チェストVSサンチアゴ
シェークスピアさんに質問。
サツマンが貴族大量殺戮をしたから、今まで貴族に独占されていた官職に庶民が就けるようになり、貴方の父親も役人になれたのだから、むしろ感謝すべきでは?
シェークスピア曰く
「それはそれ、嫌いなものは嫌い。
それと、サツマンの悪事はまだ終わってないから」
聖ヤコブは、父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガラリア湖で漁師をしていた。
網の手入れをしていた時にイエス・キリストに声を掛けられる。
ヤコブとヨハネはキリストの弟子となり、彼に付き従った。
キリスト昇天後、ヤコブはエルサレムで活動していた。
そして当地の王ヘロデ・アグリッパ1世によって殺される。
ヤコブの弟子2人は、遺体を乗せた船を漕ぎ出し、海を彷徨った挙句に辿り着いた地に墓を作ったという。
西暦44年頃の事であった。
9世紀、イベリア半島大西洋岸。
星に導かれた羊飼いが、その地で墓を見つける。
調べてみると、聖ヤコブの墓であると言う。
聖ヤコブのスペイン語読み、サンチアゴからこの地はサンチアゴ・デ・コンポステーラという名になる。
時、折しもキリスト教徒はイスラム帝国に北部に追いやられ、そこから被征服地を奪還する戦争が起こっていた。
聖ヤコブはイスパニアのキリスト教諸国で熱狂的に崇められる聖人となった。
イスパニア兵は、神の加護を得んと鬨の声を上げる。
「サンチアゴ!」
と。
それは薩摩人の「チェスト」、東ローマ兵の「キリエ」、多くのキリスト教国の「フラー」、イスラム兵の「アッラー・アクバル」、スイス傭兵の「アヴェ・マリア」のようなものである。
この鬨の声を上げているイスパニア兵は狂奔し、猛烈になる。
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現在、薩摩とイスパニアは3方面で戦いを繰り広げている。
まずは島津忠仍とイスラム連合が、グラナダからセビーリャを攻撃、ロペス・デ・パディージャが指揮するカラトラバ騎士団がセビーリャを守備し、攻防戦が始まる。
カスティーリャ王国の兵が続々と援軍に駆け付けて来ている。
兵力は双方に3万同士になろうとしていた。
続いて南仏戦線である。
プロヴァンス伯が支配してたこの地を、1481年にルイ11世が併合した。
だが、そのルイ11世は死に、幼い国王が即位したばかりである。
イスパニア軍はフランスの抗議も無視し、南仏に部隊を展開し、ミラノを通過して来たダルマチア島津軍(元の豊久の軍勢)を迎え撃つ。
イスパニアは、ここの島津軍を主力部隊だと捉えていた。
先代家久以来の約一万の軍は、オスマン帝国、神聖ローマ帝国、ミラノ公国、黒羊朝、モスクワ大公国という国々を常に包囲戦で殲滅し、どの国も深刻なダメージを食らっている。
小競り合いは兎も角、大戦では二代に渡る常勝軍なのだ。
イスパニアもここにはサンチアゴ騎士団を送り、騎士団長ドン・アロンソとその弟ゴンサロ・フェルナンデスのコルドバ兄弟という戦上手が指揮を執った。
第三の戦線は地中海である。
サルディーニャ島を薩州家、コルス島を島津忠隣が攻めているが、ここはサルディーニャ副王フェルナンドが守備隊及び艦隊をもって守っている。
この三戦線、戦況は拮抗していた。
イスパニアの兵は、剣と盾で武装している。
一般的な傭兵と似たようなものだが、違うのは練度と士気だ。
イスパニア諸国は恩賞が手厚い。
一兵卒でも戦功を立てれば貴族にまで登れる。
それ故に剣技に優れた兵士が出て来る。
かつてのスパルタオリンピックで剣術部門の優勝をしたのはカスティーリャの騎士だった。
当時東郷重位不在だったとはいえ、その強さは本物である。
この部隊は、広く展開可能な平原で戦えば弱い。
剣で武装した歩兵に若干の軽騎兵では、例えばスイス長槍傭兵団の方陣と平原で戦えば、到底勝てない。
同じくワラキアの軽騎兵の両翼包囲、ハンガリーの装甲馬車の砲列展開相手でも同様だ。
だが、山岳の多いイベリア半島での、兵を少数に分け、場合によっては個人の武勇をもって戦わねばならない戦場では、圧倒的に強い。
イベリア半島には村落から町程度の城郭都市が多数点在し、大軍を展開しての野戦を行う場所は乏しい。
それなのでイスパニア諸国は、工兵による野戦陣地構築、砲兵による城門破壊、剣士による市街戦や山岳戦、それもゲリラ戦を得意とする。
モスクワ大公国軍が冬季の森林や河川の入り組んだ地形での戦闘を得意とし、薩摩にも甚大な被害をもたらしたように、イスパニア兵もイベリア半島やサルデーニャ島、シチリア島といった山がちな地形では無類の強さを発揮する。
奇しくもそれは日本の大名軍と似ていた。
日本の大名軍は、村落出身の兵をある程度纏める組頭がいて、それらを束ねる足軽大将が居る。
それらが寄子となり、寄親となる小領主に率いられる。
小領主の軍も、大名の家臣である武将たちに纏まって指揮される。
そして地形的に平野に乏しく、山間や河原、峠や丘陵等が戦場となり、小さい戦闘があちこちで起こる。
基本的には小規模な部隊の集合体であった。
長篠合戦での武田氏衰亡は、合戦で多数の中小級指揮官が失われた、近代風に言えば熟練した下士官が戦死したからである。
この老練な村落単位の指揮官や、戦上手な小領主が多い程軍は強い。
……織豊時代で変わって来てはいるが、大多数はまだこんな感じだ。
イスパニアでの戦闘は、北方も南方も東方の島嶼も、悉く小集団での戦闘が広域で数多く繰り広げられるものであった。
双方が同じ地形を得意とする、双方が。
つまり、一方的ではない。
「チェストー」
と猿叫を挙げながら長巻や薙刀、野太刀を振るう薩摩隼人に対し
「サンチアゴー!!」
と絶叫しながら盾を持っての踏込をし、長剣を片手ながら精妙に操るイスパニア兵。
特にセビーリャでの市街戦、村落戦で小規模の部隊によるゲリラ戦を仕掛けて来るイスパニア剣士に、薩摩隼人と言えども苦戦をしている。
野太刀薬丸流は、実は集団戦法の為の野太刀操法だ。
横や斜めに振る動作が無く、基本的に上から下に斬り下ろす。
横隊を作った時に、蜻蛉の構えで脇を締め、上から斬り下ろす動作の兵は密集させやすい。
薩摩野太刀剣術の強さはこれである。
密集突撃して来るチェスト。
防ぐにはスイス長槍傭兵のように密集した槍襖で、決して下がらない事。
大概の軍は、奇声を発しながら長大な野太刀を天高く掲げながら走って来る部隊の狂気に呑まれ、陣形を崩して散々な目に遭う。
しかし剣技に自信がある上、路上や家屋の中といった密集隊形の採れない戦場で、ゲリラ戦をして主導権を持って戦うイスパニア兵は、しばしば薩摩の野太刀装備の小集団を壊滅させていた。
相手が有利ならば野戦陣地に籠って防御戦をする。
更にカスティーリャはとっておきの部隊を戦場投入した。
剣技に秀でた兵や騎士だけを集め、彼等を更に特訓して鍛え上げた剣客部隊。
日本では三百年以上後の「新撰組」という部隊がそれに近い。
イスパニアの伝説の剣士エル・シドの名前を取った「エル・シド剣士団」が、南方のセビーリャ方面に現れた。
彼等が昼の戦場に現れ、薩摩歩兵の攻撃を跳ね返すようになると、一般の剣士たちは夜の戦場に回る。
夜襲、奇襲、不意打ち、とにかく夜間しつこいくらいに薩摩軍を攻撃する。
島津忠仍は薩摩武士だけで戦っているのではない。
同盟軍であるイスラム諸国の兵もいる。
そのイスラム教の兵士たちが、昼夜絶え間ない剣士の襲撃に音を上げた。
彼等も砂漠の戦場で広く馬を駆ける戦いなら真価を発揮出来ただろうが、見知らぬ土地で、他国の為に、何時襲われるか分からない状況で戦い続けるような戦闘狂ではなかった。
島津忠仍は
「他国衆を率いて思うように戦えなかった亡き図書頭殿(島津忠長)の苦労がよお分かった」
と言い、兵をセビーリャから退いた。
薩摩軍撃退に士気の上がるイスパニア軍だが、彼等も消耗している為、追撃の余裕は無かった。
仕切り直してグラナダに攻め込むとしよう。
一方北部戦線。
南仏に進出し、勝手にそこを戦場としたイスパニア軍は苦戦していた。
ここには砲兵の達人・ジャンヌ・ダルクが亡き島津豊久の分も働くと、将として戦っていた。
砲撃に陣形を崩され、騎兵突撃も島津の槍隊に阻まれるサンチアゴ騎士団。
次第にイベリア半島側に押し込まれるサンチアゴ騎士団だったが、彼等は学習して戦い方を変えた。
ドン・アロンソとゴンサロ・フェルナンデスのコルドバ兄弟は、現状の編制では薩摩軍に勝てないと判断。
思い切って戦争中に「基礎戦闘法」を一変させた。
彼等は得意の剣を捨てさせ、長槍を持った歩兵による方陣を作る。
方陣の四隅にクロスボウや銃の兵を置く。
これを小集団で多数作り、指揮する士官に大佐の階級を与えた。
大佐が指揮する一個部隊をコロネリアと呼んだ。
この多数のコロネリアと野戦築城を用いて、砲撃に耐え、歩兵攻撃に対しても柔軟で粘り強く戦うようになると、島津忠偉(豊久次男)率いるダルマチア島津軍も前進が止まってしまった。
「ここまで苦戦するとは思わなかった」
忠偉がボヤくが、弟で軍師役を務める島津七郎三郎忠安は
「俺いたちの役割は敵を引き付けておく事。
確かに陛下(家久)は臨機応変に、勝てるならそのまま行けチ申されもしたが、
足踏み状態になった以上、予定通り敵を引き付け、逃さんようにすれば良かごわそう」
と返す。
家久の頭痛の種、豊久若き時分の生き写しと言われた七郎五郎忠比は
「兄サァたちは臆したか!
どれ、俺いが行って敵ン首引っこ抜いて来んで」
と抜け駆けしようとし、忠安から破局的落下技を食らい、行動不能にさせられた。
(嗚呼、イエヒサ殿、トヨヒサ殿の血筋が確かにここに在る)
と、老境のジャンヌ・ダルク(ジャンヌ・デ・ザルモアーズ)が思わず涙ぐむ。
彼女の孫なのだが、立派な脳筋に育ってくれたものだ。
「守りは良かが、敵が勢い付くのが嫌じゃの」
「知性こそ薩摩軍法の源!
その最大の本質は防御力の高さにある!!
勢いづくような成果を敵は出せない!」
ちょっと見当外れな事を言って兄を煙に巻く知将忠安。
何か言いたそうだったが、忠偉は話題を変えた。
「そいで、惟新斎様は今はどの辺りかの?」
「一月前には山に入ったチ聞きもしたが、以降は伝令も来ておりもはん。
じゃっどん、案内人も居りもす。
そろそろやって来るのではなかかと」
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ダルマチア島津軍とサンチアゴ騎士団の睨み合いは、島津義弘がアヴィニョンに突如現れ、そのままイスパニア本土に向けて侵攻という報が入った事で終わった。
「鬼島津はどうやって現れた?
ミラノから我が本土に向かうには、この地中海沿岸の細い地域以外に無いだろ!」
ドン・アロンソ騎士団長が机を叩く。
名指揮官と評価されるようになった弟のゴンサロ・フェルナンデスは、地図を見ながら結論を出した。
「アルプス越えだな」
「何だと?」
「その昔、カルタゴのハンニバルが、ヒスパニアからローマを攻めた時、
今我々が布陣する回廊を通らず、アルプスを越えていきなりローマ本土に攻め込んだ。
鬼島津はその逆をやったのだろう」
「信じられん」
「それ以外には考えられないよ、兄さん。
だが、アルプスは大軍が通れる道では無い。
ハンニバルも多くの兵を失った。
鬼島津であろうが、大軍である訳も無い」
「そうだな。
撤退だ。
鬼島津を追いかけ、改めてその場所でサツマニア主力と再対峙する。
急げ!」
こうして島津義弘攻撃の為に陣を捨てたサンチアゴ騎士団を、ダルマチア島津軍が追撃する。
だが、名将ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバにして見逃している事があった。
島津義弘は、少数の兵の時程強いのである。
おまけ:
突進公「カエルが大量死してると聞いた。
ブルゴーニュのカエル料理はローマ帝国以来の伝統である。
何か対策をしているのか?
無策ならブルゴーニュを俺に返せ!」
摂政ブルボン公「単なる風聞に過ぎない」
かくして事態は悪化していく。




