の無い、経済に全振分」な富国政策を実施していた。
副帝顧問のチコ・シモネッタが正帝の補佐もするが、それも嫌がる者は居ない。
島津家と東ローマ帝国は信頼関係が構築されていた。
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家久は島津家の当主であり、全軍が彼の兵である。
しかし逆に言えば、兵は必ず誰か重臣・一族の者の配下であり、家久直属の兵というのは少ない。
その為、島津忠恒と名乗っていた時期から薩摩人以外の自分の私兵も作っていた。
アテナイ兵団とテッサロニキ兵団、ブルガリア人傭兵団が家久の直属軍になる。
島津家内部では当主直属の馬廻衆約千騎と、忠恒時代からの親衛隊数十人が家久の部隊になる。
(大名家としては、大名単独で動く事は無い為、こんな少数になった)
軍事行動の為の政務を一段落させると、東ローマ帝国は正帝に、島津家の事は家老衆に任せて、家久は密かにタラントに渡る。
タラントも以前の家久の所領で、今回はナポリ島津家に頼んでタラントの部隊は家久指揮下に入れるようにして貰っていた。
こうして家久はイタリアでの攻撃態勢を整える。
キリスト教にワルドー派というものがある。
清貧の追求、禁欲的な生活、司教でない信徒による説教の許可、聖書のラテン語からの翻訳を掲げた。
また、ゲルマン人布教への方便だった煉獄の存在や聖人崇拝も「聖書に無い」と否定した。
当然、教皇庁からは異端とされる。
この頃ワルドー派信徒は迫害を避け、イタリアンアルプス、ミラノ西方のピエモンテに隠れ住んでいた。
教皇インノケンティウス8世は、イスパニアでの異端審問の成果やサツマン人撃退の報に喜び、中欧での魔女狩り許可の回勅や、ワルドー派殲滅命令を出し始めた。
また、ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラという哲学者にも異端の疑いをかけている。
彼が「人間は自由意志によって、神にもなれば獣にもなる」と唱えたからだ。
ミランドラはフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチが保護していて、迫害は辛うじて免れている。
家久から見れば、先鋭化して来て、討ち頃である。
家久にとって絶好の開戦の口実が出来た。
教皇は調子に乗り、チェスト主義の禁止を命じた。
聖書の恣意的な解釈をしているという理由である。
「主なる神は知恵の実を食べるなと言った、つまり人間に知恵は不要」なんてのは、家久からしても「異端でいいだろ」と思うが、薩摩に関わる話な以上開戦の口実になる。
「薩摩より出た宗派を否定した」
という文句を書面で叩きつけ、撤回しなければ実力行使に出ると脅す。
イスパニアでの善戦から、インノケンティウス8世は薩摩を甘く見た。
より強力に「チェスト主義とサツマニア神学の禁止」を宣言。
そしてタラントに居た家久軍が電撃作戦を開始した。
教皇は驚く。
家久はコンスタンティノープルに居たのでは無かったか?
いつの間にタラントに渡っていたのか?
準備も出来ていない教皇軍を、非薩摩人部隊ながら家久直属軍は次々と打ち破る。
正直、強さから言ったら
モスクワ兵≒スイス傭兵≒薩摩兵≒イスパニア兵>(中略)>イタリア傭兵
なので、イスパニアの奮戦は教皇軍の戦力とは全く無関係なのだ。
軍事が分からない聖職者は「神のおかげ」と同一視するが、イスパニアの兵は十分世俗的な理由(軍功次第で昇進は思いのまま)で強い。
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「来たぜ……ぬるりと……」
フィレンツェでロレンツォ・デ・メディチが変化に気づいた。
それはサツマンによるローマ侵攻等という局所的なものでなく、教皇の世俗支配が弱まる動きを読んでの判断である。
フィレンツェ共和国軍は北からローマに侵攻した。
「進撃速度が速過ぎます」
という傭兵隊長の言葉にも
「今、チマチマと村落を落としている暇は無い。
教皇の身柄の確保。
それでなければ、フィレンツェは、俺は、島津家久と対等になれない」
と言った。
なおも納得のいかない傭兵隊長にロレンツォは
「分からんか?
サツマンが先にローマを落とし、教皇の身柄を抑えたら、殺さないまでも奴は鹿児島とやらに教皇を連れ去るぞ。
そこで思うがままに回勅を出させるだろう」
やや間違ってはいるが、教皇の傀儡化をロレンツォは見抜いていた。
神をも畏れぬサツマンと言えど、秩序は必要。
秩序を維持する為には、権威の頂点を崩してはならない。
島津家久はキリスト教徒ではないから、絶対に教皇にはなれない。
である以上、教皇は活かして使うだろう。
協力すべきとこはサツマンに協力するが、それでも教皇を完全にサツマンの手に落としたらフィレンツェだけでなく、キリスト教社会が危うい。
傭兵隊長も、教皇の身の危険を理解し、先にローマを落とす事を承知した。
幸い、教皇軍は主力を家久軍に向けていた為、奇襲となったフィレンツェ軍はあっという間にローマに辿り着く。
「ロレンツォ卿、全イタリアが協力して侵略者に当たるべきなのに、汝はサツマンに味方するか?」
教皇インノケンティウス8世の糾弾に対し
「今、オレの虜囚にならないと家久の虜囚になる。
どちらがマシか考えろ。
少なくとも俺は、アンタを救う為に来たのだ」
と返答した。
ゴネていた教皇だったが、教皇軍が家久に敗れたという報が届くと、条件を色々着けてフィレンツェに投降した。
(教皇は掴んだ。
あとは家久相手に何処まで駆け引き出来るかだ)
フィレンツェは、獲物を狙って出て来た狼の目の前で、それを掻っ攫ったトンビのようなものだ。
下手を打てば、サツマンの攻撃はフィレンツェに向けられる。
しかもサツマン人は博打には不向きな相手。
自分が勝てば喜ぶが、負けるとイカサマだと叫ぶより先に刀を抜く。
鎮西武士全てが転移後の安定期に、ずっと島津家や相良家に仕えた訳ではない。
新しい主君を探して他国に仕えた者も少数ながら居る。
そういう捻くれ者、腕に自信がある者で、花のフィレンツェにやって来てメディチ家に仕官し、傭兵隊長兼ロレンツォの対薩摩情報源となった者もいた。
彼等からある逸話を聞いた。
『かつて鎌倉という武家の聖地があった。
そこで鎌倉殿に仕える梶原平三という者が、上総介を双六に招いた。
双六に興じていると、やにわに梶原、刀を取りて上総介を討つ。
上総介は鎌倉殿の忠臣であり、鎌倉殿挙兵後に三万騎を率いて駆けつけた男であったが、その所領は極めて大きく、鎌倉殿を脅かす恐れがあった。
梶原は鎌倉殿の意を受けて、上総介を討った』
島津家は、この鎌倉殿の末裔と自らを称している。
(一方で太陽の国の宰相コノエの子孫とも言っている)
島津家では天文年間(1532〜1555年)に、鎌倉幕府の事を纏めた「吾妻鏡」という本を写本している。
この武士は、そこまで内情に詳しくは無いが、島津家は鎌倉以来の祖法を大事にし、鎌倉以来の気風を維持し、やり方は鎌倉に倣っている。
(博打は暗殺の手段になり得る、更に功臣だろうと恩人だろうと平気で殺す。
俺はそんな奴等相手に博打を仕掛けた)
教皇を手駒に、島津家相手の駆け引き、博打でしかない。
(だが、狂気の沙汰程面白い)
ロレンツォ・デ・メディチは皇帝家久に、ローマに先に入城した事と、ローマ教皇その他を「客人として保護した」という手紙を送る。
すぐに返信が来た。
『教皇の事、貴君に暫く任せる。
いずれ彼の人について談合したい。
ピサの地で会おう』
(ピサだと?
ピサはフィレンツェの支配下にある。
皇帝はそんな事は知っている。
つまり、俺の懐に飛び込んで来るという事。
呼びつけられるなら、暫く拒む必要が有ったが、ピサなら断る理由は無い。
主導権を握る駆け引きを省略したのか、それとも何か策が有っての事か?)
二代目島津家久、昔の名は島津忠恒だったが、彼に対しては祖父コジモ・デ・メディチも警戒していた。
まだ二十歳にならない若造の忠恒を
「単なる野蛮な兵士と見てはならない」
と行政力だけでなく、集金能力や資金の効果的なバラ撒き方を褒め、一枚噛む事で貸しを作ろうとした。
その貸しは、父・ピエロ・デ・メディチが不意にしてしまったが、ロレンツォは自ら別な形で皇帝となった家久と関係構築した。
(おっかない、おっかない、ククク……。
蛮行に見えて計算ずく。
短慮に見えて用意周到。
数万の野蛮な兵士を束ねる頭の冷めた当主。
何を考えているのか。
一番の獲物を横取りされても悔しさを見せない。
演技なのか、それとも本当に悔しくないのか?
イスパニアでの戦争を終わらせる切り札として教皇を使う、それは俺でも読める。
その先だ。
奴はこれより先のローマ教皇をどうしたい?
それを見誤ると、メディチ家は潰れる。
メディチ家が亡びる事自体は、ローマ帝国すら滅びたのだし、有り得る事だ。
それが俺の無能から、ってのは勘弁願いたい。
俺の代で亡びるなら、全身全霊を尽くした勝負の果ての滅亡でありたい)
ロレンツォは考えを纏めると、天井の方に向かって語りかけた。
「……そんな訳で、俺はローマの守護者になるようだ。
東ローマ帝国副帝相手に、教皇の生命を守る勝負をする。
だから……その勝負を邪魔するな。
短絡的に考えるな。
……一見敵に見えてもそれが味方かもしれない。
誰が敵か……深く考えろ。
それが出来ないなら……黙って見ていろ」
天井裏の存在は、ロレンツォに圧倒されていた。
おまけ:
ヨーロッパ各地でカエルが死んでいく。
現時点でそれを問題視している王侯は、カエル料理の地の元領主シャルル1世、フランドル王だけだった。
「まだ無事なカエルを城に保護しろ!
ペストも人里離れた牢獄では患者が出なかったという噂を耳にした。
厳重に守れば、カエルの謎の死を防げるかもしれない!」
この隔離策以外にもシャルルは様々な手を打つが、敵の正体も分からず、大体
「カエルが死ぬ?
そんな事もあるんじゃないの?
騒ぐような事かい?」
と他国の協力は全く得られない。
そんな中、薩摩から一条の光が!
島津豊久未亡人シャルロット夫人からお手紙着いた。
「義兄様。
お手紙ありがとうございます。
実は私もカエル料理の為にカエルを取り寄せていましたが、すぐに死ぬのを見て来ました。
薩摩の方もカエル料理を喜んでくれたので、何とかカエルをこちらでも生きられるように出来ないか、頑張りました。
多くのカエルが主の元に召されました。
しかし、20年程の中で生き残るカエルが現れました。
彼等は今も生きています」
半分蠱毒を作るような過酷なやり方で、薩摩では免疫を得たグルヌイユ(ヨーロッパトノサマカエル)が生まれていた。




