島津家久の遺産
島津家家系図
【宗家(伊作家)】
× ×
日新斎→貴久→修理大夫義久(又三郎)→亀寿姫
| | ||(結婚)
| →兵庫頭義弘(又四郎)→又一郎久保
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| | →又八郎忠恒
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| →右衛門督歳久(又六郎)⇒三郎次郎忠隣*
| | ×
| →中務大輔家久(又七郎)→又七郎豊久
| |
| →源七郎忠仍
|×
→忠将→右馬頭以久(又四郎)→又四郎彰久
|×
→尚久→図書頭忠長(又五郎)→又五郎忠倍
|
→新八郎久元
|
→ 堯仁丸
【薩州家】
× × ×
→忠興→実久→薩摩守義虎(又太郎)→又太郎忠辰
| |
| →三郎次郎忠隣*
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| →又助忠清
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| →忠栄
| |
| →忠富
| |
| →忠豊
|×
→三葉忠継
×は故人
(薩州家の三郎次郎忠隣は、宗家島津歳久の養子に入っている)
薩摩人は気が荒い。
島津豊久が鹿児島内城に顔を出す。
「島津侍従戻り……」
「勝手に他国の内輪揉めに首突っ込むとは何事じゃ!」
挨拶もまともに言わせて貰えない。
それでいて、一発怒鳴るともう話は済む。
「又七郎、おはん、父親の形見を知らぬか?
日記みたいなのが有ると聞いたが」
伯父二人は、そこまで言ってから
「言い忘れたわい。
又七郎、父が事は残念じゃった。
ひとまず線香を上げてきいや」
となる。
豊久も慣れたもので、墓は寺に在るが、其方では無く城内の家久の甲冑に対し線香を上げた。
「親父、豊久戻り申した。
今際の際に立ち会えんでもっさけなか。
供養の為、イングランド焼いて来たんで、そいでお許したもんせ」
なお、豊久は家久暗殺疑惑については知らされていない。
知らせたら、すぐにでもイタリアに乗り込みかねないし、証拠無しに戦争を始めるだろう。
……薔薇戦争介入だって、別に理由が有った訳では無いのだから。
此処まで経って、やっと島津義久、歳久は
「島津侍従豊久、よう戻った」
「ブルゴーニュ公との婚儀、大儀である。
其方の亡き父に代わり、寿ぐものなり」
と帰着への挨拶を返す。
「これよりは亡き父と同じ名乗り、中務大輔を使うが良い」
「過分にごわす。
俺いはまだ父上様には及びもさん。
中務大輔じゃのおて、中務少輔を名乗らせて貰いもす」
「其方の好きに致すが良い」
以上で主従の儀礼終了。
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「そいで、親父の日記とは?」
「うむ、それよ。
其方の父は若き日に京に行ったりし、様々な物を見聞きしよっと。
そいを事細かに書いているのを見せられた。
このヨーロッパで見聞きしたものも有る筈じゃっどん、そいが見つからん。
軍船の絵図が描かれたと聞いたとじゃが」
豊久は溜息を吐いた。
伯父二人を連れて、先程線香を上げた家久愛用の鎧が置かれている部屋に入る。
「一番に此処を調べなかったとですか?」
鎧の胴の部分を外すと、中に収納場所があり、そこに日記や幾つかの書が入っていた。
「鉄砲で撃たれても、日記や書物が受け止めて、心の臓までは届かんわいチ、親父は言うとった。
それにしても、武具の手入れは武家の習い。
鎧をそのままにして置くとは、失態ですぞ、御館様に左衛門の伯父上」
「う、うむ、其方の申す通りじゃ」
「おはんが戻るまでは手を付けず、後でおはんに継がせよう思うとったんじゃが、不覚じゃな」
義久、歳久、豊久、それに忠隣、忠長、以久と島津一族が集まって日記を読む。
一冊目は旅日記や人と会った記録であった。
織田信長が行軍の最中に居眠りをしていたという記述もある。
これはメモ書きのようなもので、清書した「家久君上京日記」は既に義久たちは見ていた。
二冊目は「天正十五年土耳古皇帝首、土耳古宰相首。取備存帝国皇帝首……」等と挙げた首級が記載されていた。
「こいは?」
「朱線が供養した首じゃ。
細かく何処そこの寺でどの坊主に経を上げて貰うたか書いてありもそ。
親父は慈悲深かったでな……」
「そうじゃな。
彼奴は心根の優しい男じゃった」
「仏心が有り、菩提心を持って敵とも相対した」
……島津一族以外には通じない会話である。
三冊目、そこには武器の改良案、見知った兵器の絵図が在った。
「天正三年四月塩飽、兵船絵図」
「こいは見た事あるの。
こん船なら薩摩でも作っちょる」
「天正三年四月堺、安宅船」
「こいじゃ、こいが何処行ったかと分からんかった」
「天正三年四月堺、南蛮船」
「こいも参考になるの」
「時に、織田の鉄張軍船は無かか?」
「木津川の戦は天正六年じゃっどな。
こん日記には無かじゃろ」
「そいでも、安宅船の事は助かった。
昔見せられた時は不要思うたが、まさか必要になっとはの」
一族の会話について行けない豊久は質問する。
「島津が海賊衆を立て直すとかい?
確かにジェノヴァの船方に頼るのもどうかと思うが、必要なのか?」
「必要じゃ。
こいを見よ。
米が採れるバレンシアという地はこげに遠い。
こいは陸路より海路じゃ」
「おお、イスパニアに攻むっとか!
何時じゃ?」
「気が早過ぎっど!
我等、シチリアをようやく収め、薩州家も米を送って来いよう。
じゃっどん、何時また足りなくなるか分からん。
そん時に慌てんよう、転ばぬ先の杖じゃ」
「流石は左衛門の伯父上。
薩摩一の知者ごわすな」
(言えん。
薩州家が耶蘇に転んだかも知れぬ事や、家久殺害に噛んでいるかも知れぬ事。
そして肝付家もそいに引き摺られたかも知れぬ事。
迂闊に話すと、泳いで征伐しに行くチ言いかねん)
豊久を見てそう思う歳久である。
日記を進めていくと、フス派の装甲馬車、西洋式城郭、ガレー船や遠目に見たガレアス船の絵図がある。
そして……
「こいは何じゃ?」
そこには西洋船と安宅船を足し合わせたような、四方を城壁のような装甲板で覆い、そこから砲がズラリと出ている船の絵図が
「おいのかんかえたつよかいくさふね」
の下書きと共にあった。
例えるならガレオン船に安宅船の要素を入れたようなもの。
違うのは、櫓が建っているところだ。
清書してないから、落書き的な走り書きが点在している。
「高みにて大ほうしきする」
「切りこみふねをたすく」
「大しょうのるへし」
等と有り、どうやら旗艦としての運用を考えた船のようだ。
次には斬込跳橋を付けた関船。
家久の構想は、砲撃主体の旗艦で敵船または上陸地点を砲撃し、敵火力を沈黙させたところで関船により切り込みを行う、それに於いて接舷乗り込みをし易い乗込橋を使うものであった。
これが妥当かどうかは分からない。
家久は海戦は経験が無い。
海軍の必要性に気付いたから描いてみたが、自分でも納得していないようで、墨塗りで消した痕もある。
実際、この絵図通りだとトップヘビーで役に立たないだろう。
とりあえず島津家は欲しかった情報を手に入れた。
装甲馬車も西洋式城郭も乗込橋も砲兵戦術も、亡き家久の知識が一族に還元されたと言って良い。
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そして、やっとシャルロット・ザルモアーズ・ド・ヴァロワ=ブルゴーニュ嬢が一族に紹介される。
西洋式の立礼でなく、日本式の礼を学んでいる辺り如才ない。
「おはんがジャンヌ・ダルクの娘御じゃな。
遠路大義であった」
正しくはジャンヌ・ダルクを支えていたジャンヌ・デ・ザルモアーズの娘なのだが、シャルロットは夫を見て、細かい事を指摘すると癇癪を起されると知っている。
「サヨウ、ゴザイモス。
コウゴ、ヨロシュウ」
短くそう言うと
「おお! 我等の言葉を学びおったか、殊勝じゃ!」
「口数が少ないのも気に入った」
「聞けば京の公家より正室を迎えると、地の言葉も話さぬ、京風の仕来たりも変えぬ、気位ばかり高く、口を開けば文句ばかりとか聞いた事がある。
それに比べ、ブルゴーニュ公の娘というに、実に謙虚じゃ」
「侍従殿、いや中務少殿、良か嫁御を貰いもしたな」
一族に気に入られたようだ。
そして夜、島津豊久の鹿児島屋敷(元々は家久の屋敷)で、一族の者を招いての宴が催される。
薩州家以外の島津一門、分家当主も来る為相当な人数であった。
シャルロットと共に薩摩に来た侍女たち総動員で、ブルゴーニュ料理とロレーヌ料理を作る。
彼女にとって本当に幸運だったのは、日本でも稀な肉食かつ悪食の薩摩人が相手だった事だろう。
肉料理は特に好評だった。
牛肉料理は
「こげに美味か牛バ食ったら、明日から農作業させずに、解体して食いとうなっで。
まっこて、悩ましか料理バ作っおごじょじゃで」
と苦情の形をした最高級の評価である。
薩摩では豚は食用だが、牛は農耕用。
老いて死んだら食べる為、牛肉はゴリゴリした筋料理なのだ。
そこはブルゴーニュ料理、老牛の腱は煮出してスープを取り、肉牛も成長したものはあえて塩で味付けしただけ、子牛は味が薄い為ソースを作り、とろける柔らかさと、ソースの味で食べさせる。
臓物も臭みを取って、煮込み料理とする。
無駄なく使ってみせた事にも薩摩人は喜ぶ。
こうして、薩摩にブルゴーニュ料理とロレーヌ料理が持ち込まれた。
一度味を覚えてしまえば、薩摩人は案外柔軟である。
臓物系煮込み料理、エスカルゴや食用カエル等を取り入れていく。
京都辺りに持っていけば、罰当たりで穢れに触れるようなゲテモノ料理だが、薩摩人は気にしない。
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さて、薩摩にフランスの臓物料理をもたらした豊久とシャルロットの結婚だったが、本来はそれを期待してキリスト教陣営は賛成した訳ではない。
島津家は宗教に無頓着だから、上手くいけば取り込めるかもしれない。
心に一点の迷いも無い家久のような男は宗教に転ばない。
だが、そんな芯となる家長を失った家族は、次第に宗教に傾くかもしれない。
そう思っているようだが、それは島津家久を知らない故の思い込みだ。
島津家久の母親は、義久、義弘、歳久の母親よりも圧倒的に身分が低い。
それを気にしていた幼少時なら宗教に転ぶ事も有っただろう。
だが家久は「自分を受け入れ、諭してくれた御当主の為に死のう」と決める。
そして島津の家の為に役に立つのは戦であると決め込んだ。
一度そう決めた家久は生き方を単純にした。
戦こそ人生、戦で役に立つから自分には意味が有る、我戦う故に我有り、天上天下唯戦至尊。
その価値観を息子たちにも叩き込んである。
人間だから普通に喜怒哀楽は有るし、冗談も言うし、後のプロイセン軍人のような堅苦しさは無い。
だが、根っこの部分に単純化した生き方が有る為、迷わない。
それは豊久も忠仍も同じである。
島津家自体が、義久は「薩摩」、義弘は「武」、歳久は「家の為の智」が芯となっている為、揺るがない。
罪悪感も無力感も負の感情は全て、芯となるものの為であるなら正当化されるから、宗教は入り込む余地が無い。
四兄弟やその息子たちは、何万人殺そうと気に病まない。
「私利私欲で殺したのではない。
全ては島津のお家の為で、人が飯を喰らうようにそうせにゃならんだけ。
俺い達の糧になってくれた事には感謝する」
とこんな哲学なのだ。
これが後々までの武器となる。
一方のシャルロットも、ローマ教皇やブルゴーニュ公等の思惑等知らず、島津家にキリスト教をもたらす気は全く無い。
母親の「軍事面でのジャンヌ・ダルク」ことジャンヌ・デ・ザルモアーズがキリスト教に疑いを持っているのだ。
彼女は生まれながらに忌み児として棄てられ、故郷はイングランドによって蹂躙され、自らを捧げて共に国や神に尽くした筈の「オルレアンの乙女」は神の名でこの世から消滅させられた。
名誉回復の為にローマ教皇に縋ってはみたが、彼女の根っこの部分にはキリスト教への不信感がある。
彼女もまた、「我戦う故に我有り」と思っている節が有った。
家久は直感的にそれをジャンヌに感じ、息子の妻に望んだのだが、既婚者だった為娘を求めた。
このようにまだ島津家には家久の意志が生きているのだ。
しかし、それを周囲はまるで分からない。
島津家久が死んだという事実が広がり、「イェヒさえいなければサツマニア、恐るるに足らず」と反薩摩の戦火が上がる事になる。
あの世にて:
家久「なんか敵も味方も俺いん事、実物より大きう見ちょらんか?
俺いが居らんても、又四郎兄サァが居たら薩摩は負けんじゃなかか?」




