ダルクヘイムは終了しました⑤(終)
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アゼルは不意に地を蹴って数メートルほど後方へと下がった。
その動作は明らかに攻撃に転じるというよりは、何かを準備しているのだと見て取れる。
しかも、その“何か”が尋常ならざる代物だという事もイグドラには分かる。
ただの剣戟や魔術程度であれば、こんな挙動はしないだろう。
その証拠に、アゼルは腰に吊った長剣の柄にはまるで触れていない。
代わりに──右手を高々と天へと掲げた。
イグドラは低く息を吐く。
逃げもせず反撃に出る人間など久しく見ていないし、そもそも先ほどまでは逃げるか戦うかで逡巡してきたのは自分のほうだ。
なのに今、こうして人間の若者が堂々とこちらを迎え撃つ構えを見せるとは。
──勇敢なる者よ、お前を殺してその血肉を喰らい、誇りを取り戻させてもらおうッ
だがイグドラは今にも放とうとしていたブレスに更に魔力を注ぐ。
イグドラ自身をも傷つけかねない全身全霊の一撃の為に。
アゼルはそのまま掲げた右手をグッと握り込み、まるで大上段から斬りかかろうとするかのように腕を振り下ろす準備を始める。
しかしアゼルの手には剣は存在しない。
鞘に収まったままの長剣が腰のあたりで風を受けて揺れるが、それに手をかける気配はまったく感じられない。
イグドラは一瞬訝しんだが──
アゼルの唇が微かに動いたのを、聞き取った。
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「聖剣よ、在れ」
その言葉が発せられた瞬間、アゼルの右手──いや、その掌付近から光の粒が収束するように集まり始めた。
周囲の砂粒や小石が微かに震えだし、続いてアゼルの足元から円環にも似た魔力の輝きが立ち昇る。
──聖剣だと!?
その瞳には明確な警戒の色が滲む。
聖剣を持つ者──つまりそれは。
──勇者、か。悪魔から逃げのびたと思えば、今度は勇者とは
しかしいまさら退くという選択肢はイグドラにはない。
勇者を殺し、その血肉を貪ればあるいはあの悪魔にも勝てるかもしれないという想いがある。
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光とは何か。
魔術師たちはそれを「火の一種だ」とか「神々の息吹の一部だ」とか、時に妙な譬えで説明しようとしてきた。
しかしアゼルが詠唱を通じて呼び出そうとしている現象は、そのいずれとも異なる。
かつての世界で、アゼルは幾度となくこの力を振るってきた。
勿論代償はある。
しかし今ここで、再び顕現させせざるを得ないと判断したのだろう。
それはイグドラがそれだけ強い力を持つ竜だからだ。
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イグドラは視界が歪むような錯覚を覚えた。
アゼルの手元にまばゆい光が凝縮されていく。
そうして、光条がアゼルの右手から空高く伸びていった。
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イグドラは思わず身を震わせる。
竜としての第六感が警鐘を鳴らすのだ。
逃げろ、と。
殺されてしまうぞ、と。
しかし事ここに及んでは──
イグドラの竜口からブレスが迸った。
雷鳴が空気を砕く。
そして一際眩い閃光が。
──更に眩い光条によって呑み込まれた。
聖剣一閃
光刃はまさに天地を斬り裂く勢いで、襲い来るブレスをもろともイグドラを叩き斬る。
10000℃を超えかねない超高エネルギーの戦略兵器──それこそが聖剣フィアット・ルクスの実態であった。
イグドラは反射的に防御のために竜鱗へ魔力を集中させるが、光熱の奔流の前ではほんの一瞬たりとも抵抗できなかった。
みるみるうちに鋼より堅固な竜鱗が溶解し、骨格や生々しい肉が露わとなって、さらにそれらさえも容赦なく焼き切られていく。
聞いた者の精神の平衡が崩れるほどの絶叫が荒れ地に轟いた。
辺りには灼熱された空気が激しい上昇気流を生み、砂と灰を巻き上げながら熱風を吹き荒らす。
大気が振動するその音は、雷とも嵐とも判じ難い。
そうして脳が痛覚情報を処理しきれないまま、断片的に意識が引き剥がされ、イグドラはその意識を永遠に失う事となった。
◆◆◆
戦場となった荒地には、どす黒い煙と高熱に炙られた砂埃だけが残る。
イグドラの死体はもはや原形を留めておらず、何かの塊のようなものが残るばかりだった。
かろうじて残った翼膜や、溶け落ちた鱗の一部が焼け焦げた屍骸と混ざり合い、誇り高き竜の戦士の姿は見る影もない。
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「……はぁ、はぁ……っ」
アゼルは息を大きく荒らげ、荒れ地に片膝をついている。
その頬はさきほどまでの血色を失い、見るからにやせ細っていた。
唇はひび割れ、皮膚のあちらこちらが湿り気を失っていて、髪の生え際から滝のような汗が流れ落ちる。
体内の魔力だけでは足りず、生命力の根源すら削ぎ落とすような代償を要するのが“聖剣”の大きな代償なのだ。
あの一撃でアゼルが喪った寿命は1年やそこらではないだろう。
5年か、あるいは10年か。
ゆっくりと呼吸を繰り返そうにも、肺の奥がヒリヒリと痛む。
まるで酸欠状態に陥ったかのように息が上がり、頭がくらくらと揺れた。
それでもアゼルは歯を食いしばって立ち上がる。
ここで倒れ込むわけにはいかなかった。
まだやるべき事があるからだ。
「……それにしても、なんで……イグドラがこんな……」
かすれた声でそう呟き、朽ちかけた竜の屍骸へともう一度目をやる。
この一戦で、アゼルは確かに勝利を掴んだ。
だが何かが胸に引っかかるのだ。
なぜならば、 元の世界でアゼルとイグドラが対峙したのはまだまだ先、いまより2年後の事だからである。
イグドラはたった一人でどこへ行こうと、一体何をしようとしていたのか。
考えても分からなかった。
元の世界とこの世界は同じ様にみえて、しかし同一ではない。
ふとアゼルは、二つの世界の一番の相違点──すなわち、ハインの事を考える。
──ハイン、お前が何か……関係しているのか?
そんな自問。
当然、答えはない。




